【出エジプト記29:31~34:32】(2021/11/07)


【29:31~34】
『あなたは任職用の雄羊を取り、聖なる場所で、その肉を煮なければならない。アロンとその子らは、会見の天幕の入口で、その雄羊の肉と、かごの中のパンとを食べる。彼らは、彼らを祭司職に任命し、聖別するための贖いに用いられたものを、食べる。ほかの者は食べてはならない。これらは聖なる物である。もし、任職用の肉またはパンが、朝まで残ったなら、その残りは火で焼く。食べてはならない。これは聖なる物である。』
 アロンとその子らは、任職用の雄羊の肉を、祭司になる時に食べねばなりません。これは神の御前で喜ぶべきだったからだと思われます。というのも、イスラエル人たちは犠牲を捧げる際、犠牲の肉を皆で食べて喜び楽しんでいたからです。これは例えば申命記12:6~7などの箇所から分かります。イスラエルの聖なる祭司に任じられるというのは喜び以外でなくて何でしょうか。この時には、『かごの中のパン』も雄羊の肉と共に食べました。つまり、先に見た2種類のパンはそれぞれカゴの中に沢山入っていました。そのうち、1種類ずつ合計2つのパンが神に捧げられ(出エジプト29:23~25)、残りのパンをアロンとその子らが食べるのです。また、この箇所では書かれていませんが、パンと一緒に煎餅も食べるべきだったのは明らかです。ただ、この箇所では煎餅を食べることについては省略されています。つまり、煎餅もパンと同様、カゴの中に多く入っていましたが、そのうち一個だけを神に捧げ(前同)、残った煎餅をアロンとその子らが食べたのです。これらはアロンとその子らしか食べられませんでした。それは祭司になる者たちが食べる物だからです。モーセさえもそれは食べられません。何故なら、この時には、モーセが祭司に任命されるのではないからです。この時に残った肉かパンか煎餅があれば焼いて処分せねばなりません。これは過越祭における規定と同じです(出エジプト12:10)。

【29:35~37】
『あなたが、わたしの命じたすべてのことをそのとおりに、アロンとその子らに行なったなら、七日間、任職式を行わなければならない。毎日、贖罪のために、罪のためのいけにえとして雄牛一頭をささげなければならない。祭壇のための贖いをするときには、その上に罪のためのいけにえをささげ、これを聖別するために油をそそぐ。七日間にわたって祭壇のための贖いをしなければならない。あなたがそれを聖別すれば、祭壇は最も聖なるものとなる。祭壇に触れるものもすべて聖なるものとなる。』
 任職式の際は、『七日間』毎日欠かさずに生贄を捧げねばなりません。7日続けるのは、その任職式における聖性と完全性を示しています。6日以下では足りませんし、8日以上も行なう必要はありません。また、祭壇も7日の間、贖わねばなりませんでした。祭壇は神への犠牲物を捧げる場所だからです。捧げ物を捧げる祭壇がまず清められていなければ、どうして捧げ物を神に捧げることができるでしょうか。この時に聖別された祭壇は『最も聖なるものとな』ります。ですから、『祭壇に触れるものもすべて聖なるものとな』ります。聖なる存在に触れるならばその触れた者も聖なる存在になる、というのが神の設定です。ですから、Ⅰコリント7:14の箇所では『信者でない夫は妻によって聖められており、また、信者でない妻も信者の夫によって聖められている』と言われているのです。確かなところ、未信者である配偶者は、その配偶者そのものとしては聖くなく、汚れています。しかし、聖である信者の配偶者と一緒にいるので、神からその配偶者のゆえに聖であると見做されるのです。

【29:38~42】
『祭壇の上にささげるべき物は次のとおりである。毎日絶やすことなく一切の若い雄羊二頭。一頭の若い雄羊は朝ささげ、他の一頭の若い雄羊は夕暮れにささげなければならない。一頭の若い雄羊には、上質のオリーブ油四分の一ヒンを混ぜた最良の小麦粉十分の一エパと、また注ぎのささげ物として、ぶどう酒四分の一ヒンが添えられる。もう一頭の若い雄羊は夕暮れにささげなければならない。これには朝の穀物のささげ物や、注ぎのささげ物を同じく添えてささげなければならない。それは、なだめのかおりのためであり、主への火によるささげ物である。これは、主の前、会見の天幕の入口で、あなたがたが代々にわたって、絶やすことのない全焼のいけにえである。』
 この箇所では、祭壇がある限り永久的にそこで捧げるべき生贄の規定が書かれています。祭壇には毎日『雄羊二頭』を、一頭は朝に、もう一頭は夕暮れに捧げねばなりませんでした。朝と夕暮れに捧げることについて、アウグスティヌスであれば「それは創造の際に夕があり朝があったからだ。(創世記1章)」と言うかもしれません。しかし、これは犠牲における恒常性を示すためでしょう。朝と夕暮れに捧げるのであれば、そこにはよく恒常性が示されます。もしこれが1日1回だけであれば、そこに恒常性は感じられにくくなります。この際に捧げるべき雄羊が若い1歳の雄羊であったのは、雄羊の表示しているイエス・キリストの十全性をよく表わすためです。何となれば十全性は若々しさのうちに宿るのですから。年老いれば身体的にも精神的にも十全性は失われがちとなります。朝の生贄には『上質のオリーブ油四分の一ヒンを混ぜた最良の小麦粉十分の一エパと、また注ぎのささげ物として、ぶどう酒四分の一ヒンが添えられ』ます。このような飲食物が添えられるのは、あたかも犠牲を捧げる相手が人間であるかのようにすることで、ユダヤ人が神の人格性をよく認識するためです。『1ヒン』とは3,8リットルであり、『1エパ』とは23リットルです。夕暮れに捧げる生贄の場合も同様にします。日に2度捧げられるこの生贄は『全焼のいけにえ』であり、神を宥めるための生贄です。神はこの生贄により全く宥められます。何故なら、その生贄は聖なる御子イエス・キリストの象徴だからです。よって、このような生贄を捧げるユダヤ人たちに神は怒られませんでした。

【29:42~46】
『その所でわたしはあなたがたに会い、その所であなたと語る。その所でわたしはイスラエル人に会う。そこはわたしの栄光によって聖とされる。わたしは会見の天幕と祭壇を聖別する。またアロンとその子らを聖別して、彼らを祭司としてわたしに仕えさせよう。わたしはイスラエル人の間に住み、彼らの神となろう。彼らは、わたしが彼らの神、主であり、彼らの間に住むために、彼らをエジプトの地から連れ出した者であることを知るようになる。わたしは彼らの神、主である。』
 神は、祭壇のある天幕の入口で、民とお語りになります。そこに神が非常に強く臨在なさるのです。ユダヤ人はそこで神と会いました。それゆえ、そこは『会見の天幕』と呼ばれます。そこでユダヤ人たちは、神の御声を物理的に聞いていました。しっかりした音声があったのです。しかし、天幕で神がお語りになったのは、天幕生活をしていたカナン入植の前までの時期です。それ以降、神は預言者を通して民に語られるようになります。新約時代の今では、もうこのような神の御声が直接人に語られるということはありません。何故なら、もう既に神の啓示は完結しているからです。また、神の語られた言葉は聖書で記録されて残っています。新約の時代においては、この聖書があればそれで十分なのです。

 この時、神は天幕と祭壇を聖別されました。それは、この2つが神のために用いられるからです。また、この時にはアロンとその子らも聖別されました。彼らは祭司として聖務を行なうからです。私たちは食器や調理器具をまず洗ってから使うでしょう。神が聖所や祭司たちをまず聖別してから用いられるのは、これとよく似ています。このようにして神はイスラエルのうちに神として君臨なさいました(45節)。またユダヤ人も、神がユダヤを救いだして下さった自分たちの神であることを明白に知りました。これは、神が実際にユダヤをエジプトから連れ出され、聖所において彼らと共に歩まれるからです。それまでのユダヤ人はエジプトという牢獄におり、聖所もなかったのです。このような「結果」が、神こそユダヤの神であることを如実に示していたのです。

【30:1~6】
『あなたは、香をたくために壇を作る。それは、アカシヤ材で作らなければならない。長さ一キュビト、幅一キュビトの四角形で、その高さは二キュビトでなければならない。その一部として角をつける。それに、上面と回りの側面と角を純金でかぶせる。その回りに、金の飾り縁を作る。また、その壇のために、その飾り縁の下に、二つの金環を作らなければならない。相対する両側に作らなければならない。これらは、壇をかつぐ棒を通す所となる。その棒はアカシヤ材で作り、それに金をかぶせる。それをあかしの箱をおおう垂れ幕の手前、わたしがあなたとそこで会うあかしの箱の上の『贖いのふた』の手前に置く。』
 至聖所にある契約の箱の手前に置かれる香を焚く壇について規定されています。これは至聖所に置かれますから、アカシヤ材で作られるものの純金で覆わねばなりません。壇の大きさは『長さ一キュビト、幅一キュビトの四角形で、その高さは二キュビト』ですから、長さ44cm、幅44cm、高さ88cmです。これは小さめの円筒花壇や公園の水飲み、タワー型の傘立てなどを考えるとイメージしやすいかもしれません。この壇は、かつぐための棒でかつぎます。この棒の長さについては規定されていません。この棒も、契約の箱に付いている棒と同様(出エジプト25:15)、取り外すべきではなかったと考えられます。棒と棒を通す両側の環は金にせねばなりませんでした。また、壇には角が付けられます。この角が香の壇に付けられるのは、祭壇に付けられた角と同様の意味であり(出エジプト27:2)、香の壇に尊厳を付与するためでしょう。

【30:7~9】
『アロンはその上でかおりの高い香をたく。朝ごとにともしびをととのえるときに、煙を立ち上らせなければならない。アロンは夕暮れにも、ともしびをともすときに、煙を立ち上らせなければならない。これは、あなたがたの代々にわたる、主の前の常供の香のささげ物である。あなたがたは、その上で異なった香や全焼のいけにえや穀物のささげ物をささげてはならない。また、その上に注ぎのぶどう酒を注いではならない。』
 この壇では、その壇がある限り、永久的に朝と夕暮れに香が焚かれなければなりません。このようにするのは神への崇拝行為です。これは最高級の煙でなければいけません。煙を朝と夕に2度焚くのは、祭壇で朝と夕に生贄を捧げるのと同様(出エジプト29:38~39)、恒常性を保つためでしょう。「ずっと続いている感じ」は、明らかに1日1度よりも1日2度のほうが強く生じるからです。煙を焚くのは大祭司であるアロンの仕事でした。

 この壇で『異なった香や全焼のいけにえや穀物のささげ物を』捧げるのは禁止されています。何故なら、それは指示違反の行為だからです。これは例えるならば、聖徒たちが釈迦の名で祈ったり、教会でアラーを礼拝するようなものです。神はこのような違法行為を嫌っておられます。アロンの子ナダブとアビフは『異なった香』を神の御前に捧げましたから、裁かれて死にました(レビ記10:1~2)。また、この壇に『注ぎのぶどう酒を注いではな』りませんでした。これは壇が焚くための場所であって濡らすためにあるのではないからです。壇に葡萄酒を注ぐのは罪です。

【30:10】
『アロンは年に一度、贖罪のための、罪のためのいけにえの血によって、その角の上で贖いをする。すなわち、あなたがたは代々、年に一度このために、贖いをしなければならない。これは、主に対して最も聖なるものである。」』
 この祭壇の角において、大祭司は年に一度、民の罪のために贖いの儀式を行ないます(ヘブル9:7)。この贖罪儀式は『主に対して最も聖なるもの』であり、ユダヤで行なわれる諸々の儀式のうち最高に重要な儀式でした。この儀式を大祭司でない者が行なうことはできません。

