【出エジプト記21:26~23:30】(2021/10/24)


【21:26~27】
『自分の男奴隷の片目、あるいは女奴隷の片目を打ち、これをそこなった場合、その目の代償として、その奴隷を自由の身としなければならない。また、自分の男奴隷の歯一本、あるいは女奴隷の歯一本を打ち落としたなら、その歯の代償として、その奴隷を自由の身にしなければならない。』
 もし主人により奴隷が目や歯を損傷させられたのなら、その奴隷は自由の身になることができました。これは、主人がその奴隷を非人道的に取り扱ったからです。律法は、そのような奴隷が主人の支配から解放されるように命じています。ちょうど今の時代で虐待されている子どもが親のもとから助け出されるのと一緒です。ここでは目や歯について言われていますが、これは一例を示しているに過ぎません。つまり、ここで言われているのは「身体の損失」です。よって、目や歯以外でも、例えば腕を切断されたり、耳を聞こえなくさせられたり、脳に障害を負わせられたりするのであれば、主人はその奴隷を解放しなければいけません。また、ここでは『男奴隷』と『女奴隷』がしっかりと個別的に挙げられています。これは単に「奴隷」と性の区別なしに書かれていれば、「ここでは男奴隷(または女奴隷)のことだけしか言われていない。」などと自分の好きなように解釈する者が出かねないからです。また、ここでは同じことが2回繰り返して書かれていますが、これはこの箇所における定めが非常に重要だからであって、大いに心に留められるべきだからです。

 神はこのように言われることで、奴隷であっても蔑ろにしてはいけないことを示しておられます。というのは、たとえ奴隷であっても神の似姿であることには変わらないからです。神は主人が奴隷を御自身の似姿として尊重するよう求めておられます。パウロも主人は奴隷を蔑ろにすべきではないと命じています(エペソ6:9)。

【21:28~32】
『牛が男または女を突いて殺した場合、その牛は必ず石で打ち殺さなければならない。その肉を食べてはならない。しかし、その牛の持ち主は無罪である。しかし、もし、牛が以前から突くくせがあり、その持ち主が注意されていても、それを監視せず、その牛が男または女を殺したのなら、その牛は石で打ち殺し、その持ち主も殺されなければならない。もし彼に贖い金が課せられたなら、自分に課せられたものは何でも、自分のいのちの償いとして支払わなければならない。男の子を突いても、女の子を突いても、この規定のとおりに処理されなければならない。もしその牛が、男奴隷、あるいは女奴隷を突いたなら、牛の持ち主はその奴隷の主人に銀貨三十シェケルを支払い、その牛は石で打ち殺さなければならない。』
 牛が誰かを殺したなら、その牛は殺処分されねばなりませんが、牛の持ち主は無罪とされます。何故なら、人を殺した責任は牛にあるのであって、牛の持ち主は何ら悪意を持っていないからです。神は既にノアの頃から、動物であっても人を殺せば死ななければならないと命じておられました(創世記9:5)。その殺された牛の肉は食用にしてはいけませんでした。何故なら、その牛は純粋に処分されるべきであって、食べるために殺されたのではないからです。また、ここでは牛が『突いて殺した場合』について言われていますが、これは一例であって、踏み殺したり嚙み殺したり蹴り殺したりした場合でも牛が殺されなければならないのは明らかです。

 しかし、持ち主の怠慢や愚かさのせいで牛が人を殺した場合は、牛と共に持ち主も殺さなければなりませんでした。何故なら、その持ち主は牛が殺すのを防止しないことで、牛に殺人行為を行なわせたことになるからです。つまり、その持ち主は殺人牛の共犯者と見做されます。ですから、その持ち主は牛と共に死罪を犯したことになります。

 牛に殺された人の遺族は、牛の持ち主が死刑になる代わりに罰金を要求することもできました(30節)。牛の持ち主は、遺族が要求した額に基づいて裁判官の定めた額を必ず支払わなければなりません。その支払額が、2021年の日本円に換算すれば100億円だったとしてもです。何故なら、それは『いのちの償いとして』の代金だからです。

 しかし、牛の持ち主の怠惰や愚かさのせいで殺された人間が奴隷であれば、死ぬのは牛だけでよく、持ち主は奴隷の主人に『銀貨三十シェケル』を支払えばそれで済みました。何故なら、奴隷とは財産だからです。加害者はあたかも人の家や乗り物を破壊した時に弁償するかのように償いをすれば、それで問題ありませんでした。殺された奴隷からすればこれは堪ったものではありませんが、神が奴隷という財産の損失を償えばそれで良いと定めておられるのですから、牛の持ち主は『銀貨三十シェケル』を支払えば間違いありませんでした。

 この箇所では『牛』について言われていますが、人を殺した動物が牛以外の動物でも殺処分されなければいけないというのは、わざわざ説明するまでもないことでしょう。犬であれ蛇であれ馬であれ豚であれ人を殺した動物は必ず殺されなければなりません。

【21:33~34】
『井戸のふたをあけていたり、あるいは、井戸を掘って、それにふたをしないでいたりして、牛やろばがそこに落ち込んだ場合、その井戸の持ち主は金を支払って、その持ち主に償いをしなければならない。しかし、その死んだ家畜は彼のものとなる。』
 井戸の蓋を開けたままにしているなどして誰かの家畜が落ちて死んだならば、井戸の持ち主は死んだ家畜を弁償せねばなりません。これは明らかに井戸の持ち主が悪いからです。しかし、弁償以外に慰謝料といった罰金を支払う必要はなかったと思われます。何故なら、ここでは弁償のことしか書かれていないからです。井戸に落ちて死んだ家畜は井戸の持ち主の所有物となります。この持ち主は井戸に蓋をしておくべきでした。この律法を現代に適用させるとすればこうなります。ある人の家の壁際に毒を持つ草がありました。そこに主人と散歩中の犬がやって来て、その草を何も知らずに食べたので、犬は死んでしまいました。この場合、その家に住んでいる人は死んだ犬を弁償しなければいけません。その人は家の壁際にある毒草を、散歩中の犬が食べないように抜き去っておくべきでした。この戒めは十戒の第8番目に属しています。『盗んではならない。』という戒めの本質は、既に述べたように「他人の所有物を保持し尊重すること」です。この箇所に書かれている井戸の持ち主は、井戸に蓋を閉めないというその怠惰により、『盗んではならない。』という戒めの本質に違反したのです。

【21:35~36】
『ある人の牛が、もうひとりの人の牛を突いて、その牛が死んだ場合、両者は生きている牛を売って、その金を分け、また死んだ牛も分けなければならない。しかし、その牛が以前から突くくせのあることがわかっていて、その持ち主が監視をしなかったのなら、その人は必ず牛は牛で償わなければならない。しかし、その死んだ牛は自分のものとなる。』
 ある2人がそれぞれ一匹の牛を持っていて、一方の牛がもう一方の牛を殺した場合、生きているほうの牛を売って折半すればそれで済みました。何故なら、もしかしたら殺された牛のほうが殺した牛を殺していたという逆のケースも十分に起こり得たからです。殺した牛の持ち主は、自分の牛が殺さるほうになっていなかったとどうして言えるでしょうか。また殺された牛の持ち主は、自分の牛が殺すほうになっていなかったとどうして言えるでしょうか。牛は気まぐれなのです。この時に死んだ牛は半分に分けて、それぞれの持ち主が好きなように用いることができました。

 しかし、持ち主の怠惰や愚かさのせいで牛が殺害をした場合は、当然ながらその持ち主は殺された牛を弁償しなければいけません。これはその持ち主が明らかに悪いからです。しかし、その牛の持ち主が罰せられることはありません。

 この戒めでは、悪意の有無により定めが異なっています。すなわち、悪意がなければ無罪となり、悪意があれば有罪となります。このように聖書の律法では、心の意図が大きな意味を持っています。現代の司法でも被疑者の意図を重要視していますが、これは正しいことであり、律法に適っています。

【22:1】
『牛とか羊を盗み、これを殺したり、これを売ったりした場合、牛一頭を牛五頭で、羊一頭を羊四頭で償わなければならない。』
 家畜を盗んで失わせた者は、牛であれば5倍、羊であれば4倍にして弁償しなければいけません。牛が5倍であるのに対し羊は4倍なのは、牛の価値のほうが高く、盗人にとっては良い獲物だかです。羊は牛に比べて沢山おり、盗人からすれば牛よりも魅力的な獲物ではありませんから5倍ではなく4倍です。この倍数の違いは、より盗まれるべきでない物により盗むことのリスクを高めさせるためです。これを現代に適用するとこうなるでしょう。「宝石類や自転車を盗み、それを盗んだ後で消失させた場合、宝石類を5倍の額で、自転車を4倍の額で償わなければならない。」なお、ダビデはⅡサムエル記12:6の箇所で、この戒めに基づいて羊を4倍で償うべきだと語っています。またザアカイも、悔い改めた際、この戒めに基づいて償いをすると言っています(ルカ19:8)。

【22:2~4】
『―もし、盗人が、抜け穴を掘って押し入るところを見つけられ、打たれて死んだなら、血の罪は打った者にはない。もし、日が上っていれば、血の罪は打った者にある。―盗みをした者は必ず償いをしなければならない。もし彼が何も持っていないなら、盗んだ物のために、彼自身が売られなければならない。もし盗んだ物が、牛でも、ろばでも、羊でも、生きたままで彼の手の中にあるのが確かに見つかったなら、それを二倍にして償わなければならない。』
 暗い夜間に抜け穴を通ろうとしている盗人が住人から迎撃されて死んだなら、その住人に『血の罪』はありません。つまり、人を殺したものの無罪であり、死刑にはなりません。何故なら、その時には視界が悪かったからです。その住人は盗人を自己保身のため迎撃する必要に迫られますが、もし暗くてよく見えないからというので迎撃しなければ盗人から殺されてしまいかねないのです。ですから、律法は暗い時に迎撃して行なわれた殺人を無罪に定めています。しかし、視界が明るければ、盗人を迎撃により殺してしまった住人は有罪となります。何故なら、視界が明るかったので、殺さず迎撃することもできたのにかかわらず、殺すことで迎撃してしまったからです。