【30:11~16】
『主はモーセに告げて仰せられた。「あなたがイスラエル人の登録のため、人口調査をするとき、その登録にあたり、各人は自分自身の贖い金を主に納めなければならない。これは、彼らの登録によって、彼らにわざわいが起こらないためである。登録される者はみな、聖所のシェケルで半シェケルを払わなければならない。一シェケルは二十ゲラであって、おのおの半シェケルを主への奉納物とする。二十歳、またそれ以上の者で登録される者はみな、主にこの奉納物を納めなければならない。あなたがた自身を贖うために、主に奉納物を納めるとき、富んだ者も半シェケルより多く払ってはならず、貧しい者もそれより少なく払ってはならない。イスラエル人から、贖いの銀を受け取ったなら、それは会見の天幕の用に当てる。これは、あなたがた自身の贖いのために、主の前で、イスラエル人のための記念となる。」』
 イスラエルの集団は非常に多くいましたから、当然ながら人口調査が必要となります。彼らがイスラエル人の名簿に登録される際は、『贖い金』を納入せねばなりませんでした。これは彼らが贖われていることを示すための納付金でした。これは『会見の天幕の用に当てる』こととなります。これを納入しないユダヤ人は、天幕のことなど別にどうでもいいと思っています。ですから、登録されたにもかかわらず贖い金を納めないユダヤ人には『わざわい』が起こります。天幕とは偉大な贖い主であられる神の家なのですから。この贖い金は『二十歳、またそれ以上の者』であれば必ず納めねばなりません。イスラエルの成人年齢は13歳でしたから、『二十歳』というのは成人になったら納めるという意味ではありません。この納入金は貧富に関係なく一律です。金持ちだからといって規定の額以上を納めることはできません。また貧乏だからといって納入が免除されることもありません。この箇所で書かれている『一シェケル』とは11,4gであり、『ゲラ』とは0,57gです。この納入金は『銀』で納められましたが、これは当時のイスラエルが銀本位制だったからなのでしょう。福音書に書かれている通り、キリストは本来的にこの納入金を納める必要がありませんでしたが、人々の躓きを避けるために御自身も納めておられます(マタイ17:24~27)。

 この贖い金により『あなたがた自身を贖う』とここでは言われていますが、これはこの納入金が人を贖うという意味ではありません。もしそうだったとすれば、中世カトリックの贖宥状と一緒になってしまいます。昔のカトリックはこの贖宥状により、お金で罪の赦しを信者に買わせていたのでした(このためルターは教皇を「金」と揶揄したのです―シュマルカルデン条項)。言うまでもなく人を贖うのはお金ではなく、神の御子イエス・キリストです。この箇所で『贖い金』と言われているのは、イスラエル人が贖われていることの『記念』(16節)として納入金を納めるからです。何故なら、イスラエル人は神に贖われたからこそ、人口調査の際に登録されるべき聖なる国民とされたのだからです。お金で人の贖いが得られるという思想は聖書になく、それは商売です。

【30:17~21】
『主はまたモーセに告げて仰せられた。「洗いのための青銅の洗盤と青銅の台を作ったなら、それを会見の天幕と祭壇の間に置き、その中に水を入れよ。アロンとその子らは、そこで手と足を洗う。彼らが会見の天幕にはいるときには、水を浴びなければならない。彼らが死なないためである。また、彼らが、主への火によるささげ物を焼いて煙にする務めのために祭壇に近づくときにも、その手、その足を洗う。彼らが死なないためである。これは、彼とその子孫の代々にわたる永遠のおきてである。」』
 天幕と祭壇の間には洗盤が置かれます。祭司であるアロンとその子らは、その洗盤に入った水で手と足を洗ってからでなければ、聖所に入ったり祭壇に近づいたりすることができません。水で清められてから聖務を行なわないと、汚れを嫌われる聖なる神から裁き殺されてしまうからです。この時に洗うのは『手と足』の部位です。何故なら、聖所に入ったり祭壇に近づいたりする際に使う部位は手と足だからです。また、この洗盤は青銅であって純金ではありません。何故なら、これは聖所の中にあるのではないからです。また、この洗盤に入れる水は濁りのない最上の水であるべきでした。神のため行なう聖務に関して最上の物を使わず物惜しみする民族とは一体なんなのでしょうか。ユダヤ人はそういう民族であるべきではありませんでした。

【30:22~29】
『ついで主はモーセに告げて仰せられた。「あなたは、最上の香料を取れ。液体の没薬五百シェケル、かおりの強い肉桂をその半分―二百五十シェケル―、におい菖蒲二百五十シェケル、桂枝を聖所のシェケルで五百シェケル、オリーブ油一ヒン。あなたはこれらをもって聖なるそそぎの油を、調合法にしたがって、混ぜ合わせの香油を作る。これが聖なるそそぎの油となる。この油を次のものにそそぐ。会見の天幕、あかしの箱、机とそのいろいろな器具、燭台とそのいろいろな器具、香の壇、全焼のいけにえのための祭壇とそのいろいろな器具、洗盤とその台。あなたがこれらを聖別するなら、それは、最も聖なるものとなる。これらに触れるものもすべて聖なるものとなる。』
 モーセは聖なる香油を調合して作らねばなりません。これは天幕の聖具に注ぐ物です。この香油が注がれるとその聖具は聖別され、聖務に相応しくなります。この香油のために使われる材料はどれも最高級品でなければなりません。モーセは実際にこの香油を色々な聖具に注ぎました(出エジプト40:9、16)。

【30:30】
『あなたは、アロンとその子らに油をそそぎ、彼らを聖別して祭司としてわたしに仕えさせなければならない。』
 この香油はアロンとその子らが祭司に任職される時にも使われます。先に見た出エジプト28:41の箇所で書かれていた『油』とはこの香油のことでした。この香油は祭司になる者の他、誰にも注がれません。モーセにさえもこの香油が注がれることはありません。後ほどモーセはこの香油をアロンとその子らに注いでいます(出エジプト40:15~16)。

【30:31~33】
『あなたはイスラエル人に告げて言わなければならない。これはあなたがたの代々にわたって、わたしのための聖なるそそぎの油となる。これをだれのからだにもそそいではならない。また、この割合で、これと似たものを作ってはならない。これは聖なるものであり、あなたがたにとっても聖なるものとしなければならない。すべて、これと似たものを調合する者、または、これをほかの人につける者は、だれでもその民から断ち切られなければならない。」』
 聖なる香油は、模造品を作ったり、祭司となる者以外に注いではなりません。それは聖なる香油だからです。この禁止を犯す者は『その民から断ち切られ』、異邦人と見做されてしまいます。その者は神に関する聖なる物(香油)を蔑ろにしています。ですから、そういった者がイスラエルの共同体から除外されても文句は言えません。その者は追放されるのであり、死刑にされるのではありません。しかし、イスラエルから追放されるというのは究極的に言えば死刑も同然です。何故なら、その者は、死刑になった者が地獄行きとなるのと同じで、最後には地獄に行くからです。

【30:34~38】
『主はモーセに仰せられた。「あなたは香料、すなわち、ナタフ香、シェヘレテ香、ヘルベナ香、これらの香料と純粋な乳香を取れ。これはおのおの同じ量でなければならない。これをもって香を、調合法にしたがって、香ばしい聖なる純粋な香油を作る。また、そのいくぶんかを細かに砕き、その一部をわたしがあなたとそこで会う会見の天幕の中のあかしの箱の前に供える。これは、あなたがたにとって最も聖なるものでなければならない。あなたが作る香は、それと同じ割合で自分自身のために作ってはならない。あなたは、それを主に対して聖なるものとしなければならない。これと似たものを作って、これをかぐ者はだれでも、その民から断ち切られる。」』
 モーセはもう一つの香油を作らねばなりません。これは先に見た聖具と祭司たちに降り注ぐ香油とは違った種類の香油です。この香油は契約の箱の前に供えるために使われます(36節)。これは聖具や祭司たちに注いだりしません。この香油も、先の香油と一緒で、模造品を作るならばイスラエルから追い出されました。この香油もやはり超一級品とせねばなりません。ところで、香油を模造したり勝手に使用しただけで追放されるという報復措置は厳し過ぎるのではないかと感じる人がもしかしたらいるかもしれません。しかし、この報復は妥当です。何故なら、その人は聖なる物である香油を冒涜したからです。神に関わる物を冒涜したのであれば、その結果として聖なる共同体から追い出されるというのは何も不思議ではありません。

【31:1~5】
『主はモーセに告げて仰せられた。「見よ。わたしは、ユダ部族のフルの子であるウリの子ベツァルエルを名ざして召し、彼に知恵と英知と知識とあらゆる仕事において、神の霊を満たした。それは、彼が、金や銀や青銅の細工を巧みに設計し、はめ込みの宝石を彫り、木を彫刻し、あらゆる仕事をするためである。』
 神は、ユダ族のベツァルエルに神の霊を満たされ、諸々の聖具を作るように召し出されました。これは先に出エジプト28:3の箇所で言われていた『心に知恵のある者たち』の一人です。ベツァルエルはモーセ時代のミレーでありフェルメールでした。このベルシャツァルの祖父『フル』は、アロンと並ぶほどの指導者であったあのフルだったのかもしれません。しかし、これがあのフルだと確言することはできません。

 神がある人に職能の霊を与えられます。ですから、ベツァルエルがあり、ミレーがあり、フェルメールがあるのです。私が言っているのは優秀性に基づく有名さのことです。つまり、もし神から霊を受けていなければ、ベツァルエルもミレーもフェルメールも優秀ではなく無名だったということです。神の霊を受けている人は大成するでしょう。神から霊を受けていない人は、どれだけ努力しても大成できないかもしれません。死に物狂いになってやっと大成した人がいれば、その人は神の霊を受けていたのです。しかし、神に知恵の心を与えられた人は、その多くが少しの努力しかしなくても最初から注目され称賛される傾向を持っています。

【31:6~11】
『見よ。わたしは、ダン部族のアヒサマクの子オホリアブを、彼のもとに任命した。わたしはすべて心に知恵のある者に知恵を授けた。彼らはわたしがあなたに命じたものを、ことごとく作る。すなわち、会見の天幕、あかしの箱、その上の『贖いのふた』、天幕のあらゆる設備品、机とその付属品、純金の燭台と、そのいろいろな器具、香の壇、全焼のいけにえの祭壇と、そのあらゆる道具、洗盤とその台、式服、すなわち、祭司として使える祭司アロンの聖なる装束と、その子らの装束、そそぎの油、聖所のためのかおりの高い香である。彼らは、すべて、わたしがあなたに命じたとおりに作らなければならない。』
 ベツァルエルの他にもダン族のオホリアブなどが、天幕とそこにある聖具を作るための職人として召し出されました。制作人に求められるのは、この時の場合、何よりも技術力でした。何故ならば神の家とそこにある聖具がかかっているからです。意欲はあっても技術力がなければ採用されるべきではなかったのです。技術があって意欲もあれば最も良かったのは言うまでもありません。ここでは『ベツァルエル』のほうが『オホリアブ』よりも先に書かれていますから、ベツァルエルが最も卓越した職人だったのでしょう。聖書の多くの箇所では、その書き順により力量や序列の順番をそのまま反映していますが、出エジプト31:1~11の箇所もこの例に漏れていないと思われます。

【31:12~17】
『主はモーセに告げて仰せられた。「あなたはイスラエル人に告げて言え。あなたがたは、必ずわたしの安息を守らなければならない。これは、代々にわたり、わたしとあなたがたとの間のしるし、わたしがあなたがたを聖別する主であることを、あなたがたが知るためのものなのである。これは、あなたがたにとって聖なるものであるから、あなたがたはこの安息を守らなければならない。これを汚す者は必ず殺されなければならない。この安息中に仕事をする者は、だれでも、その民から断ち切られる。六日間は仕事をしてもよい。しかし、七日目は、主の聖なる全き休みの安息日である。安息の日に仕事をする者は、だれでも必ず殺されなければならない。イスラエル人はこの安息を守り、永遠の契約として、代々にわたり、この安息を守らなければならない。これは、永遠に、わたしとイスラエル人との間のしるしである。それは主が六日間に天と地とを造り、七日目に休み、いこわれたからである。」』
 前に述べられた通り、律法のうちで最も厳しく命じられている戒めの一つは安息日の規定です。この箇所では、再び安息日のことが、しかもかなり長めの文章で命じられています。更に、ここでは安息日破りが死罪に定められています。そして、この安息日の遵守については、聖書でこれからも繰り返し書かれることとなります。このようなことを考えると、神がどれだけユダヤ人に安息日を守らせようとしておられたかよく分かるのではないかと思います。しかし、どうして安息日を守らなければ死刑に処せられなければいけないのでしょうか。これは安息日がキリストを象徴しているからです。安息日を破るユダヤ人は、その安息日が示すキリストを否定しています。このキリストは『いのち』(ヨハネ14章6節)ですから、キリストの影である安息日を守らない者はつまり死を愛していることになります。そのような者は、命の民であるユダヤに相応しくないので、殺されて滅ぼされねばならないのです。しかし、安息日破りの罪を死刑ではなく追放刑にすることはできなかったのでしょうか。神はこの罪に死刑を定めることで、ユダヤ人に安息日を忠実に守らせようとしておられました。何故なら、この罪を犯した者が死刑になれば、ユダヤ全体にこの罪への抑止力が発生するからです。律法が命じている通り、ユダヤ人たちは死刑囚を皆で一緒に殺していましたから(申命記17:7、他)、死刑のほうが追放刑よりも強い抑止力となったはずなのです。それゆえ、もし安息日の違反が最高度の重大性を持ってはいなかったとすれば、安息日を守らなかった者には死刑でなく追放刑が与えられていた可能性もあります。このような戒めの厳しさに精神が委縮してしまったので、ユダヤ人たちは安息日であればたとえ戦争の仕事であっても休むという行き過ぎの誤謬に陥ってしまいました。ユダヤ人は安息日を破れば殺されるという恐れで精神が硬直してしまい、戦争時でも安息日を守って休むということのおかしさに気付けなかったのです。このようにユダヤ人がなってしまったのは、安息日の戒めを厳しくされた神に原因があるのではありません。ユダヤ人がこうなったのは全く彼らの責任によりました。

 このようにユダヤ人は安息日を何としてでも守らねばならないと思っていたので、安息日を破っておられるキリストに対して憤ったのです(ヨハネ5:18)。ところが、愚かなユダヤ人たちは、確かなところ安息日について思い違いをしていました。彼らは安息日であれば、もうとにかく何であれあらゆる業を停止すべきだと思っていたのです。たとえそれが善という仕事であっても、です。もし善のために仕事をするのであれば安息日に違反しても罪とはならず、むしろそれは神に喜ばれます。何故なら、律法の本質とは愛だからです。安息日を破っておられたキリストに憤った愚かなユダヤ人たちは、例えば敵の家畜が安息日に迷っているのを見ても、安息日だからというのでその家畜を持ち主のもとに戻してやらなかったのです。安息日にはどのような仕事もしてはいけないと思っていたからです。律法は敵の家畜が迷っていたら元に戻してやれと命じています(出エジプト23:4)。これは明らかに善であり、もしこのようにしなければ罪を犯すのです。キリストが安息日を破っておられたのは、こういった律法が命じている愛に基づく善のためだったのです。これは破ってもよい破り方でした。いや、むしろそのためには是非とも破るのが望ましい破り方でした。ですから、キリストは安息日を破っておられたからといって、罪を犯しておられたのではありません。ところがユダヤ人たちは何も分かっていないので、キリストを律法の違反者だと見做してしまったのです。正に呪われていたとしか言いようがありません。

【31:18】
『こうして主は、シナイ山でモーセと語り終えられたとき、あかしの板二枚、すなわち、神の指で書かれた石の板をモーセに授けられた。』
 こうして神はモーセに、十戒の記された『あかしの板二枚』をお授けになりました。これは『神の指』で直に書かれた板でした。この2枚の板に十の戒めがどのような仕方で書かれていたかということについては、また後ほど見たいと思います。

【32:1】
『民はモーセが山から降りて来るのに手間取っているのを見て、アロンのもとに集まり、彼に言った。「さあ、私たちに先立って行く神を、造ってください。私たちをエジプトの地から連れ上ったあのモーセという者が、どうなったのか、私たちにはわからないから。」』
 モーセがシナイ山から下山する際に『手間取って』しまったのは、年のせいだったのか、疲れていたり空腹だったせいか、山の道が険しかったせいか、その他の理由からなのか、私たちには分かりません。麓でモーセを待っていたユダヤ人たちは待ち切れなくなり、早く自分たちを導いてくれる神が欲しいと思いました。このため彼らはアロンに偶像の神を求めてしまいました。少し前に偶像崇拝を禁止する戒めを聞き、その戒めに服従すると明言していたにもかかわらず(出エジプト20:19、24:3、7)、です。ここに彼らの罪があります。彼らが戒めを聞いて服従すると言ってから反逆するまでのスピードは光さえも敵わないほどでした。

【32:2~6】
『それで、アロンは彼らに言った。「あなたがたの妻や、息子、娘たちの耳にある金の耳輪をはずして、私のところに持って来なさい。」そこで、民はみな、その耳にある金の耳輪をはずして、アロンのところに持って来た。彼がそれを、彼らの手から受け取り、のみで型を造り、鋳物の子牛にした。彼らは、「イスラエルよ。これがあなたをエジプトの地から連れ上ったあなたの神だ。」と言った。アロンはこれを見て、その前に祭壇を築いた。そして、アロンは呼ばわって言った。「あすは主への祭りである。」そこで、翌日、朝早く彼らは全焼のいけにえをささげ、和解のいけにえを供えた。そして、民はすわっては、飲み食いし、立っては、戯れた。』
 偉大なアロンといえどもやはり弱く罪深い人間の一人です。彼には老いから来る臆病さと精神能力の衰えもあったかもしれません。このアロンは偶像を求める民の声に屈してしまいました。偶像を拝んではならないと民に命じ、もし民が偶像崇拝の罪を犯したならば民に代わって贖罪の儀式を行なう、このアロンがです。これは非常に大きな罪でした。しかも、アロンは自分自身の手で偶像の子牛を造りました。他の人に造らせたのではありません。この子牛がどのぐらいの大きさだったのか、また出来はどうだったのか、ということはどうでもいいことです。ただアロンが民のために偶像をその手で造ったということさえ分かっていれば。ですから聖書もこの子牛について詳細を述べていません。アロンは子牛を造った罪に、その子牛の前で生贄を捧げるという罪を重ねました。その時に『民はすわっては、飲み食いし、立っては、戯れ』ました。この出来事はパウロがⅠコリント10:7の箇所で聖徒たちに思い返させています。せっかく神の御前で聖なる歩みをすべくエジプトから救い出されたというのに、もうこの有様です。誠に悲惨な状況がイスラエルには生じていました。アロンがこのような罪を犯したのは、警視総監が強盗殺人の罪を犯したり、国連の事務総長が人身売買の国際グループを結成し統御するようなものです。一体なんということをしてしまったのでしょうか、アロンは。

 聖書は、このようにアロンの罪深さを包み隠さずに記録しています。これはアロンの神格化を防ぐためです。もしこういった醜態が記録されなければ、アロンが神格化される可能性はそれだけ高まります。アロンがこのようなことをしたのは実に残念でした。しかし、アロンの醜態が記録されたこと自体は望ましいことでした。何故なら、人間は弱いのですぐ誰かを神格化しようとするからです。アロンはこのような罪を犯したのに、今でもよく子の命名に使われるぐらいの偉大な人です。であれば、こういった罪が記録されていなければ、どれだけ神格化の危険が増していたことでしょうか。

 その宗教の信者または民が、自分たちの宗教の神に服従するというのは当然です。イスラム教徒であればアラーに従いますし、仏教徒であれば神ではありませんが釈迦に逆らったりはしませんし、ヒンドゥー教の信者も彼らの神々を蔑ろにはしません。こんなことはいちいち言うまでもないぐらいのことです。何故なら、宗教はその信者が神に服従することで成り立つからです。ところが、古代ユダヤ教の信者だけは、この箇所の出来事や、これから聖書に書かれている出来事を見ても分かる通り、自分たちの神に忠実ではありませんでした。このようなことは他の宗教では考えられないことです。古代ユダヤ教ほどではありませんが、キリスト教でもこのような傾向があります。実際、パウロは誰もキリストを求めている人などいないと言いました(ピリピ2:21)。ルターも「本当のキリスト者は少ない。」と言っています。古代ユダヤ教の反逆について言えば、イスラム教徒がアラーとマホメットに背いたり、仏教徒が釈迦を無視したり、ヒンドゥー教徒がシヴァやカーリーに反逆するのと一緒です。これは悲惨の極みだと言わねばなりません。しかしながら、ここから私たちは重要なことを悟れます。すなわち、真の宗教は非常に難しいということです。真の宗教において真の神と向き合うならば、人の心はどうしても反発してしまいます。何故なら、真の神とその教えは最高に高く、それに対して人間はもうまったく堕落しているからです。真の神に堕落して腐った人間が従うというのは本来的に不可能なのであり、神に選ばれた一握りの人たちが不完全ながらもどうにかして服従できるだけなのです。このため、真の宗教である古代ユダヤ教およびキリスト教の中では、神の御名に泥を塗るような出来事が多く見られるわけです。一方、この2つの宗教以外の宗教は真の宗教ではありません。その宗教で神とされている存在は本当の神ではありません(ガラテヤ4:8)。それはサタンによる神の幻影です。そのような偽物の神を相手にしている宗教では、その信者の心が反発することもありません。何故なら人間は全て堕落しているからです。「堕落」とは真の存在を嫌い、むしろ偽りの存在をこそ愛好するということです。だからこそ、古代ユダヤ教とキリスト教以外の宗教の信者たちは、特にイスラム教徒がそうですが、世俗的でない本当に敬虔な宗教性を持つことが出来ているのです。堕落した人間の心は偽りの神々と相性が非常に良いのです。相手が本物の神でなければ確かに心が反逆するということもありますまい。「どうして古代ユダヤ教とキリスト教の信者はあんなにも不敬虔なのだろうか。自分たちの宗教を汚している人が多くいるではないか。」と思ったことのある人は少なくないかもしれません。これは今述べたことから分かる通り、この2つの宗教だけが唯一真の宗教だからなのです。

【32:7~8】
『主はモーセに仰せられた。「さあ、すぐ降りて行け。あなたがエジプトの地から連れ上ったあなたの民は、堕落してしまったから。彼らは早くも、わたしが彼らに命じた道からはずれ、自分たちのために鋳物の子牛を造り、それを伏し拝み、それにいけにえをささげ、『イスラエルよ。これがあなたをエジプトの地から連れ上ったあなたの神だ。』と言っている。」』
 神は宇宙のどこにでもおられますから、当然ながらこの時の偶像崇拝もまざまざと御覧になっておられました。この偶像崇拝を神はここで断罪しておられます。神は率直にイスラエルの堕落を指摘しておられます。イスラエル人たちには全く弁解の余地がありませんでした。この時にはキケロとデモステネスでさえイスラエル人の弁護を辞退したことでしょう。というのも神の正当な指摘の前では、弁護しようにもできないからです。

【32:9~10】
『主はまた、モーセに仰せられた。「わたしはこの民を見た。これは、実にうなじのこわい民だ。今はただ、わたしのするままにせよ。わたしの怒りが彼らに向かって燃え上がって、わたしが彼らを絶ち滅ぼすためだ。しかし、わたしはあなたを大いなる国民としよう。」』
 神は偶像崇拝に陥ったユダヤ人を滅ぼそうとしておられます。それは彼らが『うなじのこわい民』だったからです。この表現は聖書で多く出てきますが、これはユダヤ人の頑なさを、うなじという首の部分における「こわさ」すなわち抵抗の強さで例えているのでしょう。つまり、ユダヤ人の頑なさは首が固くて動かない人のようだったということです。「右に向け。」と支配者から言われても首を右に向けようとしない人がユダヤ人―『うなじのこわい民』―なのです。ユダヤ人はこの偶像崇拝により神を捨てていました。ですから、神もユダヤ人を捨てて滅ぼそうとされたのでした。しかし、神はモーセだけは『大いなる国民』つまり歴史に名を残す偉大な人物にしようと言っておられます。これは民が偶像崇拝をしている中にあって、モーセだけは神の御前にいて忠実だったからです。