 もし盗人が捕まった際に無一文だったならば、その盗人が売られることで盗んだ物の償いをします。すなわち、盗人を奴隷として誰かに売り、その売ったお金で弁償をするのです。ここで「何なのだ、その厳しい弁償方法は。」などと訝しげに思う人がいるかもしれません。特に今の時代であればこのように思う人はかなり多いかもしれません。今の時代は加害者のことばかり考えています。被害者よりも加害者を憐れみ、尊重しています。ですから、加害者に厳しい刑罰が加えられると聞くと抵抗感を持つのです。これは私たちが堕落していることを示しています。もし堕落していなければ、このようではなかったはずです。私たちは被害者のことを何よりも考えねばなりません。被害者に100%の比重をもって憐れまなければなりません。それでは、どういうことになるのでしょうか。被害者に生じた損失を回復させることが何よりも優先されねばならないことになります。ところが、無一文の人には、損失を回復させようにも回復させる金銭また物品がありません。ですから、そのような人は自分を売ることで損失を回復させねばならないのです。ここで堕落した心は加害者のことをどうしても考慮しがちになります。ですが、被害者のため加害者は無視されるぐらいが調度よいのです。これこそ真に人権的な考え方です。何故なら、最も憐れまれるべき被害者をこそ何よりも第一に考えているからです。そのようにすれば被害者の損失が回復されるので、社会正義が実現されることになります。加害者は悪を行なったわけですから、たとえ売られることになっても自業自得です。被害者の受けた損害や、その損害により生じた悲しみ、不幸、ストレスなどを考えてみて下さい。どうして悪人を考慮して可哀そうな被害者を蔑ろにするのでしょうか。

 もし盗んだ物が盗人の手元に失われないで残っていた場合は、それを二倍にして償います。すなわち、その時に盗人が持っている盗んだ物に、同じ物をもう一つ加えて返却するのです。盗んだ物を失わせた場合は4倍、5倍の償いとなりますが(出エジプト記22:1)、失わせなければ2倍で済みます。この倍数の違いは、盗んだ物を失わせることに高いリスクを生じさせるためです。

 現代の日本では万引きの被害が深刻な問題となっています。小売業は、止まることのない万引き被害に頭を悩ませています。日本における万引きの被害額は年間5000億円にもなります。これの解決方法は2つです。まず一つ目は、万引きをした人に、万引きした商品を使うか失っていた場合はその高級さに応じて5倍または4倍の弁償をさせ、万引きした商品を新品のまま持っていればその商品を2倍にして償わせます。これは神の聖なる律法が命じている通りです。二つ目は、万引きした人のリストを実名で店の目立つ場所に、その償った内容と共に示しておくことです。これは万引きしようとしている人を恐れさせて抑止させるためです。こんなことがされたら恐いでしょう。しかし恐いからこそ有効なのです。ですから、このようにすれば万引き被害が減少するはずです。ところが様々な店を見ても、このようにしているところは全くありません。ただ「万引きは犯罪です」とか「防犯カメラ設置中」などと書かれている紙が貼られているぐらいです。これでは万引きの被害が止むはずはありません。こんなことをしてもゾッとさせることはできないからです。しっかりと数倍の弁償をさせ、実名を出して威嚇し、強い抑止力を生じさせるべきです。甘やかさず、妥協せず、恐れない。万引きという悪に徹底抗戦する。こうでもしない限り、いつまで経っても万引きは止まないでしょう。現に万引きの被害は今でも相変わらず続いています。しかし、少数の店だけがこのように始めるのは危険が大きいと思われます。業界全体が皆揃ってこのような一大対策を実施すべきでしょう。「そんなことはできない。」?―では万引きの被害に悩まされ続けるしかないでしょう。万引き犯を思いやって毅然とした態度で立ち向かわないのであれば、ずっと万引き被害が続くのは理の当然です。

【22:5】
『家畜に畑やぶどう畑の物を食べさせるとき、その家畜を放ち、それが他人の畑の物を食い荒らした場合、その人は自分の畑の最良の物と、ぶどう畑の最良の物とをもって、償いをしなければならない。』
 自分の家畜が誰かの畑を食い荒らした場合は、金銭で償うのではなく、果物や野菜により償います。何故なら、損失されたのは作物なので、作物により損失が回復されるべきだからです。その際は最良の作物で償わなければなりません。ここでは自分の畑にある作物で償うべきだと言われていますが、もし畑がなければ市場で最良の作物を買うべきだったはずです。これは今の時代で言えば、散歩中の犬が誰かの庭にある作物を荒らした場合、犬の主人が作物により償いをすることです。その主人が自分の家に庭や畑を持っていないのであれば、デパートにでも行って高級フルーツの詰め合わせでも買わなければなりません。この戒めは、明らかに十戒の第8番目に属しています。

【22:6】
『火災を起こし、それがいばらに燃え移り、そのため積み上げた穀物の束、あるいは立穂、あるいは畑を焼き尽くした場合、出火させた者は、必ず償いをしなければならない。』
 火災を起こして誰かの所有物を損なった場合、その損失を全て弁償します。必ずそれは弁償されねばなりません。聖書はこの罪に対し禁錮や懲役を定めていません。何故なら、そのような罰を下しても、あまり意味はないからです。しかし、損失させた物を弁償するためには、火災を起こした者が全財産を売ることも必要となります。もし全財産を売っても弁償できなければ、自分を売って弁償しなければいけません。この戒めも出エジプト記22:5の戒めと同じで、やはり十戒の第8番目に属しています。すなわち、『盗んではならない。』とは「火災を起こして隣人の所有物を損なわない。」ということです。何故なら、『盗んではならない。』という戒めの本質は隣人の財産に対する愛だからです。火災を起こした者は、その火災により隣人の財産を損ねたので、第八戒の本質に違反したのです。火災はその多くが愚かさにより起きています。例えば、天ぷらを揚げている時にその場を離れたり、コンセントの埃を放置したままにしていたり、まだ火の残っている煙草を平気で捨てたりするのがそうです。これらは隣人への愛がどれも欠如しています。もし隣人を愛していれば、火災の危険性を考え、このようなことはしないはずだからです。本当に心から隣人とその財産を愛するのであれば、その人は万が一の時に備えて、消火器具などを十分に備えておくはずです。愛が無いか足りないと、隣人とその財産に対する配慮が弱まるので、そういった器具を用意することもしません。「いや、私はコンセントの埃を掃除したり消火器具を用意したりしていないけども、隣人を愛しているよ。」などと言われるでしょうか。このように言う人は、確かに口では愛しているでしょうが、その行ないでは憎んでいます。すなわち、その行為において「私は隣人なんてどうでもよいと思っている。」と暗黙のうちに言っています。もし本当に愛していたらコンセントを掃除したり消火器具を備え付けていたでしょうから。私たちは罪深い者たちですが、口先だけでなく行為においても愛さなければならないのです。それこそ律法の求めていることです。

【22:7~8】
『金銭あるいは物品を、保管のため隣人に預け、それがその人の家から盗まれた場合、もし、その盗人が見つかったなら、盗人はそれを二倍にして償わなければならない。もし、盗人が見つからないなら、その家の主人は神の前に出て、彼が隣人の財産に絶対に手をかけなかったことを誓わなければならない。』
 誰かから預かっていた物が盗まれた場合、その盗まれた物を持ったままで盗人が見つかったなら、その盗人は2倍の弁償をします。もし盗人が見つからないならば、物を預けられていた人は、疑いを晴らすため神の御前で潔白の誓いをせねばなりません。この誓いは、要するにもし偽って誓ったならば神からどのような罰を受けても構わないと約束することです。ですから、もし預けられた人が「私は手をかけていません。」と神において誓った場合は、全ての決着がつきます。しかし、その人が不遜にも偽誓をしていたとすれば、やがて神から罰されることになります。その時、預けられた物を誰が損失させたのか全て明らかになるのです。このような解決方法は誠に理知的です。神の知恵が示されているこのような律法は、これ以外の律法も含め称賛されねばなりません。

 このような時に神の御前で誓うのは問題ありません。神御自身がこのような時には『誓わなければならない。』と命じておられるからです。キリストとヤコブの言葉を挙げて誓いを全て禁じる人たちは、もうこれまで何度も説明してきましたから再びここで説明することはしませんけども、聖書の理解を誤っています。もし本当に誓いの全てが禁止されるべきだとすれば、この箇所をはじめ聖書の多くの箇所では誓いについて命じられていなかったでしょう。ところで、このようにして誓わせるのは、誓わせるのが宗教的な人であればあるほど効果を発揮します。特にアウグスティヌスやルターのようにその行動や文章から敬虔であることが明白である人に対しては、絶大な効果があるでしょう。しかし、中国人や無神論者に神の御前で誓わせようとしても効果は期待できないでしょう。何故なら、彼らは神をそもそも信じていませんから、誓うよう命じられても神の存在を否定したり、神の御名において平気で偽誓するだろうからです。

【22:9】
『すべての横領事件に際し、牛でも、ろばでも、羊でも、着物でも、どんな紛失物でも、一方が、『それは自分のものだ。』と言う場合、その双方の言い分を、神の前に持ち出さなければならない。そして、神が罪に定めた者は、それを二倍にして相手に償わなければならない。』
 横領事件の際、2人の人が紛失した物の所有権をそれぞれ主張するとすれば、その時は神への誓いが為されねばなりません。これは厳粛な誓いであり、もし偽っていたら悲惨になることを覚悟せねばなりません。そのようにして偽っている者が明らかになれば、偽っていた者は2倍の弁償をします。それが紛失しており、しかも動物であった場合、その貴重さに応じて5倍また4倍の弁償となります(出エジプト記22:1)。この戒めは偽証および盗みの罪に関することです。