【32:11~14】
『しかしモーセは、彼の神、主に嘆願して言った。「主よ。あなたが偉大な力と力強い御手をもって、エジプトの地から連れ出されたご自分の民に向かって、どうして、あなたは御怒りを燃やされるのですか。また、どうしてエジプト人が『神は彼らを山地で殺し、地の面から絶ち滅ぼすために、悪意をもって彼らを連れ出したのだ。』と言うようにされるのですか。どうか、あなたの燃える怒りをおさめ、あなたの民へのわざわいを思い直してください。あなたのしもべアブラハム、イサク、イスラエルを覚えてください。あなたはご自身にかけて彼らに誓い、そうして、彼らに、『わたしはあなたがたの子孫を空の星のようにふやし、わたしが約束したこの地をすべて、あなたがたの子孫に与え、彼らは永久にこれを相続地とするようになる。』と仰せられたのです。」すると、主はその民に下すと仰せられたわざわいを思い直された。』
 イスラエルを滅ぼすと言われた神に対し、モーセは御名の名誉に訴えて決定を変えるよう嘆願しています。「もしここであなたがイスラエルを滅ぼされたらあなたの御名がエジプト人から蔑ろにされてしまいます。そうなってもよいのでしょうか。」とモーセは言っています。モーセの言ったことはもっともでした。ですから、神はモーセの嘆願を聞き入れ、イスラエル人への裁きを思い直されました。というのも、神にとって御自身の栄誉は最高に重要だからです。しかし、モーセがこのように嘆願したのは僭越だったのではないか、と思われる人もいるかもしれません。確かに神の意志を変えようとするのは無謀にも思えます。しかし、この時にはそのようにしても問題ありませんでした。神は、モーセがどのように応じるのか知っておられたからこそ、イスラエルを滅ぼすと言われたからです。つまり、神はモーセに嘆願の言葉を発させようとしてイスラエルを滅ぼすと言われたのです。神には最初からイスラエルを滅ぼすつもりなどありませんでした。モーセが御名の栄誉のために言ったことぐらい、神には分かり切ったことでした。しかし、神がイスラエル人の罪にどれだけ怒っておられるか示されねばなりません。ですから、神はまず怒りを表明してからモーセの嘆願により考えを変えたかのように見せる、というやり方をされたのです。こうすれば、神がイスラエル人の滅びを願われたほどに怒られたということが示される上に、イスラエル人を滅ぼさないままでいることもできるからです。ですから、モーセがこのように嘆願することはどうしても必要でした。神は全てを計算して語っておられたのです。しかしながら、もしモーセが嘆願しなかったとすれば、イスラエル人は本当に滅ぼされていたかもしれません。その場合、この時にイスラエル民族の歴史は終わっていたでしょう。このように御名の栄誉に訴えて嘆願するというやり方は、アブラハムもしています(創世記18:23~25)。もし本当に御名の栄誉だけを思って嘆願するというのであれば、私たちがこのような嘆願をしても僭越にはならないでしょう。また、モーセはアブラハム、イサク、イスラエル(ヤコブ)に誓われた神の約束にも訴えています。「もしあなたがここでイスラエルを滅ぼされたら、父祖たちの子孫に約束の地を与えると言われたあの誓いはどうなるのでしょうか。」とモーセは言っています。神は御自分の誓いを決して破られませんから、モーセのこの言葉に心を動かされました(13~14節)。このようにモーセが父祖たちへ与えられた神の誓いに訴えかけたのは正しいやり方でした。

【32:15~16】
『モーセは向き直り、二枚のあかしの板を手にして山から降りた。板は両面から書いてあった。すなわち、表と裏に書いてあった。板はそれ自体神の作であった。その字は神の字であって、その板に刻まれていた。』
 モーセに与えられた十戒が書かれている『二枚のあかしの板』について説明されています。この2枚の板は全てが神の手により作られていました。人間の手はそこに加えられていませんでした。既に述べた通り、この板に書かれている字は『神の字』でした。この2枚の板がそれぞれどのぐらいのサイズだったかは何も書かれていません。絵画などではこの板がだいたい液晶ディスプレイの30型ぐらいとして書かれているように感じられます。しかし、何かの創作品に書かれている板は実際のサイズを反映できていない可能性もありますから、私はあまり信用しません。問題なのは、この2枚の板に10の戒めがどのように記されたか、ということです。考えられるのは次の3つです。①:それぞれ一枚の板には、表に神に関する戒めが、裏に人間に関する戒めが書かれていた。②:一方の板には表にも裏にも神に関する戒めが4つ、もう一方の板には表にも裏にも人間に関する戒めが6つ書かれていた。③:一方の板の表には神に関する戒めの1~2番目までが、その裏には神に関する戒めの3~4番目までが書かれており、もう一方の板の表には人間に関する戒めの5~7番目までが、その裏には人間に関する戒めの8~10番目までが書かれていた。この3つ以外に可能性として考えられる書き方はありません。聖書にどのようにして書かれたか手掛かりとなる箇所は、私の知る限りではありません。よって、戒めの書かれ方について私は何も言うことができません。ある人はこれこれこうであったと板の書かれ方について確定的なことを言っています。しかし、その人はどうしてそう言えるのか根拠を示していませんでした。

【32:17~20】
『ヨシュアは民の叫ぶ大声を聞いて、モーセに言った。「宿営の中にいくさの声がします。」するとモーセは言った。「それは勝利を叫ぶ声ではなく、敗北を嘆く声でもない。私の聞くのは、歌を歌う声である。」宿営に近づいて、子牛と踊りを見るなり、モーセの怒りは燃え上がった。そして手からあの板を投げ捨て、それを山のふもとで砕いてしまった。それから、彼らが造った子牛を取り、これを火で焼き、さらにそれを粉々に砕き、それを水の上にまき散らし、イスラエル人に飲ませた。』
 モーセと一緒に下山していたヨシュアは、偶像礼拝をして叫んでいるイスラエル人の声を『いくさの声』だと間違って捉えました。しかし、モーセはその声が『歌を歌う声』だとすぐに分かりました。モーセが高齢のわりには年下のヨシュアより耳が良かったというのではありません。モーセは神からの説明を聞いていたので(出エジプト32:7~8)、イスラエル人の出している声がどのような声なのか分かったのです。ヨシュアがイスラエル人の声を間違って捉えたのは、モーセとは違い神の説明を聞いていなかったからでしょう。モーセはユダヤ人の気違いじみたお遊び劇場を見ると激しく怒り、神の板を投げて砕き、その破片を愚かなユダヤ人の胃にぶち込みました。この時にモーセが感じていた怒りはどれほどのものだったでしょうか。心臓が今にも破裂せんばかりだったに違いありません。

 激しい怒りに駆られたからといって神から授けられた板を砕いてしまうのはやり過ぎだったのではないか、と思う人がいるかもしれません。このように思う人の気持ちは私にもよく分かります。しかし、モーセはイスラエル人の偶像礼拝を見て、何のために板を持っているのか分からなくなってしまったのです。何故なら、その時にイスラエル人がしていたことは、モーセが持っていた板に書かれている戒めを否定していたからです。これではモーセが義憤に突き動かされて板を砕いてしまったとしても不思議ではありません。モーセがこのように板を砕いたのは罪ではありませんでした。ですから、神もモーセのこの行ないについて全く断罪されませんでした。

【32:21~24】
『モーセはアロンに言った。「この民はあなたに何をしたのですか。あなたが彼らにこんな大きな罪を犯させたのは。」アロンは言った。「わが主よ。どうか怒りを燃やさないでください。あなた自身、民の悪いのを知っているでしょう。彼らは私に言いました。『私たちに先立って行く神を、造ってくれ。私たちをエジプトの地から連れ上ったあのモーセという者が、どうなったのか、私たちにはわからないから。』それで、私は彼らに、『だれでも、金を持っている者は私のために、それを取りはずせ。』と言いました。彼らはそれを私に渡したので、私がこれを火に投げ入れたところ、この子牛が出て来たのです。」』
 モーセの尋問に対し、アロンは苦しい弁明をしています。民から渡された金を火に投げ入れたら偶像の子牛が出て来た、とアロンは言います。金を火に入れて子牛の像が出て来るはずはありません!モーセに自分が子牛を造ったことを知られたくないというアロンの思惑が、私たちには透けて見えます。これは偽証の罪です。アロンは素直に「私が子牛の像を自分の手で造ったのです。」と言うべきでした。このように聖書では、イスラエルの恥辱となる歴史が、これでもかと言わんばかりに記されています。聖書を書いたのは、ごく一部を除いてユダヤ人です。そのユダヤ人が、自分たちの不名誉となるような出来事を容赦なく聖書で書き記しています。諸国の歴史教科書であれば、これは全く考えられないことです。我が日本でも1945年8月15日の敗戦を「敗戦」とは言わないで「終戦」と言い換えています。「敗戦」などと言うのは屈辱的だからなのでしょう。ところが聖書には、ユダヤ人がユダヤ人の屈辱的な出来事を幾つもまざまざと書いているのです。この箇所もそうです。これは、ユダヤ人が神に動かされて聖書を書いていたからに他なりません。神は、後世の聖徒たちが教訓を得られるようにと、ユダヤ人の恥ずべき歴史をこれでもかと言わんばかりに多くユダヤ人を通して書かれたのです。もし聖書があくまでも人間自身の書いた書物に過ぎなかったとすれば、こんなにもユダヤ人に恥辱をもたらす出来事が書かれていることはなかったでしょう。

 ところで、この箇所でアロンがモーセを『わが主』と呼んでいるのは問題ないのか、と思う人がいるかもしれません。つまり、これはモーセを主なる神も同然にしている偶像崇拝ではないのか、ということです。アロンがモーセを『主』と言ったのは問題ありませんでした。何故なら、この『主』とは「神から主のような存在として定められた上位の者」というほどの意味でしかないからです。これは妻が夫のことを『主』(Ⅰペテロ3章6節)と呼ぶのと同じ類です。妻が夫を主と呼んだからといって夫を偶像崇拝しているのではないのと同様、アロンもモーセを主と呼んでいたからといってモーセを偶像崇拝していたのではありませんでした。もしアロンが宗教的な意味で『主』とモーセを呼んでいたとすれば問題でしたが、アロンは社会的な立場としてモーセを『主』と呼んでいただけですから問題ありませんでした。

【32:25~29】
『モーセは、民が乱れており、アロンが彼らをほうっておいたので、敵の物笑いとなっているのを見た。そこでモーセは宿営の入口に立って「だれでも、主につく者は、私のところに。」と言った。するとレビ族がみな、彼のところに集まった。そこで、モーセは彼らに言った。「イスラエルの神、主はこう仰せられる。おのおの腰に剣を帯び、宿営の中を入口から入口へ行き巡って、おのおのその兄弟、その友、その隣人を殺せ。」レビ族は、モーセのことばどおりに行なった。その日、民のうち、おおよそ三千人が倒れた。そこで、モーセは言った。「あなたがたは、おのおのその子、その兄弟に逆らっても、きょう、主に身をささげよ。主が、きょう、あなたがたに祝福をお与えになるために。」』
 ユダヤ人が自分たちの神に従わないで子牛を拝んでわいわいやっていたので、『敵』はそのようなユダヤ人をあざ笑っていました。これはイスラム教徒がアラーを無視してヒンドゥー教の神々を拝んでそれに仕えていたり、ヒンドゥー教徒がアラーの前でアラーに関する宗教祭を喜び行なっているのと同じです。これでは物笑いの種とされても文句は言えません。この箇所で言われている『敵』とは、パランの荒野にいたアマレク人を指しています。

 このような中にあって、モーセが偶像ではなくヤハウェにこそ忠誠を誓う者を募ると、モーセと同族のレビ人たちが集まって来ました。この箇所では具体的にどれだけレビ人が集まったか書かれていませんが、『みな』と書かれていますからほとんど全てのレビ人が集まったのでしょう。モーセは自分のもとに集まったレビ人に対し、ユダヤ人の粛清を命じました。その時に殺された偶像崇拝者は『おおよそ三千人』でした。子牛を崇拝した者はもっと多くいたのですが、殺されたのはこれだけであったという可能性もあります。モーセがユダヤ人を粛正したのはイスラエルから悪を取り除くためでした。また、敵であるアマレク人にこれ以上侮られるのを防ぐ目的もあったはずです。この時に殺されたユダヤ人はもちろん実際に子牛を拝んだ者だけだったはずです。何故なら、偶像崇拝をしていないユダヤ人がどうして粛清されねばならないのでしょうか。この時に粛清されたユダヤ人が死んだのは自分たちの犯した致命的な罪悪のためだったのですから、自業自得でした。アロンはこの大事件における統導者また首謀者であって死刑に処せられるべき巨悪を犯していましたが、昭和天皇のように断罪と死刑を免れました。これは天皇が日本に必要かつ重要であったのと同様、アロンがイスラエル全体にとって必要かつ重要な存在だったからです。ところで、このモーセの指令は、シェケム人を大量虐殺したモーセの先祖であるレビの血がモーセのうちで騒いだからではないか、と思う人がいるかもしれません。確かに怒ってから大量虐殺を実現させたという点で、モーセはその先祖であるレビと一緒です。しかし、モーセがレビ人に行なわせた粛清は全く問題ありませんでした。何故なら、モーセは神により粛清を命じたからです(27節)。一方、レビの行なった大量虐殺には神による指令がありませんでしたし、レビには人を合法的に裁く社会的な権能もなかったのですから、本当であればすべきことではありませんでした。

 モーセの命令通り、レビ人はこの時に自分たちを神に捧げました(29節)。こうしてレビ人は神の物となりました。このためレビ人は他の部族と違って相続地を得ることがありませんでした(レビ記18:23)。神こそがレビ人たちの相続地だったのです(レビ記18:20)。レビ人が土地を相続するのではありません。神がレビ人という土地に住まわれるのです。これはレビ人が神に身を捧げたからです。それでは、もしレビ人が自分たちを神に捧げなかったとすれば、レビ人も他の部族と同様、自分たちの相続地を持てていたのでしょうか。そのようになっていた可能性はあります。しかし、そもそもレビ人が自分たちを神に捧げないということは起こり得ませんでした。何故なら、レビ人が自分たちの相続地を持てないというのは400年も前から預言されていた神の定めだったからです(創世記49:7)。

【32:30~35】
『翌日になって、モーセは民に言った。「あなたがたは大きな罪を犯した。それで今、私は主のところに上って行く。たぶんあなたがたの罪のために贖うことができるでしょう。」そこでモーセは主のところに戻って、申し上げた。「ああ、この民は大きな罪を犯してしまいました。自分たちのために金の神を造ったのです。今、もし、彼らの罪をお赦しくだされるものなら―。しかし、もしも、かないませんなら、どうか、あなたがお書きになったあなたの書物から、私の名を消し去ってください。」すると主はモーセに仰せられた。「わたしに罪を犯した者はだれであれ、わたしの書物から消し去ろう。しかし、今は行って、わたしがあなたに告げた場所に、民を導け。見よ。わたしの使いが、あなたの前を行く。わたしのさばきの日にわたしが彼らの罪をさばく。」こうして、主は民を打たれた。アロンが造った子牛を彼らが礼拝したからである。』
 モーセは、神がイスラエルの罪を赦して下さるであろうと期待しています。何故なら、神とは『あわれみ深く、情け深い神』であり『咎とそむきと罪を赦す者』(出エジプト34:6~7)であられるからです。モーセがそのような期待を持って神のもとへ戻ると、『あなたの書物から、私の名を消し去って』も構わないという覚悟で罪の赦しを求めました。『あなたの書物』とは、イエス・キリストにおける永遠の命への選びを象徴する表現です。黙示録では『いのちの書』(21章27節)と書かれています。この象徴表現については黙示録註解の中で詳しく述べておきました。モーセは、もしイスラエルの罪が赦されなければこの選びから除外されてもいいとさえ言っています。つまり、地獄に行っても構わないということです。これほどの強い覚悟は他にありません。これは、モーセが本当に純粋な心から強くイスラエルの赦しを求めていたことを示しています。このようにお願いしたモーセに対し、神はモーセのことを全く不問としました。何故なら、モーセは偶像崇拝に何も関わっていなかったからです。しかし、実際に偶像崇拝をした者どもは『わたしの書物から消し去』られる、すなわち地獄に投げ込まれることとなりました。何故なら、偶像を拝む者は裁きとして永遠の火で苦しまねばならないからです(黙示録21:8)。このように偶像崇拝の罪を犯す者は悲惨なことになります。日本も偶像崇拝をしていたので第二次世界大戦で悲惨になってしまいました。そして神は、このような問題に関わるのではなくイスラエル人を導く任務に専心せよ、とモーセに命じています。モーセはとにかくイスラエル人を約束の地カナンに導くため努力すべきだったのです。神が言っておられる通り、このモーセを『わたしの使い』が先導して下さいます。これは既に出エジプト23:20~21の箇所で言われていた存在であって、イエス・キリストです。

 ここに書かれている『さばきの日』とは、何のことでしょうか、またそれはいつのことでしょうか。これは、積もり積もったユダヤ人の罪が遂に裁かれて、ユダヤ人が神の御前から捨てられてしまう時のことです。これは『日』と書かれていますが、ある特定の日ではなく、ユダヤ人が裁かれる時のことを大胆に示しています。その時とはユダヤ戦争の時であり、それは紀元70年9月2日に全うされました。その時代にユダヤ人はメシアを殺してしまいましたから、もうこれは駄目だということになり、それまでに積み重ねられた罪が遂に最終的な裁きとして実を結んだのでした。この裁きについてはキリストがマタイ23:33~36の箇所で言っておられます。この『さばきの日』を、紀元前8世紀のアッシリヤによる滅びか、紀元前6世紀のバビロンによる滅びか、紀元前2世紀のアンティオコス4世による滅びのどれかだったと解する人もいるかもしれません。しかし、前述したキリストの明白な御言葉がありますから、これは紀元1世紀のローマによる滅びであるとすべきでしょう。

【33:1~3】
『主はモーセに仰せられた。「あなたも、あなたがエジプトの地から連れ上った民も、わたしがアブラハム、イサク、ヤコブに誓って、『これをあなたの子孫に与える。』と言った地にここから上って行け。わたしはあなたがたの前にひとりの使いを遣わし、わたしが、カナン人、エモリ人、ヘテ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人を追い払い、乳と蜜の流れる地にあなたがたを行かせよう。わたしは、あなたがたのうちにあっては上らないからである。あなたがたはうなじのこわい民であるから、わたしが途中であなたがたを絶ち滅ぼすようなことがあるといけないから。」』
 神は、ユダヤ人が約束の地に向かって進むよう命じられます。というのも、ユダヤ人は約束の地に行くためにエジプトから連れ出されたからです。もしユダヤ人が約束の地カナンに向かわないのであれば、何のためにエジプトから連れ出されたのか分からなくなってしまいます。また、神はここでも『ひとりの使い』について語っておられます。この『ひとりの使い』すなわちイエス・キリストが、ユダヤ人をカナンに行かせて下さいます。これはよく弁えておかねばなりません。何故なら、これはキリストが聖徒たちを天国に導いて下さることを示しているからです。すなわち、カナンとは天国の象徴です。天国は霊的なカナンなのです。キリストが古代ユダヤ人をカナンという至福の場所に導かれたように、キリストは全ての聖徒たちを天国という至福の場所に導いて下さいます。さて、この箇所では神がユダヤ人をカナンに行かせると言っておられます(3節)。しかし、この箇所では神がユダヤ人と共にカナンには行かないとも言われています(3節)。ユダヤ人をカナンに行かせるのに行かせないというこの矛盾はどう解決したらよいでしょうか。これはこう考えねばなりません。神がユダヤ人をカナンに行かせると言われたのは「ユダヤ人という民族そのもの」についてです。一方、神がユダヤ人と共にカナンには行かないと言われたのは「モーセ時代の反逆的なユダヤ人」についてです。つまり、神はユダヤ人という民族をカナンに行かせるものの、この時のユダヤ人を行かせるのではないと言われたのです。何故なら、カナンに行くユダヤ人は次の世代のユダヤ人だったからです。よく理解しようとしなければこの矛盾が解決できないままになってしまいます。注意せねばなりません。

【33:4~6】
『民はこの悪い知らせを聞いて悲しみ痛み、だれひとり、その飾り物を身に着ける者はいなかった。主はモーセに、仰せられた。「イスラエル人に言え。あなたがたは、うなじのこわい民だ。一時でもあなたがたのうちにあって、上って行こうものなら、わたしはあなたがたを絶ち滅ぼしてしまうだろう。今、あなたがたの飾り物を身から取りはずしなさい。そうすれば、わたしはあなたがたをどうするかを考えよう。」それで、イスラエル人はホレブの山以来、その飾り物を取りはずしていた。』
 神は、ユダヤ人がそれまで着けていた装飾品を外すよう命じられます。この時は言わば喪の時のようだったからです。喪の時に、華やかな服装をしたり御洒落な装飾で身を飾ったりして明るくなろうとする人などいません。そのような人がいれば不謹慎だと思われてしまいます。ですから、この時以降、荒野にいたユダヤ人たちはもう装飾品を身に着けることがありませんでした。この時にユダヤ人が感じていた悲痛はどれほどだったでしょうか。私たちには想像できないぐらいの悲しみがあったに違いありません。神はこのようなユダヤ人たちに激怒しておられました。ですから、もしユダヤ人と共にカナンへ行こうとすれば途中でユダヤ人を滅ぼしてしまいかねません(5節)。しかし、ユダヤ人を滅ぼすのは、先にも見たように神の名声に関わります(出エジプト32:12)。ですから、神はユダヤ人を滅ぼさないまでも荒野で彷徨わせることにされたのです。

【33:7~11】
『モーセはいつも天幕を取り、自分のためにこれを宿営の外の、宿営から離れた所に張り、そしてこれを会見の天幕と呼んでいた。だれでも主に伺いを立てる者は、宿営の外にある会見の天幕に行くのであった。モーセがこの天幕に出て行くときは、民はみな立ち上がり、おのおの自分の天幕の入口に立って、モーセが天幕にはいるまで、彼を見守った。モーセが天幕にはいると、雲の柱が降りて来て、天幕の入口に立った。主はモーセと語られた。民は、みな、天幕の入口に雲の柱が立つのを見た。民はみな立って、おのおの自分の天幕の入口で伏し拝んだ。主は、人が自分の友と語るように、顔と顔とを合わせてモーセに語られた。モーセが宿営に帰ると、彼の従者でヌンの子ヨシュアという若者が幕屋を離れないでいた。』
 モーセは神と会見するための天幕を、『宿営の外の、宿営から離れた所』に張っていました。どうしてモーセが宿営の中に天幕を張らなかったかといえば、それは『自分のため』です。つまり、モーセは反逆的なユダヤ人たちのいる宿営の中で義なる神に会いに行くのを嫌がったのです。それは気持ちの良いことではありませんでした。というのも『友だちが悪ければ、良い習慣が損なわれ』(Ⅰコリント15章33節)てしまうからです。堕落していたユダヤ人が沢山いる中で神に会いに行けば、良からぬ影響が出てしまいかねません。ですから、もしユダヤ人が敬虔であれば、モーセは宿営の中に天幕を張っていたかもしれません。モーセが宿営からどれだけ離れた位置に天幕を張っていたかは分かりません。このように天幕を宿営から離すのは、神にとっても望ましいことだったと思われます。何故なら、神はもはやこの時のユダヤ人のうちにあっては一緒にカナンへと上って下さらないからです(出エジプト33:3)。

 モーセが宿営から天幕に行く時は、まるで皇帝のようでした。モーセが天幕に行くまでユダヤ人たちは直立してその歩みを見守ったのです。これはモーセが全宇宙の神と会見しに行くからであり、モーセが神の使いだったからです。そして『モーセが天幕にはいると、雲の柱が降りて来て、天幕の入口に立った』のですが、この雲の柱は神の強い臨在を示します。民はこの柱が天幕の入口に立ったのを見て、神がそこにやって来られたことを知りました。ですから、その時にユダヤ人は『みな立って、おのおの自分の天幕の入口で伏し拝んだ』のです。神が来られたのに伏し拝まないのは不敬虔だからです。