【22:10~13】
『ろばでも、牛でも、羊でも、またどんな家畜でも、その番をしてもらうために隣人に預け、それが死ぬとか、傷つくとか、奪い去られるとかして、目撃者がいない場合、隣人の財産に絶対に手をかけなかったという主への誓いが、双方の間に、なければならない。その持ち主がこれを受け入れるなら、隣人は償いをする必要はない。しかし、もしそれが確かに自分のところから盗まれたのなら、その持ち主に償いをしなければならない。もしそれが確かに野獣に裂き殺されたのなら、証拠としてそれを持って行かなければならない。裂き殺されたものの償いをする必要はない。』
 誰かから預けられた家畜が害された場合、目撃者がいなかったのならば、預かっていた者は潔白を証明するため神の御前で誓わねばなりません。家畜の持ち主がその誓いを受け入れるならば、弁償は不要となります。何故なら、預かっていた人は命がけの誓いをしたのですし、家畜の持ち主もその誓いを受け入れたからです。しかし、もしその誓いが偽りであれば、やがて神がその人に復讐されることとなります。この箇所の戒めは、先に見た出エジプト記22:7~8の箇所における戒めとほとんど一緒です。先のほうは預けられたのが『金銭あるいは物品』(出エジプト記22:7)であり、こちらのほうは『家畜』すなわち生命体であるという点が異なっているだけです。

 もし預けられた物を盗んだ者が見つかった場合、それが失われないままでいたならば、その盗人は2倍の弁償をせねばなりません(出エジプト記22:4)。しかし、それを失っていたならば5倍または4倍の弁償額となります(出エジプト記22:1)。

 もし預けられた物が野獣に殺された場合は、野獣に殺された証拠を示さねばなりません(13節)。ちょうどヨセフの兄たちがヨセフの死を父ヤコブに対して示した時のように(創世記37:32~33)。その証拠が確かであると認められたならば、裂き殺された家畜を弁償する必要はありません。何故なら、家畜を死なせた責任は預かっていた者にないからです。もし預かっていた者が何らかの悪意から、ヨセフの兄たちのように家畜の死を偽装したとすれば、真実が明らかになった際は弁償せねばならなくなります。その場合は家畜が失われていますから5倍か4倍の弁償となります。

 預かっていた家畜が預かっている時に自然死した場合は、預かっていた者に責任はありませんから、弁償は不要です。家畜が勝手に自分を負傷させた場合も同様です。もちろん、家畜が死んだり傷ついたりした場合でも、神への誓いは必要となります。

【22:14~15】
『人が隣人から家畜を借り、それが傷つくか、死ぬかして、その持ち主がいっしょにいなかった場合は、必ず償いをしなければならない。もし、持ち主がいっしょにいたなら、償いをする必要はない。しかし、それが賃借りの物であったなら、借り賃は支払わなければならない。』
 借りていた家畜が害された場合、持ち主が借り主と一緒にいれば弁償しなくて済みますが、一緒にいなければ弁償せねばなりません。何故なら、持ち主が一緒にいた場合はその持ち主が家畜の管理責任を持っているのであり、一緒にいない場合は管理責任が借り主に移行するからです。しかし、持ち主が一緒にいて家畜が害された場合であっても、借り賃はしっかり持ち主に支払われなければなりません。それは、家畜が借りられた時点で借り賃を支払う義務が既に生じているからです。この戒めは十戒の第8番目に属しています。

【22:16~17】
『まだ婚約していない処女をいざない、彼女と寝た場合は、その人は必ず花嫁料を払って、彼女を自分の妻としなければならない。もし、その父が彼女をその人に与えることを堅く拒むなら、その人は処女のために定められた花嫁料に相当する銀を支払わなければならない。』
 婚約していない処女と一緒になった男は、その処女と必ず結婚せねばなりませんでした。これは聖書において結婚と秘事がセットだからです。すなわち、結婚するからこそ秘事も行なわれるのであり、秘事をするからこそ結婚しているわけです。これは、ロックフェラーをはじめとした陰謀家の蔓延させた戦後以降のフリーセックス思想が当たり前となっている今の社会では理解しにくいかもしれませんが、純粋に考えれば至極当然のことです。このようにして結婚する際には『花嫁料を払』わねばなりませんでしたが、これは今の日本ではあまり馴染みがありません。しかし、古代イスラエル社会でこの花嫁料は常識的なことでした。

 しかし、娘の結婚権を持つ父がその男に娘を与えようとしないのであれば、その男は結婚できないにもかかわらず、花嫁料に相当する額を支払わなければなりませんでした。つまり、これは慰謝料と見てよいでしょう。その男は結婚する前に勝手に一緒になってしまったのですから、慰謝料を支払わねばならなくなっても自業自得です。結婚してから一緒になるというのが御心であり、正しいやり方なのですから。

 この戒めは性のことを取り扱っていますから、十戒の第7番目に関連しています。

【22:18】
『呪術を行なう女は生かしておいてはならない。』
 『呪術』とは何でしょうか。エジプトの呪法師たちがモーセに対抗しようとして行なった仕掛けのあるオママゴトです(出エジプト記7:11)。それは巧妙に仕組まれた欺きです。もう少し詳しく言えば、トリックの伴った宗教的または神秘的なマジックです。これは悪魔の働きであり、術者たちは自分自身をも周りの人々をも本気で欺いています。モーセの時代のイスラエルには、呪術を行なう女が見られたのかもしれません。そうでなければ、これは将来のために言われたのでしょう。つまり、これからイスラエルの女たちが異教徒たちの魔術を自分たちも行なうかもしれないので、こう言われたのかもしれません。今の時代で多くの女占い師やスピリチュアルな業を行なっている女がいることからも分かる通り、女は男に比べてそういったことに染まりやすいからです。神は、呪術を行なう女を死刑に定めています。「私の使命は魔術を世界に一般化させることである。」と述べたアレイスター・クロウリーの影響などもあり、現代社会には魔術的な要素が沢山あります。クロウリーによれば企業の特徴的なロゴも魔術の一種だといいます。映画やアニメや漫画や小説やゲームなどでは、ごく普通に魔術が使われていますが、誰も不思議に思ったり問題視したりしません。そういった魔術が一般化している時代に生きている私たちからすれば、魔術が死罪だと聞かされてもあまりピンとこないかもしれません。しかし私たちがどう思おうとも、神は魔術を死罪に定めておられます。どうして魔術が死に値するかといえば、それは御民を唯一真の神から引き離すからです。魔術は明らかに真の神から出ていません。真の神から出ていると魔術師が言ったとしても、魔術を人に行なわせる神など真の神ではありません。もし魔術を見て私たちの心が揺り動かされるのであれば、私たちの心は神でない存在へと傾きかねません。魔術の出所は神ではないのですが、その魔術が魅惑的に感じられるからです。もし私たちの心が魔術により神から逸らされるのであれば、そのようになるのは唯一の神だけを神とするよう命じている十戒の第一番目に違反することです。この唯一の神こそが、人間にとって最も重要な存在です。ですから、真の神へと心を傾けさせなくする魔術は死罪となるのです。

 この戒めでは呪術を行なう『女』だけしか書かれていませんが、これが男についても言われているのは明らかです。これは普通に考えれば誰でも分かるでしょう。健全な理解力を持った読者に対しては、このことをわざわざ詳しく説明する必要はないと思われます。ところが、中にはここで『女』としか書かれていないからというので男は呪術を行なっても死には価しないと考える人もいます。こう考える人は聖書の読解力が欠如しており、どのように説明されても自分の考えを改めることがありません。

 新約時代において、魔術を行なう者は見つけるのにそう苦労しません。最も有名なのは、やはりイギリスのアレイスター・クロウリーだと思われます。彼は本物の魔術師であり、魔術的な儀式殺人で何十人も殺したぐらいの悪人です。このクロウリーが影響を受けたマグレガー・メイザースやエリファス・レヴィなども有名な魔術師です。アブラハムというユダヤ人の魔術師も中世にはいました。彼は、真の魔術を行なうことなしに神の御心を知ることは決してできない、と心から信じていました。魔術そのものがそもそも神の御心に適っていないのですが…。アメリカの有名なジャーナリストであるアレックス・ジョーンズという人は、世界の指導者たちが行なっているボヘミアングローブでの魔術的な儀式を盗撮することに成功しました。私はその映像を見たことがあり、他にも見たことのある人は多くいると思いますが、今でも実際にそういった魔術的な儀式が途切れることなく行なわれているのです。世界的に有名な歌手であるレディー・ガガも魔術的な儀式に参加していますが、私は彼女がその儀式に参加している画像を見たことがあります。このような魔術師たちや魔術儀式は調べれば他にもたくさん見つかります。教会はこういった魔術を批判し、禁止し、滅亡するよう願い求めねばなりません。何故なら、それは死罪であって御心に適わないからです。教会はキリストの命令通り、御心がこの地上でも行なわれることを願い求めねばならないのです。神の御心は魔術が行なわれないことです。ですから魔術を行なわず、またそれを行なわないように教える教会は、神の御前で偉大です(マタイ5:19)。しかし、教会が何と言おうとも、世界を牛耳っている悪魔崇拝者たちは、魔術儀式を行なわなければ悪魔から力が受けられないので、魔術的な業を決して止めはしないでしょう。このような者たちはどうしようもありません。しかし、彼らは最後には裁かれて没落するのです。そして、彼らにより作り上げられた諸々の文明的な遺物は正しい者たちが相続するのです(箴言13:23)。

 私たちは、いかなる魔術とも関わらないようにすべきです。この戒めからも分かる通り、魔術とは死罪であって御心に適わないからです。魔術を行なうのであれば地獄に行きます。『魔術を行なう者…の受ける分は、火と硫黄との燃える池の中にある。』(黙示録21章8節)と書かれている通りです。