 会見の天幕で神と語れたのはユダヤ人のうちモーセだけでした。アロンとフルでさえ神と語ることはできませんでした。ここにモーセの特別性が現われ出ています。しかも、神はモーセとただ語るだけでなく、『人が自分の友と語るように、顔と顔とを合わせて』語られました。『顔と顔とを合わせて』とは親密さを表現しています。何故なら、親密でなければ顔を互いに見合って語るということはしないものだからです。これは表現であって、神が顔のある物質的な身体を取られたという意味ではありません。『友と語るように』というのもやはり親密さを示しています。神は御自分に忠実な聖徒を友のように取り扱って下さいます(ヨハネ15:14)。モーセは神に忠実な聖徒でした。神とモーセの会話で使われていた言語はヘブル語だったはずです。神はあらゆる時代の言語を完全に理解し話すことがお出来になりますが、この時にはヘブル語を用いられました。モーセがエジプト語を話せたのは明らかであり、またステパノの言葉から考えるならばヘブル語とエジプト語以外の言語も話せた可能性はかなり高いと思われますが(使徒の働き7:22)、この時にはヘブル語を用いていました。「言葉は不完全である。」とこれまで多くの知者が言いましたが、私も言葉が事象を表現するための道具としては貧弱であると認めます。しかし、神は全能者であられるのにそのような言葉を用いてモーセと会話されました。しかも、そのうちヘブル語という少数の民族しか使っていない言語を用いることを良しとされました。これは神が謙遜であられたからです。神は人としてこの世に来ることさえ厭われないほどに謙遜であられます(ピリピ2:6~7)。もし神が謙遜であられなければ、ヘブル語というローカルな言語を使うまでに御自分を引き下げるということはなさっておられなかったかもしれません。

 やがてモーセの後継者となるヨシュアは、モーセが神との会見から戻って来るまで『幕屋を離れないで』いました。これは、つまりヨシュアがモーセの住まいである幕屋でずっと待機していたということなのでしょう。ここにはヨシュアの誠実さ、敬虔さ、忍耐強さが現れています。これはイスラエルの指導者として相応しい態度です。神の使者モーセが偉大な神と会見をしているのです。そのような時に、次の指導者であるヨシュアがどうして私用のことを行なっていてよいでしょうか。

【33:12~13】
『さて、モーセは主に申し上げた。「ご覧ください。あなたは私に、『この民を連れて上れ。』と仰せになります。しかし、だれを私といっしょに遣わすかを知らせてくださいません。しかも、あなたご自身で、『わたしは、あなたを名ざして選び出した。あなたは特にわたしの心にかなっている。』と仰せになりました。今、もしも、私があなたのお心にかなっているのでしたら、どうか、あなたの道を教えてください。そうすれば、私はあなたを知ることができ、あなたのお心にかなうようになれるでしょう。この国民があなたの民であることをお心に留めてください。」』
 モーセは神の御心に適った人間でした。当時の世界でモーセは最も神に気に入られていました。それはどうしてなのでしょうか。それはモーセが『地上のだれにもまさって非常に謙遜であった』(民数記12章3節)からです。神は謙遜な人間をこそ喜ばれます(イザヤ57:15)。何故なら、人間は神に服従するために創造されたからです。人間が神に反逆したため全世界が虚無に服してしまったのです。このため、地上で最も謙遜であったモーセは神から最も嘉せられていたのです。

 モーセは、イスラエルをカナンに導く『ひとりの使い』(出エジプト33:2)が具体的に誰なのかまだよく知りませんでした。それは神がまだこの使いについてモーセに知らせておられなかったからです(12節)。モーセはキリストを信じていました。しかし、まだこの時にはこの使いがキリストであるとは気付いていなかったのです。

 モーセは、もし自分が神に嘉せられているのであれば『あなたの道』を教えてほしいと神に願います。『あなたの道を教えてください。』とは、神から遣わされた一人の使いがどのようにしてイスラエルをカナンまで導いていくのか知らせてほしい、という意味です。もし本当に神の心に適っているとすれば神の道を教えていただくことができる。モーセはこう考えていたのです。何故なら、この世では往々にして親しい人に特別な事柄を密かに知らせるものだからです。

【33:14~17】
『すると主は仰せられた。「わたし自身がいっしょに行って、あなたを休ませよう。」それでモーセは申し上げた。「もし、あなたご自身がいっしょにおいでにならないなら、私たちをここから上らせないでください。私とあなたの民とが、あなたのお心にかなっていることは、いったい何によって知られるのでしょう。それは、あなたが私たちといっしょにおいでになって、私とあなたの民が、地上のすべての民と区別されることによるのではないでしょうか。」主はモーセに仰せられた。「あなたの言ったそのことも、わたしはしよう。あなたはわたしの心にかない、あなたを名ざして選び出したのだから。」』
 ここで神が『休ませよう。』と言っておられるのは、ユダヤ民族がカナンに入って安息することです。『わたし自身がいっしょに行って、あなたを休ませよう。』という部分は、モーセについて言われていると感じられるかもしれませんが、これはユダヤ民族についてだとすべきでしょう。何故なら、神はモーセと一緒にカナンへ行かれなかったので、モーセはカナンで安息することが出来なかったからです(申命記3:27)。しかし、ユダヤ民族そのものは後ほどカナンに神と行き、そこで休みを得ることとなりました(ヨシュア21:44、22:4、23:1)。

 モーセがここで言っている通り、神に嘉せられている存在には導きと区別とが与えられます(16節)。神の御心に適っている存在は、必ず神の導きがあります。何故なら、その存在のうちには神が共におられるからです。キリストはこう言っておられます。『だれでもわたしを愛する人は、わたしのことばを守ります。そうすれば、わたしの父はその人を愛し、わたしたちはその人のところに来て、その人とともに住みます。』(ヨハネ14章23節)神の御心に適っている存在とは、神の言葉を守る人です。また、神に嘉せられている存在は、汚れた民や存在から遠ざけられて『区別され』ます。それはその存在が、汚らわしい者たちから悪い影響を受けないためです。ですから神は聖なる民にこう言われたのです。『それゆえ、彼らの中から出て行き、彼らと分離せよ、と主は言われる。汚れたものに触れないようにせよ。』(Ⅱコリント6章17節)こういうわけで古代のユダヤ人は、他の民族から自分たちを徹底的に区切っていたのです。ヨセフスというユダヤ人の歴史家は自分の民族が「孤立主義」だと言っています。古代のユダヤ人はこのように孤立していたので、当然ながら周りの民族からは非常に変わった民族だと思われていました。しかし、それはユダヤ人がおかしかったからではなくて、神がユダヤ人を異邦人から遠ざけておられたからなのでした。

【33:18~19】
『するとモーセは言った。「どうか、あなたの栄光を私に見せてください。」主は仰せられた。「わたし自身、わたしのあらゆる善をあなたの前に通らせ、主の名で、あなたの前に宣言しよう。わたしは、恵もうと思う者を恵み、あわれもうと思う者をあわれむ。」』
 モーセは、もし自分が神の御心に適っているのであれば神の栄光を見せて頂くこともできるかもしれない、と思いました。ですから、『どうか、あなたの栄光を私に見せてください。』と神に言っています。これは神の栄光を物質的に見える形として目の前に現わしてほしい、という意味です。モーセはそのようにして神の栄光を見ることで、ますます神の素晴らしさを味わいたいと願ったのです。何と敬虔な人物であったことでしょうか、このモーセというユダヤ人は。

 神は、神の栄光を見せてほしいというモーセの要求を拒まれませんでした。何故なら、モーセという特別に選ばれた者の前で神の栄光が現わされるのは御心に適っているからです。被造物の全ては神の栄光が現わされるために創造されました。この世の第一目的は神の栄光です。ですから、神はモーセに御自身の栄光を見せても良いとされたわけです。神がモーセに栄光を見せるやり方は、モーセの前を通り過ぎて宣言するということによりました。これは出エジプト34:5~7の箇所で書かれています。しかし、『善をあなたの前に通らせ』という言葉はどのような意味でしょうか。これは、神がモーセの前を通り過ぎる際、御自身の善性を啓示される、ということです(出エジプト34:6~7)。この善性についてはまた後ほど見ます。

 ここで『わたしは、恵もうと思う者を恵み、あわれもうと思う者をあわれむ。』と言われている御言葉は、パウロがローマ9:15の箇所で引用しています。これはローマ9章から分かるように、神の選びは『人間の願いや努力によるのではなく』(ローマ9:16)、もうまったく神の恵みと憐れみにかかっているということです。どれだけ願ってもいかに努力しても、神がその人を選んでおられなければどうにもなりません。これとは逆に、何も願わなかったとしても努力していなかったとしても、神に恵まれ憐れまれるよう選ばれている人は神に属する者となるのです。要するに、救いと召しは完全に神の選びによるということです。ですから、この箇所で神が言いたいのは、モーセが神の栄光を見れるまでの人物とされたのは、ただただ神がモーセを恵んで憐れまれたからなのだ、ということです。映画監督を考えて下さい。ある俳優を起用するのも起用しないのも監督の一存で決まるはずです。神がある人を選ばれある人を選ばれないのも、これと同じです。

【33:20~23】
『また仰せられた。「あなたはわたしの顔を見ることはできない。人はわたしを見て、なお生きていることはできないからである。」また主は仰せられた。「見よ。わたしのかたわらに一つの場所がある。あなたは岩の上に立て。わたしの栄光が通り過ぎるときには、わたしはあなたを岩の裂け目に入れ、わたしが通り過ぎるまで、この手であなたをおおっておこう。わたしが手をのけたら、あなたはわたしのうしろを見るであろうが、わたしの顔は決して見られない。」』
 神はモーセが『わたしの顔を見ることはできない』と言っておられます。『顔』というのは表現であり、つまり神の存在全体を直視するということです。どうして神を直視できないかと言えば、人は神を直視しておきながら『なお生きていることはできないから』です。無限の神を有限な精神が見ようものなら、矮小な精神能力が神をそのうちに入れることが出来ないので、生理的な作用によりショック死するしかないのです。古代には死んだと思っていた息子の帰還を喜び過ぎて絶命した有名な母親の話がありますが、神を見て死ぬのはこれと似ています。目が太陽の強烈な光を受容し切れず失明してしまうのとも似ています。私たちは自分の把握能力を超えた存在や出来事を見たり感じたりすると、その生命や器官において死ぬのです。神が最も人間の把捉能力を超えた存在であるということに疑いの思いを持つ人はいないでしょう。

 ですから、モーセは神の『うしろ』しか見られませんでした。『うしろを見る』とは要するに神を精神の把捉能力が許す限りにおいて感じることしか出来ないという意味です。ですから、神はモーセが神の顔を見ないように、モーセを『岩の裂け目に入れ』て『手で』『おおって』おくことにされました。これも表現であり、つまりモーセが神を直視できないということです。なお、『岩の裂け目に入れ』るという表現は、他の箇所でも使われています。イザヤ2:10、21の箇所などがそうです。ところで、ここで言われているような表現は非常に分かりにくいと思う人がいるかもしれません。確かに物質者でない神をあえて物質的に表現しているわけですから、分かりにくかったとしても無理はありません。そもそも神という物質を越えた存在を物質的に示すことは最初から無理があるのですが、神は弱く愚かな私たち人間が少しでも神のことを理解しやすいようにと、このような書き方をあえてして下さっておられるのです。つまり、これは神の譲歩であり、大人が幼児にカタコトで何かを語るようなものです。もし神を物質的に表現することがおかしいからというので何も書かなかったとすれば、私たちは神のことを理解しにくくなっていたはずです。

【34:1~3】
『主はモーセに仰せられた。「前のと同じような二枚の石の板を、切り取れ。わたしは、あなたが砕いたこの前の石の板にあったあのことばを、その石の板の上に書きしるそう。朝までに準備をし、朝シナイ山に登って、その山の頂でわたしの前に立て。だれも、あなたといっしょに登ってはならない。また、だれも山のどこにも姿を見せてはならない。また、羊や牛であっても、その山のふもとで草を食べていてはならない。」』
 神は、再び十戒の書かれた2枚の板をモーセに授けるべく、モーセが前に砕いたのと同様の板を作れと命じられます。これはもうイスラエル民族が滅ぼされないことになったからです。これからもイスラエル民族は存続するのです。ですから、イスラエルのため再び十戒の板が与えられるべきだったのです。しかし、前の時には神が自ら板を作られたのとは違って(出エジプト32:16)、今度はモーセが自分で板を用意せねばなりませんでした。これはどうしてでしょうか。これは神の板をモーセが砕いてしまったからなのでしょう。つまり、板を壊したのはモーセなので、今度はモーセがそれを自分で用意すべきだったのです。ちょうど子どもが床に落とした物を子どもに拾わせるのと一緒です。しかしながら、神は板の破壊についてモーセを責めたりしておられません。神も板を砕いたモーセの気持ちを十分に分かっておられたからです。

 こうしてモーセは再びシナイ山に登ることとなりましたが、その時には誰一人付き添わせてはなりませんでした。何故なら、神が通り過ぎるのを見るのはモーセ一人だけだからです。また、その時には、モーセ以外の人間がシナイ山にいてはなりませんでした。神がその栄光をもって降りて来られるシナイ山に、モーセ以外の人間がいるのは相応しくないからです。また、その時には『羊や牛であっても、その山のふもとで草を食べていてはな』りませんでした。何故なら、神がシナイ山で御自身の栄光を現わされている時に、家畜が山の麓で呑気に草を食べているのは相応しくないからです。これは明らかに神への不敬です。

【34:4】
『そこで、モーセは前のと同じような二枚の石の板を切り取り、翌朝早く、主が命じられたとおりに、二枚の石の板を手に持って、シナイ山に登った。』
 モーセは神の命令に従い、自分が前に壊したのと同じような板を用意しました。この板をモーセ自身が切り取ったのか、従者ヨシュアか他の者に切り取らせたかは分かりません。ただモーセ一人でも山に持って行ける大きさと重さだったのは間違いありません。何故なら、この時に山へと登ったのはモーセ一人だけだからです(出エジプト34:3)。また、神が前に授けられた板は、高齢であるモーセが持てるようにと小さめのサイズだったと断定することはできません。その板に基づいて作られたこの時の板も小さめのサイズだったかどうか分かりません。何故なら、モーセが、学識があるのに巨漢だったプラトンやトマス・アクィナスのようでなかったとは誰にも言えないからです。もしモーセがプラトンやトマスのように巨体だったとすれば、80歳でもそれなりの重さの板を持てたことでしょう。もっとも、絵画や映画の影響により、どうしても私たちはモーセを小柄な老人だとイメージしがちなのではありますが。

【34:5】
『主は雲の中にあって降りて来られ、彼とともにそこに立って、』
 モーセがシナイ山に登ると、神が雲において降りて来られました。この『雲』は神の栄光を示しています。どのぐらいの雲が生じていたか具体的に何も書かれていませんが、かなりの量の雲があったと推測されます。モーセはこの時、主と共に立っていたのであり、座ってはいませんでした。栄光の神が来られたのに座っているのでは不敬だからです。

【34:5~7】
『主の名によって宣言された。主は彼の前を通り過ぎるとき、宣言された。「主、主は、あわれみ深く、情け深い神、怒るのにおそく、恵みとまことに富み、恵みを千代も保ち、咎とそむきと罪を赦す者、罰すべき者は必ず罰して報いる者。父の咎は子に、子の子に、三代に、四代に。」』
 神はモーセの前を通られ、御自身の善性を示され、御名を宣言されました。こうして神は御自分の栄光をモーセに現わされました。ここで主が言われた御言葉は全て記憶するに値します。

 『主、主』と言われているのは、原文では『ヤハウェ、ヤハウェ』です。この訳はとんでもない訳であり、冒涜的とさえ思えるぐらいです。『主、主』と訳すことで、趣きも威厳も神聖さもあまり感じられなくなっているからです。これでは日本のプロテスタント教会における霊性が低くなるわけです。いや、既に霊性が低くなっているからこそ、このような訳が出来るのかもしれません。次の版からは『ヤハウェ』に変更すべきです。「いや、キリストや使徒たちも旧約聖書におけるヤハウェという御名を主と置き換えて呼んでいた。だから、新改訳聖書でヤハウェを主と訳しても問題はない。」とでも言うのでしょうか。キリストや使徒たちと翻訳事業ではまた話が違います。キリストや使徒たちが旧約の御言葉におけるヤハウェという御名を主と呼んだのは引用また言及においてであって、それは翻訳事業としてではありません。「いや、しかしキリストや使徒たちが使っていた七十人訳聖書でも、ヘブル語旧約聖書のヤハウェという言葉を<主>(キュリオス―κυριοs)と訳している。だから新改訳聖書もそのようにしてよいのだ。」と言われるのでしょうか。まさか七十人訳聖書にとんでもない訳が幾つもあることを知らないわけではないでしょう。確かに七十人訳聖書はキリストと使徒たちが使っていましたが、その訳には悪意に基づいているとさえ思える訳もあるのです。というのもこの翻訳聖書は異邦人の要請により翻訳された聖書だからです。ですから、異邦人のために言葉を変えてしまっている訳もあります。それは異邦人に分かりやすくするためであったり、異邦人を怒らせたりしないためです。だからこそ、そういった翻訳聖書であるゆえ、タルムードの中では七十人訳聖書が正式な聖書として認められていないわけです。タルムードが認めている聖書はヘブル語の旧約聖書だけです。そういうわけで、七十人訳聖書はあくまでも神が直接人間を通してお書きになられたヘブル語聖書から訳された聖書であることを弁えねばなりません。いずれにせよ、新改訳聖書の翻訳原則は「原典にできるだけ忠実であること。」ですから、ヘブル語で書かれている通りの御名を忠実に訳すべきでしょう。『ヤハウェ』を「主」と訳すのは原典に忠実だと言えるでしょうか。

 主は『あわれみ深く、情け深い神』であられます。詩篇にもこう書かれています。『主は情け深く、正しい。まことに、私たちの神はあわれみ深い。』(116:5)神の憐れみと情けを示す例には事欠きません。神は弱くて惨めな毛虫さえ生かしておられます。踏めばすぐにも消え去る醜いカメムシもそうです。神は小さな虫にさえ憐れみをかけておられます。小さな花は神により美しく飾られており(マタイ6:29~30)、踏まれもせず地に咲き続けています。小さな花にも神の憐れみが注がれているのです。また、神は幼児が大人たちにより養われ守られるようにされました。ですから、大人ことに親は幼児を配慮するよう頭脳が設計されています。ここにも神の憐れみがあります。また神は恩知らずの悪人にさえも太陽と雨を与えておられます(マタイ5:45、ルカ6:35)。そればかりか神は、神を憎むニーチェのような輩にも憐れみを与えておられます。また、神は人に悔い改められるようにと70年もの時間を用意しておられます。悔い改めるために与えられている猶予期間として、これは十分過ぎるぐらいです。これは神が情け深い御方だからです。また、この地球は太陽から正に調度良い位置に置かれ、保たれています。この絶妙な配置に科学者たちは驚きますが、このようであるからこそ地球は命の星として存在しているわけです。これは神が地球にいる被造物に情けをかけておられるからです。

 また神は『怒るのにおそく』あられます。邪悪な者が罪を犯します。しかし、罪に対する怒りの裁きはなかなか下されません。ですから、邪悪な者は心の中で『神はいない。』(詩篇14篇1節)と言います。そして、神がいつまでも怒って裁かれないので、平気で罪を犯し続けるのです。このような者は、神が悔い改めるように猶予を与えておられることを知りません。神はその者が悔い改めるかもしれないと思われるので、怒りの裁きを後伸ばしにしておられるのです。しかし、邪悪な者はそんなことなどお構いなし。ですから、ソロモンはこう言っています。『悪い行ないに対する宣告がすぐ下されないので、人の子らの心は悪を行なう思いで満ちている。』(伝道者の書8章11節)人間の場合、往々にしてすぐに怒るものです。神の場合はすぐに怒られない場合が非常に多くあります。ここに神と人間の違いがあるのです。

 また神は『恵みとまことに富』んでおられます。聖書の多くの箇所では、神について『恵み』と『まこと』がセットで書かれています。これは神の恵みには誠実さが伴っているからであり、また神は誠実なので恵みに傾かれるからなのでしょう。神の恵みについては、いちいち具体的な例を挙げて説明する必要もないぐらいに明白です。神の恵みの極致は御子イエス・キリストです。神は御子を惜しまず死に渡されるほど、私たちに恵み深くあられるからです。この神は恵みそのものであられます。ですから『恵みを千代も保ち』続けられます。これについては既に十戒の箇所で述べられました(出エジプト20:6)。神は『まこと』すなわち誠実そのものでもあられます。ですから、神の言われたことは全て実現されます(ヨシュア21:45)。また神は誠実であられますから、御自身の契約を破られることがありません(詩篇89:34)。

 神は『咎とそむきと罪を赦す者』であられます。この3つの言葉はどれも本質的に一つであり、これは律法違反を3種類の言葉で言い表しています。これは同じ意味の言葉を3重にして書いていますから、つまり強調表現です。これはヘブル的な語法です。神が『咎とそむきと罪を赦す』のは、もちろんイエス・キリストによります。というのも、『御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめ』(Ⅰヨハネ1章7節)るからです。他の存在による血ではありません。ただ御子の血により人は神から赦されます。ですから、御子によらなければ赦しはありません。赦しのない人は永遠に滅びます。地獄で焼かれるのです。

 また神は『罰すべき者は必ず罰して報いる者』であられます。ナホムもこう言っています。『主は決して罰せずにおくことはしない方。』(ナホム1章3節)どうして神は罰すべき者を処罰されるのでしょうか。それは神が義なる御方だからです。「義」とは、すなわち罰すべき者を罰しないままにしておかないということです。例えば、神が裏切り者ユダやネロやセルベトゥスを罰しないままでおらたとすれば、どうでしょうか。これらの邪悪な者たちがいつまで経っても罰せられない。その場合、神は義なる御方ではないということになってしまいます。このように神は義なる御方ですから『父の咎は子に、子の子に、三代に、四代に』まで及ぼされます。これについては既に出エジプト20:5の箇所で説明済みです。

【34:8~9】
『モーセは急いで地にひざまずき、伏し拝んで、お願いした。「ああ、主よ。もし私があなたのお心にかなっているのでしたら、どうか主が私たちの中にいて、進んでくださいますように。確かに、この民は、うなじのこわい民ですが、どうか私たちの咎と罪を赦し、私たちをご自身のものとしてくださいますように。」』
 モーセは神の栄光を見るや否や、御前に伏して崇拝しました。それは神の栄光が非常に素晴らしかったからであり、またモーセが栄光の神を恐れたからです。『急いで』という言葉はモーセの真剣さをよく示しています。

 モーセはもし自分が神の御心に適っているのであれば、神がイスラエルのうちに歩んで下さるようお願いしています。モーセがこのようなことを言うのは、これで2度目です(1度目は出エジプト33:13)。この時、モーセは本当に神がイスラエルと共にいて下さることを願っていました。

【34:10】
『主は仰せられた。「今ここで、わたしは契約を結ぼう。わたしは、あなたの民すべての前で、地のどこにおいても、また、どの国々のうちにおいても、かつてなされたことのない奇しいことを行なおう。あなたとともにいるこの民はみな、主のわざを見るであろう。わたしがあなたとともに行なうことは恐るべきものである。』
 ここで神が結ぼうと言っておられる『契約』とは何でしょうか。これは神がユダヤ人の神となられ、ユダヤ人が神の民になるという契約です。これは既にアブラハム、イサク、ヤコブに対して神が結ばれていた契約と同一の契約です。昔はこの契約が少数の父祖たちとだけ結ばれました。今度はその契約が、非常に多くの人々のいるイスラエル民族と結ばれたのです。

 神はこのような契約に入ったイスラエル人の前で、大いなる業を行なわれると言っておられます。この『主のわざ』とは何でしょうか。これはユダヤ人の前に先立って行かれる神が、カナン人をカナンの地から駆逐して下さることです。ある一つの民族のために、ある地域にいる多くの民族が駆逐されていなくなる。神がある民族のためにこのようなことをされるのは、これが初めてでした。ですから、それは『かつてなされたことのない奇しいこと』だと言われているのです。