【22:19】
『獣と寝る者はすべて、必ず殺されなければならない。』
 獣姦は死罪です。獣姦者は糞のように汚らわしい存在です。これはあまりにも酷い罪です。極みまで堕落していなければ獣姦は絶対にできないことです。ですから、この罪を犯している人は死刑にせよと神が命じておられます。他の箇所でもやはり獣姦は死罪とされています(レビ記20:15~16)。この罪は、歴史を見てもほとんど事例が見つかりません。もしこの罪がそれなりに犯されていたとすれば、歴史の中でそれなりに記録されていたはずです。しかし、そのような記録は全く見られません。つまり、この罪はあまりにも自然から逸脱しているので、ごく僅かの人しか犯さないのです。私が知っている数少ない事例としては、功利主義で知られるベンサムが獣姦者でした。彼の日記には、愛馬と性的に戯れている様子が記録されています。「日本書紀」には第25代天皇である武烈天皇が、女と馬を交らわせたと記されていますが、これは真実でないと見ている人も多くいます。最近の日本では飼っている犬に自分の性器をペロペロと舐めさせることで自慰にふけっているおぞましい女がいますが、これも獣姦の一つと見做してよいでしょう。しかし、こういった女は例外的であると思われます。つまるところ、獣姦者は今までの歴史を見ても指で数えるぐらいしかいないということです。またタルムードの中では、異邦人を家畜と一緒にしたままでいれば異邦人は獣姦をしかねないので異邦人と家畜を一緒にしたままにしてはならない、などと書かれています。これは何という偏見でしょうか。彼らは異邦人をこのぐらいにしか思っていないのです。このようなことを書いた愚かなラビたちは、自分が書いたことについて実際の事例を決して示せないはずです。何故なら、そのような異邦人など全くと言っていいほどいないからです。実際、どの古代文書を読んでもそんな異邦人は記録されていません。ですから、タルムードの記述は思い違いもいいところです。こんなのがユダヤ教の聖典だというのですから全く呆れるばかりだと言わねばなりません。

 私たちにとって、この戒めはほとんど関わりがないはずです。私たちはこのような命令を聞く前から、そもそも獣姦などといった行為は心に思い浮かべることさえしていないはずからです。

【22:20】
『ただ主ひとりのほかに、ほかの神々にいけにえをささげる者は、聖絶しなければならない。』
 ユダヤ人が真の神以外の神―それは偽りの神です―に生贄を捧げた場合、『聖絶』すなわち死刑に処せられました。ユダヤ人またはイスラエル人という民族は、その名前からして主なる神と関わりがあります。ヤハウェ神あってこそのユダヤ人またはイスラエル人です。ですから、古代ユダヤ人たちは新約時代のユダヤ人とは違い、どの人もヤハウェ神を信じていました。そのような社会にあってヤハウェ神を偶像崇拝により裏切るというのは致命的な重罪です。ですから、そういった者は裁かれて死ななければなりませんでした。古代のユダヤでは神権政治が行なわれていましたから、こういった罪は非常に重大であり無視できませんでした。ですから、敬虔なダビデはこのような偶像崇拝者どもを日毎に死刑に処していました(詩篇101:8)。この戒めは十戒の第2番目に関連しています。

【22:21~24】
『在留異国人を苦しめてはならない。しいたげてはならない。あなたがたも、かつてはエジプトの国で、在留異国人であったからである。すべてのやもめ、またはみなしごを悩ませてはならない。もしあなたが彼らをひどく悩ませ、彼らがわたしに向かって切に叫ぶなら、わたしは必ず彼らの叫びを聞き入れる。わたしの怒りは燃え上がり、わたしは剣をもってあなたがたを殺す。あなたがたの妻はやもめとなり、あなたがたの子どもはみなしごとなる。』
 神はユダヤ人が3種類の人たち、すなわち『在留異国人』『やもめ』『みなしご』を蔑ろにしてはいけないと命じられます。在留異国人を蔑ろにすべきではないのはユダヤ人もかつては在留異国人だったからであり、やもめや孤児を蔑ろにすべきではないのは弱い立場だからです。もしやもめや孤児が苦しみの叫びを神に向かって上げるならば、神はその叫びを聞いて下さいます。何故なら、神は弱い立場の者に憐れみ深い御方だからです。そして、お怒りになられた神は、やもめや孤児を蔑ろにした者を裁きで殺され、その者の妻をやもめに、子を孤児とされます。やもめになった妻および孤児となった子は、その後、その夫また父がやもめや孤児を蔑ろにした通りに蔑ろにされたはずです。何故なら、神は人の行ないにそのまま報いられる御方だからです。

 神はこのように命じて威嚇されることで、ユダヤにいた在留異国人ややもめや孤児といった弱い立場の人たちが蔑ろにされないように計らっておられます。神は、ユダヤ人が立場の弱い人たちをも愛するよう求めておられるのです。それは律法で『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』と言われている通りです。今の私たちはどうでしょうか。弱い立場の人たちを蔑ろにしていないでしょうか。日本人であれば、日本にいる在日韓国・朝鮮人や外国人たちを傾向として差別しがちであると私には感じられます。私たちは裁かれる神を恐れねばなりません。

【22:25】
『わたしの民のひとりで、あなたのところにいる貧しい者に金を貸すなら、彼に対して金貸しのようであってはならない。彼から利息を取ってはならない。』
 ユダヤ人が貧しい同胞に利息付きで金を貸してはなりませんでした。何故なら、神の民は同胞を愛するべきだからです。また貧しい者を聖徒は憐れむべきだからです。『貧しい者をあわれむ人は幸いだ。』(箴言14章21節)と書かれている通りです。同胞に対する利息の禁止については申命記23:19~20の箇所でも命じられています。ですから、もし貧しい同胞から利息を取るならば、それは罪です。そのような罪を犯すユダヤ人は呪われ、罰として悲惨になったことでしょう。新約時代のイスラエルすなわちキリストの教会では、キリスト者である貧しい兄弟姉妹に利息付きで金を貸してはならないことになります。何故なら、私たちは互いに愛し合うべきだからです(ヨハネ13:34)。「愛する」とは律法の命じる通り同胞から利息を取らないことです。また、貧しい兄弟姉妹から利息を取ってはならないのは、私たちが貧しい者を憐れむべきだからでもあります。貧しい者を憐れむのは聖徒たちの義務です。また私たちが兄弟姉妹に貸す際は『金貸しのようであってはな』りません。つまり、何か偉そうにしてはいけません。しかし、貸してもらう人も、貸してもらって当然だと思ってはなりません。言うまでもなく貸してもらう人は、貸してくれる兄弟姉妹に感謝し礼節を尽くさねばなりません。

【22:26~27】
『もし、隣人の着る物を質に取るようなことをするなら、日没までにそれを返さなければならない。なぜなら、それは彼のただ一つのおおい、彼の身に着ける着物であるから。彼はほかに何を着て寝ることができよう。彼がわたしに向かって叫ぶとき、わたしはそれを聞き入れる。わたしは情け深いから。』
 極貧の人から服を質に取る場合、その服を日没までに返さないと罪になります。何故なら、その極貧の人は日没になって寒くなるのに服無しでいていいのでしょうか。また夜なのに裸も同然の状態で寝るべきだというのでしょうか。そのようなことはあってはならないことです。『神は愛』(Ⅰヨハネ4章8節)です。それゆえ、神は極貧の人に非人道的なことをしないよう、ここで聖徒たちに求めておられるのです。この戒めからも分かる通り、律法の本質は隣人愛です。律法とは隣人をどうしたら愛せるのかということを示した愛の説明書なのです。ところが愚かで腐ったパリサイ人たちは、そのことを全く弁えず、ただ文字通り・表面的に律法を行なっていればそれで神に嘉せられると勘違いしていたのです。だからこそ、キリストは彼らの思い違いを厳しく断罪されたのでした。

【22:28】
『神をのろってはならない。また、民の上に立つ者をのろってはならない。』
 ここでは神とその御名を呪うことが禁止されています。これはあまりにも大きな罪です。ここで言われているのは、神に対する邪悪な暴言のことだけではありません。もちろん、そのような暴言がここでは念頭に置かれているのではありますが、魔術的な呪詛もこの戒めに違反することになります。この箇所では、神を呪うことに対する裁きが示されていません。しかし、神を呪う罪が死に値するのは明らかです。何故なら、律法では父や母を呪うことが死罪に定められているからです(出エジプト記21:17)。父や母でさえ呪えば死ななければならないのであれば、神を呪う者は尚のこと死ななければいけないはずです。実際、レビ記24:10~16の箇所では『主の御名を冒涜する者は必ず殺されなければならない。』と命じられています。ですから、レビ記24章で書かれている通り、主を呪った愚かな者は裁きとして殺されることになったのです。異邦人を含めてみても、歴史の中で神を呪った者というのはそう多く存在していません。特に明白な言葉で神を呪っている人は珍しい存在です。そのような人は極みまで堕落しています。しかし、そこまで堕落している人はなかなか現れないものなのです。この戒めは明らかに十戒の第3番目に属しています。『御名をみだりに唱えてはならない。』というのは、つまり「御名を呪わない。」ということなのです。何故なら、第三戒の本質は「御名を神聖に保つこと」だからです。よって、神を呪う者は、そのようにすることで第三戒に違反しています。私たちは決して神を呪わないようにすべきです。もし呪ったならば私たちのほうが呪われてしまうでしょう。ヨブというお手本が私たちの前には置かれています。ヨブは神の御心により大変酷い不幸を味わったのですが、それにもかかわらず神を呪うことはしなかったのです(ヨブ1:22、2:9~10)。