【34:11】
『わたしがきょう、あなたに命じることを、守れ。』
 神がユダヤ人に服従を命じられたのは、ユダヤ人がカナン侵攻をするためです。神は忠実な者と共にいて下さいます(ヨハネ14:23)。忠実でない者と神は共にいて下さいません。これは愚かなサウルが良い例です。ですから、ユダヤ人はカナン人たちに勝利させていただくため、神に服従しなければいけなかったのです。モーセ時代のユダヤ人は忠実でなかったので神が共にいて下さらず、カナン侵攻をすることが出来ませんでした。私たちも神に服従せねばならないでしょう。それは神が共にいて下さるためです。また神により勝利に次ぐ勝利を得られるためです。

『見よ。わたしはエモリ人、カナン人、ヘテ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人を、あなたの前から追い払う。』
 神がカナン人をカナンの地から追い払われるのは、謂れのない理由からではありませんでした。既に述べたように、カナン人とはアパートの邪悪な住人であって、裁かれるべき忌まわしいことばかりをしていたのです。ですから死刑執行人としてカナン人を滅ぼしたユダヤ人に責任は全くなく、悪いのは全てカナン人でした。もしカナン人が正しい民族であれば、神もそのようなカナン人を駆逐させようとはなさいませんでした。何故なら、義なる神が正しい者を何の理由もなしに滅ぼすことはありえないからです(創世記18:25)。ユダヤ人のカナン侵攻を非難する人たちは、神や霊的なことを理解していません。理解していれば非難しなかったでしょう。しかし、神学的なことはどうも得意でないという人もいます。そのような人は、他の虐殺は非難に値するもののユダヤ人のカナン侵攻だけは例外であって非難される行為ではないのだ、などと単純に考えることができれば受け売りであっても上出来です。

【34:12~16】
『あなたは、注意して、あなたがはいって行くその地の住民と契約を結ばないようにせよ。それがあなたの間で、わなとならないように。いや、あなたがたは彼らの祭壇を取りこわし、彼らの石柱を打ち砕き、アシェラ像を切り倒さなければならない。あなたはほかの神を拝んではならないからである。その名がねたみである主は、ねたむ神であるから。あなたはその地の住民と契約を結んではならない。彼らは神々を慕って、みだらなことをし、自分たちの神々にいけにえをささげ、あなたを招くと、あなたはそのいけにえを食べるようになる。あなたがその娘たちをあなたの息子たちにめとるなら、その娘たちが自分たちの神々を慕ってみだらなことをし、あなたの息子たちに、彼らの神々を慕わせてみだらなことをさせるようになる。』
 神は、偶像崇拝に影響されないよう、ユダヤ人がカナンの民族と契約を結ばないよう命じておられます。真の神を崇拝し、真の神に服従するためにユダヤ人はエジプトから連れ出されたのです。それなのに彼らがカナン人の偶像崇拝を真似るならば、何のためにエジプトから救い出されたのか分からなくなってしまいます。人間は弱い存在です。たとえカナン人と契約を結ばないにしても、近くにカナンの祭壇や偶像があれば、ユダヤ人はそれに心惹かれてしまいかねません。ですから、神はカナンの地にある祭壇や偶像を破壊し尽くせと命じられました(13節)。また神は、ユダヤ人がカナンの女と結婚することも禁止されました。カナンの女と結婚すれば、その女がユダヤ人との間に生まれた子を偶像崇拝者にさせてしまうからです(16節)。当然ながらユダヤ人の女がカナン人の男と結婚することも禁じられます。

 ここで神が言っておられる通り、古代のユダヤ人は異邦人と契約を結ぶことがありませんでした。彼らは自分たちの民族だけでずっとやって行こうとしていました。この点では良かったのですが、彼らは異邦人が拝んでいる偶像を、何と自ら進んで拝みそれに仕えたのです。ですから、王朝時代のユダヤには偶像崇拝が横行していました。しかも、王が自ら率先して偶像崇拝の模範となっていたぐらいです。神が言われたのは、異邦人の偶像崇拝に感化されないため異邦人と契約を結ぶな、ということでした。ところが、ユダヤ人は契約を結んで感化される以前の状態において偶像を自分たちから求めて行ったのです。これには神も唖然とさせられてしまいました。このようなことは忌むべきことです。ですから偶像崇拝に陥ったユダヤは裁かれて滅ぼされてしまったのです。偶像崇拝に陥るのは、自ら進んで悲惨を求めるようなものです。

【34:17】
『あなたは、自分のために鋳物の神々を造ってはならない。』
 神は偶像を自分たちのために造るなと言われます。この『鋳物の神々』とは明らかにアロンの子牛が念頭に置かれています。つまり、神は再びアロンがしたようなことをするな、と言っておられるのです。前の箇所からの繋がりから考えるならば、これは「たとえ異邦人との交わりを通して偶像崇拝に陥らなかったとしても、自らアロンの時のような偶像崇拝に陥ることがないようにせよ。」ということです。日本においては『鋳物の神々』が多くありますから、この律法に違反しています。ですから、この国は偶像崇拝の国です。これでは世界のリーダーになれるはずがなく、これからもアメリカや中国に優越することはできません。昨今の日本人は明らかに劣化していますが、これは日本に蔓延る偶像崇拝がその原因の一つです。偶像崇拝をきっぱり止めれば呪いも取り去られるので、再びバブル時代のような活気と素晴らしさが日本に戻って来るのですが。しかし、多くの日本人は頑なので、このようなことを理解しようとしません。これは日本人が『うなじのこわい民』であるユダヤ人の子孫だということなのでしょうか。

【34:18~26】
『あなたは、種を入れないパンの祭りを守らなければならない。わたしが命じたように、アビブの月の定められた時に、七日間、種を入れないパンを食べなければならない。あなたがアビブの月にエジプトを出たからである。最初に生まれるものは、すべて、わたしのものである。あなたの家畜はみな、初子の雄は、牛も羊もそうである。ただし、ろばの初子は羊で贖わなければならない。もし、贖わないなら、その首を折らなければならない。あなたの息子のうち、初子はみな、贖わなければならない。だれも、何も持たずに、わたしの前に出てはならない。あなたは六日間は働き、七日目には休まなければならない。耕作の時も、刈り入れの時にも、休まなければならない。小麦の刈り入れの初穂のために七週の祭りを、年の変わり目に収穫祭を、行なわなければならない。年に三度、男子はみな、イスラエルの神、主(原文はヤハウェ)、主の前に出なければならない。わたしがあなたの前から、異邦の民を追い出し、あなたの国境を広げるので、あなたが年に三度、あなたの神、主の前に出るために上る間にあなたの地を欲しがる者はだれもいないであろう。わたしのいけにえの血を、種を入れたパンに添えて、ささげてはならない。また、過越の祭りのいけにえを朝まで残しておいてはならない。あなたの土地から取れる初穂の最上のものを、あなたの神、主の家に持って来なければならない。子やぎをその母の乳で煮てはならない。」』
 この箇所で命じられている命令は、既に命じられていた命令を再び命じています。もはやイスラエルが滅ぼされることはなくなりました。そのため、神はイスラエルと契約を結ばれました。死のうとしていた民族が死なずに再スタートすることとなりました。ですから、仕切り直しとしてもう一度、前と同じ命令が命じられることになったのです。また、これは繰り返しですから強調の意味もあります。この箇所で書かれている命令は、字句においても既に書かれていた命令とほとんど変わりません。ただ24節目だけは新しいことが書かれています。すなわち、神はユダヤ人たちがカナンで年に三度の祭りを祝っている際にも異邦人から襲われるようにはされない、ということです。これはユダヤ人たちがカナンに入った際は、神からの守りがユダヤに与えられるからです。神は、ユダヤ人が「カナンに入った際、年に三度の祭りを祝っている間に異邦人から襲われたらどうしよう。」などと心配しないように、このように言われたのです。実際、ヨシュアたちがカナンを占領して以降、罪を犯していなかった時期においてユダヤは祭りの時にも守られていました。

【34:27】
『主はモーセに仰せられた。「これらのことばを書きしるせ。わたしはこれらのことばによって、あなたと、またイスラエルと契約を結んだのである。」』
 神が語られた戒めは契約の言葉でした。申命記29:9の箇所でも『契約のことば』と書かれています。これは神との契約に入っている民が、契約の民として相応しく歩むために守らねばならない言葉です。ですから、もし契約の言葉を拒絶するユダヤ人がいれば、殺されて契約から排除されねばなりませんでした。ヘブル10:28の箇所に書かれている通りです。例えば、電話契約に入っている人が契約の内容に違反すれば、契約を解除されてしまうはずです。ユダヤ人が契約の言葉を蔑ろにした際に契約から排除されるのは、これと同じでした。

【34:28】
『モーセはそこに、四十日四十夜、主とともにいた。彼はパンも食べず、水も飲まなかった。そして、彼は石の板に契約のことば、十のことばを書きしるした。』
 モーセはシナイ山で『四十日四十夜、主とともにい』て『パンも食べず、水も飲』みませんでした。これは作り話ではありません。この時のモーセには神の力が働いていたとすべきです。神が共におられるのであれば、40日の断食も可能でしょう。何故なら、神があらゆる命を造り、保っておられるからです。ヨブ記12:10の箇所でもこう言われています。『すべての生き物のいのちと、すべての人間の息とは、その御手のうちにある。』ですから神とは命の泉であられます。そのような神がもし生かして下さるのであれば、たとえ1億日の断食でも生き続けることができます。キリストも『四十日四十夜』(マタイ4章2節)断食されました。「40」とは聖書において十分であることを意味しますから、つまりキリストもモーセも十分なだけ断食したということです。

 この箇所では、『彼』すなわちモーセが十戒の言葉を板に記したと書かれています。しかし、出エジプト34:1の箇所では『わたし』すなわち神が十戒の言葉を板に記すと書かれています。申命記10:2、4の箇所でも、やはり神が十戒の言葉を板に記されたと書かれています。一方ではモーセが書いたとあり、一方では神が書いたとあります。矛盾しているかのように思えるこの問題はどう解決したらよいでしょうか。私はこのように考えます。すなわち、神はモーセの手を御自分の手として筆記のために使われたのです。このように考えれば、神が板に書かれたことになり、モーセが板に書いたことにもなります。これは聖書と同じです。聖書は神が人間を通して書かれた書物ですから、神が書かれたと言えるのであり、それと同時に人が書いたとも言えるのです。「私はこのように考えます。」と私は書きましたが、この問題は今私が書いたように解するしかないでしょう。というのは、神も書かれたしモーセも書いたというのであれば、解は私の述べた通りの答え以外にないはずだからです。

【34:29~32】
『それから、モーセはシナイ山から降りて来た。モーセが山を降りて来たとき、その手に二枚のあかしの石の板を持っていた。彼は、主と話したので自分の顔のはだが光を放ったのを知らなかった。アロンとすべてのイスラエル人はモーセを見た。なんと彼の顔のはだが光を放つではないか。それで彼らは恐れて、彼に近づけなかった。モーセが彼らを呼び寄せたとき、アロンと会衆の上に立つ者がみな彼のところに戻って来た。それでモーセは彼らに話しかけた。それから後、イスラエル人全部が近寄って来たので、彼は主がシナイ山で彼に告げられたことを、ことごとく彼らに命じた。』
 シナイ山から降りて来たモーセの顔は、神と長く共にいたので光を放っていました。聖なるものに触れるものは聖となります(出エジプト29:37、30:29)。それと同じで、光の神と一緒にいたモーセには、神の光が言わば移されたわけです。「聖」が移るのであれば、「光」も移るからです。また神がモーセの顔を光らせたのは、モーセの権威をイスラエル人に対して高めるためでもありました。もしモーセが高められるのであれば、神はそのモーセを通してイスラエル人たちをより支配しやすくなるからです。神と話したので光るようになった人物に従おうとしない人がどこかにいるでしょうか。モーセが光っていたので民はモーセに近づけませんでしたが、この時にモーセがどれだけの光を放っていたかは分かりません。なお、全ての聖徒たちもやがてこのモーセのように、いやモーセ以上に光り輝くことになります。何故なら、聖徒たちは天国に行けば輝くからです(マタイ13:43)。ダニエル書12:3の箇所でも同じことが言われています。

 モーセは神から与えられた戒めを民にことごとく命じました。これは民が聖く、正しく、誠実に歩むためです。神は聖く、正しく、誠実な御方ですから、その民も神に倣って歩むべきなのです。神の戒めを守ればそのことが可能となります。