 また神は、民の指導者を呪うことも禁止しておられます。これも、やはり邪悪な暴言だけでなく魔術的な呪詛も含まれています。伝道者の書10:20の箇所は、明らかにこの戒めを反復しています。『民の上に立つ者をのろってはならない。』というこの戒めは、パウロが使徒行伝23:5の箇所で引用しています。その箇所によれば、『民の上に立つ者』とは『指導者』であり『大祭司』です。これは大祭司以外にも、例えば王や大統領や首相や街の統治者たちが該当します。しかし、どうして指導者を呪うのは罪なのでしょうか。それは民の上に立つ指導者が神により立てられた存在だからです(ローマ13:1)。神がその指導者を民の上に置かれたのですから、言わば神の使いであるそのような存在を呪うのは、神へのあからさまな反逆となります。ところが今の時代では、神の立てられた指導者を呪うことがもはや罪だとは感じられないぐらいに当たり前となっており、指導者を呪っている人はどこにでもいる有様です。ここまで権威を蔑ろにする時代はこれまでありませんでした。このようになったのも、邪悪で反逆的な啓蒙主義者たちの勝利を許した私たち教会勢力の力量不足と怠惰が原因です。この啓蒙主義者たちの「啓蒙」による影響が、全世界を反権威的な色へと染めてしまったのです。しかし、そのような今の時代であっても、もし指導者を呪うのであれば、その人は裁きの近くにいます。何故なら、指導者を呪う言葉が、まるで獲物を持ち運ぶ鳥でもあるかのように、誰かによって指導者の耳へと届けられる可能性があるからです(伝道者の書10:20)。悲惨な運命に定められている人であれば、呪いの言葉を聞いて怒りに燃えた指導者から何らかの復讐をされることにもなるでしょうが、そのようにして神の裁きが下されることとなるのです。しかし、どうしようもない不適格な指導者であれば呪っても問題ないのではないでしょうか、と言われるかもしれません。これはそうであると言えるかもしれません。何故なら、誤ることのなかった主が、ヘロデに対して『あの狐』(ルカ13章32節)などと罵っておられるからです。このヘロデは忌まわしいどうしようもない王でした。もしヘロデが善良な王だったとすれば、主はこのように言っておられなかったでしょう。この戒めは十戒の第5番目に属しています。何故なら、『父と母を敬え。』という戒めの本質は「自分より高い地位にある人を尊重する。」ということだからです。よって、民の上に立つ指導者を呪う人は、第五戒の本質に違反しています。

【22:29】
『あなたの豊かな産物と、あふれる酒とのささげ物を、遅らせてはならない。』
 ユダヤ人は、収穫された作物のうち最上の物と、上級な酒を神に捧げなければなりませんでした。そのようにするのは神を崇めることです(箴言3:9)。それは神への崇拝行為ですから、どれも最上の捧げ物でなければならず、また捧げるのを遅延させてはなりませんでした。ちょうど誕生日プレゼントが良い物であるべきであり、誕生日を過ぎてから渡さないほうがよいのと似ています。そのようにして捧げられた物を、神はレビ人にお与えになります。何故なら、レビ人は祭司であって神に仕えていたからです。また、そのようにして生活の支えを得なければ、レビ人は神への奉仕が不可能になるか難しくなってしまうからです。この戒めと同じことは申命記26:1~11の箇所でも言われています。

 新約の時代では、作物が捧げられるということはあまりなくなっていますから、教会への献金によりこの戒めが全うされます。すなわち、献金の行為により、神への崇拝心を示すのです。しかし、今でも昔のように作物や酒を教会で捧げてはならないのでしょうか。今では献金が一般的であって、献金という捧げ物を捧げるのが望ましいのは言うまでもありません。教会の献金箱(または袋)に果物を入れる人がいれば、多かれ少なかれ驚かれてしまうでしょう。しかし、別に作物や酒を捧げたいというのであれば、そのようにしても誤ったことをすることにはならないでしょう。実際、神と教会のために何らかの物品が献品されるというのはよくある話だからです。

【22:29~30】
『あなたの息子のうち初子は、わたしにささげなければならない。あなたの牛と羊についても同様にしなければならない。七日間、その母親のそばに置き、八日目にわたしに、ささげなければならない。』
 この戒めについては、既に出エジプト記13:2、12~15の箇所で詳しく述べられていますから、ここでわざわざ再び説明する必要はないでしょう。このように戒めが何回も繰り返されるのは、それが非常に重要だからであり、複数の箇所に記されることで見落としたり実行しなかったりする者がないようにするためです。つまり、そのような繰り返しは、鈍感で不完全な要素の多い私たち人間に対する神の配慮なのです。そのように繰り返されるからこそ、重要な事柄について、私たちには見落としたり実行忘れをする可能性が低まるのです。しかし、だからといって、私たち人間も註解文書で全く同じ説明を繰り返すというのあまり適切とは言えないでしょう。そういうわけですから、この戒めについて詳細を忘れてしまった人は、先の箇所に立ち戻っていただきたいと思います。

【22:31】
『あなたがたは、わたしの聖なる民でなければならない。野で獣に裂き殺されたものの肉を食べてはならない。それは、犬に投げ与えなければならない。』
 神は、野で獣に裂き殺された獣の肉を食べるなと命じておられます。人が食べる獣の肉は、人が殺した獣であるべきだからです。獣が野で殺した獣の肉は、獣が食べるべきです。そのような肉をユダヤ人が食べるのは汚らわしいことであり、聖なる民として相応しくないのです。ですから、もし野で獣に殺された獣の肉を食べるなら罪となります。その罪を犯したユダヤ人は贖いをしなければなりませんでした。新約の時代に生きる聖徒たちも、やはりこのような肉を食べるべきではありません。何故なら、私たちは『聖められることを追い求め』(ヘブル12章14節)なければいけないからです。私たちはキリストの贖いにより既に聖い存在なのですが、そのような存在に相応しく、この地上の人生ではあらゆる汚れを避けつつ歩むべきなのです。また、そのような肉を食べるのは衛生面で危険があるということもあります。野で殺された獣を殺した獣が恐ろしい菌を持っていたら大変なことになります。何でも清らかで正しいものが健康にもよいものです。

【23:1】
『偽りのうわさを言いふらしてはならない。』
 ありもしないことを言いふらすのは罪です。それは明らかに悪意から出ており、人の名誉を損なわせるからです。またそこには隣人愛がありません。そのようなことを神は私たちに求めておられません。ユダヤ人たちは、キリストが復活された後、キリストについて『偽りのうわさを言いふらして』いました(マタイ28:11~15)。彼らは律法の違反者でした。また、真実でないことをあれこれ言いまくるブロガーや週刊誌もこの罪を犯しています。そのようなことをするのは大いに問題ですが、彼らがそのようなことを神の御前で悔い改めようとしないというのは更に大きな問題です。この箇所の戒めは明らかに十戒の第九番目に属しています。

『悪者と組んで、悪意ある証人となってはならない。』
 悪者の味方として悪い証人になるのは罪です。これが悪であるのは誰の目にも明らかでしょう。それでは、『悪意ある証人』には決してならず、『悪者と組んで』しまうだけならば問題ないのでしょうか。悪者と組むだけでも駄目です。何故なら、ソロモンが悪い者について『わが子よ。彼らといっしょに道を歩いてはならない。あなたの足を彼らの通り道に踏み入れてはならない。』(箴言1章15節)と言っているからです。神は聖徒たちがいかなる悪も避けて歩むことを望んでおられます。

【23:2~3】
『悪を行なう権力者の側に立ってはならない。訴訟にあたっては、権力者にかたよって、不当な証言をしてはならない。また、その訴訟において、貧しい人を特に重んじてもいけない。』
 真実だけを重視できる人はごく稀にしか見られません。多くの人は、『権力者』などといった高貴な人か、もしくは可哀そうな『貧しい人』を特別に重んじる傾向があります。追従屋であれば地位の高い人に心を傾けるでしょうし、同情心の強い人であれば貧しい人に肩入れしたくなるでしょう。しかし、神はどちらを依怙贔屓してもならないと命じられます。ここで、「権力者は多くの苦労をしているのだし尊ばれるべきだから少しぐらい重んじられてもいいだろう。」とか、「貧しい人は悲惨なのだから大目に見てやるべきだ。」などと言われる方がいるかもしれません。しかし、神はただただ真実をこそ何よりも重視すべきだと求めておられます。というのも神は人を依怙贔屓されない御方だからです。『神は人を分け隔てなさいません。』(ガラテヤ2章6節)と書かれている通りです。ですから、神の子たちも神に倣って人を依怙贔屓すべきではないのです。訴訟においては人の地位ではなく真実に心を向ける必要があります。

 この戒めは、連合国が敗戦国である日本とドイツを裁いた2つの裁判、すなわちニュンベルク裁判および極東裁判を明らかに断罪しています。この2つの裁判ほど不当な裁きが行なわれた裁判は他に例がないと思われます。この裁判では、連合国側の悪は全く問題にされず、ただただ枢軸国側が不当に取り扱われるだけでした。このような依怙贔屓に満ちた裁判をこの戒めは禁じているのです。(しかしながら、この2つの裁判そのものがそもそも神からの裁きであったのかもしれません。すなわち、ドイツはその数々の不法行為に対して、日本は偽りの神々に対する偶像崇拝という悪に対して、神から裁かれたのでこういった裁判に陥らされた可能性があります。もしこうだった場合、この2つの裁判は正式な裁判というよりはむしろ神の裁きとして見做すべきであることになるでしょう。)

【23:4~5】
『あなたの敵の牛とか、ろばで、迷っているのに出会った場合、必ずそれを彼のところに返さなければならない。あなたを憎んでいる者のろばが、荷物の下敷きになっているのを見た場合、それを起こしてやりたくなくても、必ず彼といっしょに起こしてやらなければならない。』
 神は、聖徒たちが敵の家畜にも憐れみをかけねばならないと命じられます。すなわち、敵の家畜が迷っていたならば主人のもとに戻し、敵の家畜が大変になっていたら助けてやらねばなりません。ここに書かれている2つのことは、ただの一例に過ぎません。ですから、例えば敵の家畜が主人から離れている際に猛獣から襲われようとしている場合、その家畜を助け、敵に報告してやらねばなりません。また、敵の家畜が疲労か病気なので対処しなければ間もなく死んでしまうことに気付いた場合、敵がそのことに気付いていなければ、教えてやらねばなりません。その他、こういった類のことは何でもすべきだとここでは命じられているのです。つまり、これは『あなたの敵を愛しなさい。』(ルカ6章27節)ということです。このことからも分かる通り、律法とは愛の教えなのです。それでは、私たちはあらゆる場合に敵の家畜を憐れまねばならないのでしょうか。そういうことはありません。例えば、敵が聖徒たちは敵の家畜をも憐れむということについて知っており、そのような行動基準を利用して、聖徒たちを罠にかけようとする場合。このような場合、私たちが敵の策略に気付いているならば、たとえ敵の家畜が大変になっていても助けたり憐れむ必要はありません。何故なら、敵の策略を知りながら、わざわざ自ら罠にかかりに行くというのは愚かだからです。その家畜は主人の悪意に基づいて悲惨になっているのですから、どうして配慮してやる必要がありましょうか。私たちは『蛇のようにさとく』(マタイ10章16節)なければいけません。ただ、そういった策略無しに敵の家畜が悲惨になっていたとすれば、その際は憐れんでやらねばなりません。

 この律法のうちには敵への愛が示されていますが、「敵をも愛する」というこの教えは、かのミルをして最も道徳的であると言わしめた誠に驚くべき聖書の戒めです。ミルはこの教えに驚愕しています。というのも、それは人間理性に反しているのですが大変素晴らしいことだからです。確かに敵をも愛せるのであれば、それは何と道徳的なことでしょうか。しかし、私たちの理性にとって憎き敵を愛するというのは考えられないことです。ここに律法の高さがあります。このように崇高なことを命じている法は他に存在していません。このような律法はキリスト以外に誰も守り得ません。だからこそ私たちは律法によって命を得ることができないのです(ガラテヤ3:11)。このため罪深い私たちにはイエス・キリストによる罪の赦しが必要なのです。

【23:6~7】
『あなたの貧しい兄弟が訴えられた場合、裁判を曲げてはならない。偽りの告訴から遠ざからなければならない。罪のない者、正しい者を殺してはならない。わたしは悪者を正しいと宣告することはしないからである。』
 神は、同胞である貧しい兄弟が訴えられた場合でも裁判を曲げてはならないと命じられます。何故なら、真実の前に依怙贔屓は消え去らなければならないからです。聖徒たちは『正義を、ただ正義を追い求めなければならない』(申命記16章20節)のです。ですから、たとえ愛する同胞兄弟であっても罪を犯していれば犯罪者とせねばならず、それとは逆に、憎き敵であっても潔白であるならば無罪とせねばなりません。同胞である兄弟、しかも憐れまれるべき貧しい人のためだったとしても、神は正義が曲げられることを望まれません。何故なら、神は義なる審判者であって、正義そのものであられるからです。例えば、兄弟でありしかも度々良くしてくれる親友が罪を犯して裁判にかけられたので、その裁判に召喚されたとします。もしちょっとした嘘により真実を曲げればその兄弟を無罪の判決へと導くことができますが、そうするとその兄弟から被害を受けた憎き敵のほうが有罪になってしまいます。このことを親友はよく分かっているので、裁判の時、どうか助けてくれと言わんばかりに顔をこちらへ向けてきます。この場合、ほとんど全ての人は大いに葛藤するでしょう。兄弟のために正義を曲げてよいかと良心が悩まされるからです。このような場合、神はその兄弟を有罪に引き渡すよう求めておられます。そのようにすれば友情は完全に損なわれるでしょうが、そうするのが神の御心なのですから、仕方ないと思って諦めるしかありません。友情や同胞愛よりも正義に固執するというのが神の似像として相応しいことなのです。何故なら、神は義なる神だからです。

 ユダヤ人は、キリストという『罪のない者、正しい者を殺して』罪を犯しました。また彼は『偽りの告訴』によりキリストを亡き者にしようとしました。これは弁明の余地が全くない罪でした。彼らは自分たちのために来て下さったメシアに対してさえ律法の違反者として振る舞ったのです。そのため彼らは紀元70年に裁かれ捨てられてしまいました。

【23:8】
『わいろを取ってはならない。わいろは聡明な人を、盲目にし、正しい人の言い分をゆがめるからである。』
 賄賂は罪です。この戒めは申命記16:19の箇所でも繰り返されています。どうして賄賂が罪かと言えば『聡明な人を、盲目にし、正しい人の言い分をゆがめるから』です。この賄賂は非常に大きな力を持っています。ソロモンは賄賂の効能についてこう言っています。『わいろは、その贈り主の目には宝石、その向かう所、どこにおいても、うまくいく。』(箴言17章8節)『ひそかな贈り物は怒りをなだめ、ふところのわいろは激しい怒りをなだめる。』(箴言21章14節)『人の贈り物はその人のために道を開き、高貴な人の前にも彼を導く。』(箴言18章16節)『だれでも贈り物をしてくれる人の友となる。』(箴言19章6節)賄賂を受け取るならば、無視することのできない恩と逆らうことのできない力が生じます。そのため、賄賂を受けた人は、賄賂をくれた人の意向にどうしても迎合しなければいけなくなるのです。義なる神は聖徒たちがそのようになるのを求めておられません。キリストの墓に配置されていた兵士は、ユダヤ人から多額の賄賂を貰ったので、ユダヤ人の言いなりになってしまいました(マタイ28:11~15)。この兵士は律法に違反したのです。数々の事例を考えれば、賄賂を受け取った場合、後が大変になってしまうのは明らかです。それが分かっているのであれば、そもそも最初から賄賂など受け取らないのが思慮ある判断です。

 2021年現在の日本の法律では賄賂が罪に定められています。また日本ではしばしば賄賂を受け取ったので捕まった人のニュースがよく流れています。このような状況は律法に適っており望ましいことです。これからも日本において賄賂の受け取りは禁止され、罰せられるべきです。日本だけでなく世界中でそうなるべきです。何故なら、御心は天で行なわれるように地でも行なわれるべきだからです(マタイ6:10)。この戒めからも分かる通り、神の御心はこの地上において賄賂が受け取られなくなることです。

【23:9】
『あなたは在留異国人をしいたげてはならない。あなたがたは、かつてエジプトの国で在留異国人であったので、在留異国人の心をあなたがた自身がよく知っているからである。』
 これは先に見た戒め(出エジプト記22:21)と同じですが、どうして在留異国人を蔑ろにしてはいけないのか先の戒めよりも少し詳しく書かれています。神はつまりこう言っておられるのです。「あなたがたユダヤ人は在留異国人としてエジプトで苦しんだ。あなたがたは出来るならばエジプト人が自分たちを丁重に取り扱ってくれるよう願った。あなたがたは在留異国人のことをよく知っている。だから、あなたがた自身が在留異国人を蔑ろにしてはならない。『何事でも、自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい。』(マタイ7章12節)」この戒めにおいては、何であれ外国人や少数派といった人々を蔑ろにするなことがないよう求められています。神は差別を禁止しておられるのです。日本人がまだまだ外国人を差別する傾向にあるのは、この戒めに抵触しています。

【23:10~11】
『六年間は、地に種を蒔き、収穫をしなければならない。七年目には、その土地をそのままにしておき、休ませなければならない。民の貧しい人に、食べさせ、その残りを野の獣に食べさせなければならない。ぶどう畑も、オリーブ畑も、同様にしなければならない。』
 7年目には畑を休ませるというのが神の定めです。これはレビ記25:1~7の箇所でも定められています。7年目に地を休息させる目的は3つあります。一つ目は、地を休めるためです。人が休まず働くのは健康に良くありませんが、地も正常な状態を保つためたまには休ませねばなりません。人は機械ではありませんが、地も機械ではありません。もし機械であれば人も地も休ませる必要はなかったかもしれません。二つ目は、『貧しい人々』や『野の獣』に腹一杯食べさせるためです。憐れみ深い神は貧しい人や獣にもこうして配慮して下さる御方なのです。三つ目は、『七』年目に地を休ませることで、神の安息すなわちイエス・キリストを示すためです。ユダヤ人は地を7年目に休ませることで、やがて来られるキリストという安息への期待を更に強めたのです。そのキリストはもう来られましたから、今やこのような意味で7年目に地を休めることは決してできなくなりました。ですから、パウロはキリストが既に来られて安息年を成就して下さったというのにまだ安息年をしっかり守っていたガラテヤ人たちを問題にしています(ガラテヤ4:10~11)。新約時代において安息の7年目を宗教的な意味で守るのは、キリストを否定することだからです。

【23:12】
『六日間は自分の仕事をし、七日目は休まなければならない。あなたの牛やろばが休み、あなたの女奴隷の子や在留異国人に息をつかせるためである。』
 安息日の定めが再び命じられています。既に述べた通り、安息日の目的の一つは身体を休めることにあります。この箇所では休むことについて『牛やろば』また『女奴隷の子や在留異国人』しか挙げられていませんが、全てのイスラエル人が7日目には身体を休めるべきなのは言うまでもありません。聖書がこのように従属的な立場だけをあえて挙げているのは、ユダヤ人たちが彼らのような従属的存在を憐れむようにさせるためです。何故なら、彼らの存在のみが挙げられていれば、自然とユダヤ人の心は彼らに対する憐みに傾くだろうからです。神は御自身の民が自分よりも下にいる存在に高ぶらないよう願っておられるのです。

【23:13】
『わたしがあなたがたに言ったすべてのことに心を留めなければならない。』
 聖徒たちは神が言われた命令を一つ残らず心に留めねばなりませんでした。それは聖徒たちがあらゆる点で正しい歩みをするためです。知らないこと、忘れたことを実行することはできません。ですから、聖徒たちは『すべてのことに心を留めなければ』なりませんでした。神の命令を一つでも取り逃すならば、神の御心に適った歩みをするのはそれだけ難しくなってしまいます。

『ほかの神々の名を口にしてはならない。これがあなたの口から聞こえてはならない。』
 神は、偽りの神々の名を聖徒たちが口にしないよう命じられます。何故なら、それは聖徒たちの心が偽りの神々を慕っていることだからです。キリストは『心に満ちていることを口が話す』(マタイ12章34節)と言われました。つまり、心に偽りの神々への好意的な思いがあるからこそ、その神々の名が口から出ることになるわけです。これは十戒の第一番目に対する違反です。この戒めでは今述べたようなことが言われていると知るならば、いかなる場合でも偽りの神々の名を口にしてはならないということがここでは言われているのではないと分かります。例えば、偽りの神々を否定・批判する場合や、御民イスラエルを偽りの神々から引き離そうとする場合であれば、偽りの神々の名を口にしても問題ありません。何故なら、その人の心に偽りの神々への偶像崇拝は存在していないからです。ですから、預言者たちは何度も偽りの神々の名を口にしています。預言者はイスラエルを偽りの神々から遠ざけようとしていたので、偽りの神々の名を口にしても、この戒めには違反していなかったのです。もしここではあらゆる意味で『ほかの神々の名を口にしてはならない。』と言われていたとすれば、預言者たちはたとえイスラエル人を偶像崇拝から引き離すためであっても、偽りの神々の名を口にしてはならなかったことになります。

【23:14~17】
『年に三度、わたしのために祭りを行なわなければならない。種を入れないパンの祭りを守らなければならない。わたしが命じたとおり、アビブの月の定められた時に、七日間、種を入れないパンを食べなければならない。それは、その月にあなたがエジプトから出たからである。だれも、何も持たずにわたしの前に出てはならない。また、あなたが畑に種を蒔いて得た勤労の初穂の刈り入れの祭りと、年の終りにはあなたの勤労の実を畑から取り入れる収穫祭を行なわなければならない。年に三度、男子はみな、あなたの主、主の前に出なければならない。』
 ユダヤ人には年に三度の祭りが定められていました。すなわち、過越しの祭り、初穂の刈り入れの祭り、収穫祭の3つです。ユダヤ人であれば誰でもこの祭りに出なければなりませんでした。『あなたの主、主の前に出なければならない。』と書かれている通りです。ユダヤの年始めに行なわれる過越祭は、最も重要な祭りです。これについては本註解の中で既に詳しく述べられています。収穫の初めに行なわれる『初穂の刈り入れの祭り』では、地から作物が収穫できたことを神に感謝します。これは『七週の祭り』(申命記16章16節)とも言われています。この祭りの時は、初穂のうち最上の作物を主に捧げねばなりません。それは大変に魅力的な作物です。ですから、出来るならば自分のところに持っておくのが望ましいかもしれません。しかし、それは主なる神に捧げられねばなりません。ここに宗教と敬虔があります。年末に行なわれる収穫祭では、その1年間に作物を収穫できたことを神に感謝します。これは『仮庵の祭り』(申命記16章16節)とも言われています。この祭りの時、ユダヤ人は7日の間、仮庵に住みました。それはモーセ時代のユダヤ人が仮庵に住んだことを、後世のユダヤ人が忘れないようにするためです(レビ記23:42~43)。祭りが年に『三』度行なわれるのは、確かにユダヤ人が主の御前に出ることを意味しています。それは「3」だからです。つまり、この回数が示しているのは「ユダヤ人のうち神の御前に出ない者があってはならない。」ということです。この箇所では、これらの祭りについて簡潔に書かれているだけです。また後ほどこれらの祭りが更に詳しく書かれることになります(出エジプト記34:18~24、レビ記23:4~43、申命記16:1~17)。

【23:18】
『わたしのいけにえの血を、種を入れたパンに添えてささげてはならない。また、わたしの祭りの脂肪を、朝まで残しておいてはならない。』
 祭りの時に捧げる犠牲動物の血は、種を入れたパンと一緒にされてはなりません。何故なら、パン種とは罪を象徴しており、それは膨らむからです。祭りの際に捧げられるのは種無しのパンでなければなりません。もし種の入ったパンを捧げるならば罪となります。また祭りの時に屠られた動物の肉は朝まで残してはなりませんでした。これについては既に出エジプト記12:10の箇所で見ました。

【23:19】
『あなたの土地の初穂の最上のものを、あなたの神、主の家に持って来なければならない。』
 これは7週の祭りのことです。神が働いて下さらなければ、地に作物が実ることはありません。作物は全て神の恵みによります。だからこそ、7週の祭りの時には、『土地の初穂の最上のもの』が神に捧げられなければならないのです。

『子やぎを、その母親の乳で煮てはならない。』
 神は母山羊の乳でその子山羊を煮るなと命じられます。何故こうしてはならないのか聖書は理由を明示していません。これは、母山羊の乳は子山羊を養うためにこそあるからです。そのような乳を子山羊の料理に使うのは異常であり残虐です。神は御自身の民がそういった自然に反することをしないよう求めておられます。ですから、そのようなことは罪になります。子山羊を煮るならば、水かココナッツミルクか他の動物の乳などにせねばなりません。この戒めは後の箇所でも繰り返されています(出エジプト記34:26、申命記14:21)。

【23:20~21】
『見よ。わたしは、使いをあなたの前に遣わし、あなたを道で守らせ、わたしが備えた所にあなたを導いて行かせよう。あなたは、その者に心を留め、御声に聞き従いなさい。決して、その者にそむいてはならない。わたしの名がその者のうちにあるので、その者はあなたがたのそむきの罪を赦さないからである。』
 神はユダヤ人に『使い』を遣わして下さるので、ユダヤ人はその者に服従して付いて行かねばなりません。この『使い』とは誰なのでしょうか。モーセでしょうか、ヨシュアでしょうか、御使いでしょうか。これは主であられます。何故なら、この箇所では使いの声が『御声』と言われているからです。『御声』という言葉は聖書の中で主についてだけ使われています。また、この使いには『わたしの名がその者のうちにある』からです。御名がそのうちにある存在は主であられます。また、『その者はあなたがたのそむきの罪を赦さない』と使いについて言われているからです。パリサイ人が正しく思ったように、神の他に誰も罪を赦すことはできません(ルカ5:21)。ですから、背きの罪を赦す権限を持っているこの『使い』は主であられます。これはモーセでもヨシュアでも御使いでもありません。もしこのうちの誰かがこの使いであれば、この箇所で使いについて『御声』とは言われていなかったでしょう。もしユダヤ人が自分たちを導いて下さるこの主に服従しないのであれば、主はその『そむきの罪を赦さ』れません。何故なら、『御子に聞き従わない者は、いのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる』(ヨハネ3章36節)からです。そのような人は不敬虔な者として地獄に投げ込まれてしまいます。ですから、その人の背きの罪はいつまでも赦されないことになってしまいます。

【23:22~23】
『しかし、もし御声に確かに聞き従い、わたしが告げることをことごとく行なうなら、わたしはあなたの敵には敵となり、あなたの仇には仇となろう。わたしの使いがあなたの前を行き、あなたをエモリ人、ヘテ人、ペリジ人、カナン人、ヒビ人、エブス人のところに導き行くとき、わたしは彼らを消し去ろう。』
 しかしながらユダヤ人が主に服従するならば、ユダヤ人には勝利の祝福が与えられるので、神が占領すべき地にいる敵どもを消し去って下さいます。つまり、カナンの地を制圧することができます。ヨシュア時代のユダヤ人は主に服従していました。ですから、神による勝利が祝福として与えられました。神はユダヤ人の敵であるカナン人たちの敵また仇となって下さったのです。このためヨシュアたちはカナンを占領できました。一方、モーセ時代のユダヤ人は主に服従しないでいました。ですから、カナンを占領することはできませんでした。彼らは背いた後、途中から態度を変えようとしましたが無駄でした(民数記14:39~45)。彼らは主に背いたので赦していただけなかったのです(出エジプト記23:21)。こういうわけですから、この時のユダヤ人には2つの道が置かれていました。すなわち、服従して勝利するか、背いて悲惨になるか、の2つです。

 このカナン征服のことについてですが、世の中にはユダヤ人によるカナン人の虐殺を非難する人たちがいます。しかし、歴史上に起きた多くの虐殺は非難されるべきであっても、カナン侵攻時の虐殺は非難されるべきではありません。何故なら、その虐殺は神の命令であり、神の裁きであり、神の事業だったからです。当時のカナン人は子どもを火で焼いてモレクに捧げるなどといった多くの忌まわしい行為をしていましたから、神により裁かれ滅ぼされるべきでした。神はその裁きのためユダヤ人たちを用いられたに過ぎないのです。ですからカナン人の虐殺にユダヤ人は全く責任がなく、それは正しいことでした。分かりやすく言えば、神は裁判官であり、カナン人は死刑囚であり、ユダヤ人は死刑執行人だったのです。裁判官が悪い人に死刑の判決を下すこと、そしてその悪い人を死刑執行人がその手で死刑に処すること。これのどこに非難されるべきところがあるのでしょうか。カナン征服を非難する人は、このような死刑執行を非難しているのも同然なのです。

 ところで、パレスチナに住んでいる今のシオニストたちは、そこにいるアラブ人たちを約束の地奪取のため殲滅させねばならないなどと言っていますが、神が彼らと共におられないことは火を見るよりも明らかです。もし神が彼らと共におられたとすれば、ヨシュアの時と同様、あそこにいた非ユダヤ人たちはすぐさま消し去られていたでしょう。ところがパレスチナにいるアラブ人たちが消し去られないまま何十年経っているでしょうか。今でもまだアラブ人が消し去れらる気配はまったくありません。彼らは自分たちをヨシュア時代のユダヤ人と同じように感じているのでしょうが、アラブ人たちの滅亡は御心では全くありません。すなわち、彼らがアラブ人をあそこからどかそうと拡張政策を実施しているのは非聖書的です。何故なら、神の御心はアラブ人たちが莫大な人口を保ち続けることだからです(創世記16:10、17:20)。シオニストはそのようなアラブ人たちを殲滅し、殲滅し、殲滅しなければならないなどと言っているのです。それも、その発言を決して無視することのできない政治家が、です。彼らは神の御心に反したことをしようとしています。これではどうして神がその祝福と共にユダヤ人に味方して下さるでしょうか。シオニストたちは聖書をよく読むべきです。またキリストに帰依して新約的な理解を持つべきです。そして、アラブ人のいるパレスチナではなくアルゼンチンに総移住すべきなのです。ヘルツルもユダヤ人の移住先としてパレスチナの他にアルゼンチンを挙げているではありませんか(『ユダヤ人国家』)。あそこであればアラブ人との争いもないでしょうから、彼らの平和のためにはよいでしょう。今のパレスチナに居続ければ争いは決して止むことがありません。私は神学的な見地から、彼らのためにこう言っています。アルゼンチンに彼らが行っていたのであれば、私もここまで彼らの国家問題について刺刺することはなかったでしょう。もし彼らが本当に神の御心に適っていると思うのであれば、どうしてヨシュア率いる古代ユダヤ人たちに神がそうして下さったように、神があのカナン(今のパレスチナ)からそこに住んでいる人たちを追い払って下さらないのか説明してもらわねばならないでしょう。

【23:24】
『あなたは彼らの神々を拝んではならない。仕えてはならない。また、彼らの風習にならってはならない。これらを徹底的に打ちこわし、その石の柱を粉々に打ち砕かなければならない。』
 神は、ユダヤ人がカナン人の神々を拝んだり、それに仕えてはならないと命じられます。これは十戒の第二番目が命じられています。当時のカナンには偽りの神々と偶像崇拝が満ちていましたから、神はそこに入植する前から予めユダヤ人に警告しておられるのです。

 神はまたカナンに多くあった『これら』すなわち偶像をことごとく滅ぼせと命じておられます。それはユダヤ人たちが『ほかの神を拝んではならないから』(出エジプト記34:14)でした。もし偶像を破壊せず残したままにしていれば、ユダヤ人たちがその偶像を拝んでしまいかねないからです。ところで、このような命令が書かれているからといって、今の時代に生きる私たちが世にある偶像を破壊すべきだということにはなりません。私たちは平和を求めるべきですから(マタイ5:9、ローマ12:18)、異教徒たちが拝んでいる偶像を何か特別な理由でもない限り、そのままにしておかねばなりません。もしパウロのようにそのような偶像が忌まわしく感じられるというのであれば(使徒行伝17:16)、コンスタンティヌスやカルヴァンのような人が現われて国全体が神権政治の体制となる時まで待たなければいけません。そのような時を待っていられないというのであれば、偶像崇拝者たちがキリスト者となるよう熱心に福音伝道をすべきでしょう。そのようにしてキリスト者になった元偶像崇拝者は、それまでに拝んでいた偶像を自分自身から進んで破壊してくれるでしょうから。

 当時のカナンには汚れた忌まわしい風習が多く満ちていました。そういった風習は聖なる御民に相応しくないので決して見習ってはなりませんでした―『彼らの風習にならってはならない』。これと本質的には同様のことをパウロはこう言っています。『この世と調子を合わせてはいけません。』(ローマ12章2節)旧約時代であれ新約時代であれ聖徒たちは、自分を世の悪い影響から遠ざけるべきなのです。ところが旧約時代の聖徒たちは、そのようにしませんでした。古代ユダヤ人は異教徒たちが拝んでいる偶像を羨んで自分たちも拝み、異教徒たちのように子を火の中にくぐらせるということまでしたのです。新約時代の聖徒たちも、そのようにできていませんでした。教会は古代においては新プラトン主義の影響をかなり受けてしまいましたし、今では進化論という死人たちの詰まらないガラクタを受け入れてしまっています。

【23:25~28】
『あなたがたの神、主に仕えなさい。主はあなたのパンと水を祝福してくださる。わたしはあなたの間から病気を除き去ろう。あなたの国のうちには流産する者も、不妊の者もいなくなり、わたしはあなたの日数を満たそう。わたしは、わたしへの恐れをあなたの先に遣わし、あなたがそこにはいって行く民のすべてをかき乱し、あなたのすべての敵があなたに背を見せるようにしよう。わたしは、また、くまばちをあなたの先に遣わそう。これが、ヒビ人、カナン人、ヘテ人を、あなたの前から追い払おう。』
 神は聖徒たちが御自身に仕えるべきだと命じられます。神の民が神に仕えるというのは当たり前のことです。ところが、私たち人間はわざわざこのように言われなければいけないほどに神のことについて鈍くなってしまったのです。私たちは堕落してしまいましたから、このようによく考えれば当然のことでも命じられなければいけないのです。例えば、幼い子どもには当たり前のことを何度もわざわざ言わねばならないでしょう。それは幼い子どもが無知で無能だからです。私たちは神の御前にそのような子も同然なのです。神に仕えることができる被造物は全部で4種類です。すなわち、堕落前の人間、地上にいる堕落後の聖徒、天国にいる聖徒、御使いたち、の4種類です。この「主に仕える」というのは、要するに神を恐れ、神の命令を守り、神に喜ばれることです。聖書はこの箇所以外でも神に仕えよと非常に多くの箇所で命じられています。

 主に仕えるならば主から諸々の祝福を受けることができます。ちょうど王が自分によく仕える臣下に多くの報奨を与えるのと一緒です。ですから、主に仕える者の『パンと水』すなわち飲食または食糧は祝福されます。その人は飲食において困ったり不快になることがないでしょう。しかも、その人の子孫まで飲食における祝福を受けることができます(詩篇37:25)。主に仕えない反逆者にはパンと水の祝福がありません。その人はその子孫においてさえ飲食の呪いを受けてしまいます。イスカリオテ・ユダは主に仕えず裏切ったので、その子たちは物乞いになったのです(詩篇109:10)。また主に仕える者には病気が免除されます。これについては他の箇所でも言われています(出エジプト記15:26)。実際、モーセは主に仕えたので病気から遠ざけられ、最後の最後まで壮健でいられました(申命記34:7)。また病気にかかった場合は癒されることができます。これはヒゼキヤ王が良い例です(イザヤ38:1~9、Ⅱ列王記20:1~7)。また主に仕える者たちの国からは流産と不妊がなくなります。子を出産させる権は神のうちにだけあります。御心であればしっかりと出産がなされ、御心でなければ流産したり不妊のままでいたりするのです。主に仕える国は御心に適っていますから、そこにはしっかりとした妊娠および出産が満ちることになります。また主に仕える者は神が『日数を満た』して下さいます。これは寿命が伸ばされるということです。実際、モーセは神に仕えていたので120歳まで生きることができました(申命記34:7)。箴言22:5の箇所でも主に謙遜をもって仕えるならば多くの命が与えられると示されています。また主に仕える者に、神は祝福として勝利を与えて下さいます。神は敵が聖徒たちに対して臆病になり、敗走するようにして下さるのです(27節)。『くまばち』が敵に遣わされると言われているのは、つまり神が様々な方法で敵を追い払って下さるということです。ですから、これは神が敵を追い払われる際に必ず『くまばち』が使われると教えているのではありません。『くまばち』というのはあくまでも一例です。しかし、エモリ人の二人の王は実際に熊蜂により追い払われました(ヨシュア24:12)。なお、28節目の『くまばち』という言葉は「疫病」また「落胆」とも訳せます。ここまでに書かれた祝福はあくまでも少しだけ挙げられているだけです。仕える者に対する祝福は、ここで挙げられている以外にも数多くあることを忘れてはなりません。もし私たちが神の祝福を受けたいのであれば、神に仕えねばなりません。神に仕えなければどうして神から祝福していただけるでしょうか。ヨシュアやダビデの時のユダヤ人は神に仕えていましたから、このような祝福を受けることができました。しかし、モーセ時代や士師の時代、ソロモンや南北朝時代のユダヤ人は神に仕えていませんでしたから、多くの呪いを受けました。今のユダヤ人も神に仕えていないので、こういった祝福を受けることができていません。いや、そもそも彼らはもはや神のイスラエルでさえなくなっているのですが(ガラテヤ6:15~16)。新約の教会に目を向けるならば、どうでしょうか。カルヴァン主義を受容したオランダとイギリスとアメリカは、全世界に先駆けて文明の恩恵に浴し、他の国々を凌駕する覇権国家となりました。これはカルヴァン主義であることが最もよく神に仕えられるからです。スポルジョンも説教で言ったように、カルヴァン主義とはすなわち「聖書主義」に他ならないのですから。一方、それに立っているのでは決して神に正しく仕えられないカトリシズムの国すなわちイタリアやフランスやポルトガルやスペインなどは、それほど神の祝福を受けておらず、先に見たオランダやイギリスやアメリカからすれば後れを取ってしまいました。

【23:29~30】
『しかし、わたしは彼らを一年のうちに、あなたの前から追い払うのではない。土地が荒れ果て、野の獣が増して、あなたを害することのないためである。あなたがふえ広がって、この地を相続地とするようになるまで、わたしは徐々に彼らをあなたの前から追い払おう。』
 カナン人が一挙に消し去られると耕作者の消滅により土地が悲惨となるばかりか野生の獣も増殖してしまうので、神は徐々にカナン人を追い払われました。ユダヤ人からすれば、これは不満に思えたかもしれません。「すぐにもカナン人がカナンの地からいなくなればいいのに…。」などと。しかし神は何もかもを御存知であられます。すぐにカナン人が消し去られるのはユダヤにとって不幸なのです。ですから、ユダヤ人がどのように思おうとも、カナン人が少しずつ消し去られることこそ最善のやり方だったのです。このため、ユダヤ人たちはそのことを理解し、カナン人が完全に追い払われるようになる時まで忍耐すべきでした。