【出エジプト記3:10~6:1】(2021/08/29)


【3:10】
『今、行け。わたしはあなたをパロのもとに遣わそう。わたしの民イスラエル人をエジプトから連れ出せ。」』
 神はモーセをパロのもとに行かせ、ユダヤ人をエジプトから連れ出させるよう命じます。モーセは40年前にユダヤをエジプトから救い出そうとしましたから(使徒行伝7:23~25)、40年後に再びユダヤ解放の使命を持つこととなりました。

【3:11】
『モーセは神に申し上げた。「私はいったい何者なのでしょう。パロのもとに行ってイスラエル人をエジプトから連れ出さなければならないとは。」』
 確かにモーセは40年前にユダヤをエジプトから救おうとしました。しかし、それからもう40年も過ぎてしまいました。しかも既に80歳という高齢でしたから、年齢的にも何かの大事業を遂行する時期ではなかったと思われたはずです。ですから、神の命令に対して『私はいったい何者なのでしょう。』と言って弱気になってしまいました。40歳ならまだしも80歳です。ですから、モーセがこのように言ったのは、人間的に考えればそれほどおかしいとは言えませんでした。一体、40年も隠遁生活をしている80歳の老人のうち誰がある民族を虐げる国から解放するなどという偉大な仕事を自ら始めようとするでしょうか。恐らく誰もいないと思われます。もう墓にいつ入るかという状態なのですから。ところが神は80歳のモーセにそのような仕事をせよと命じられます。これは神が人間の理解と考えを遥かに超えておられる御方だからです。

【3:12】
『神は仰せられた。「わたしはあなたとともにいる。これがあなたのためのしるしである。わたしがあなたを遣わすのだ。あなたが民をエジプトから導き出すとき、あなたがたは、この山で、神に仕えなければならない。」』
 神は弱気になっているモーセに『わたしはあなたとともにいる。』と言って、モーセを励まされました。神はあたかも「私が共にいるのに何を恐れるのか。」と言っておられるかのようです。ここで神がモーセのための『しるし』だと言っておられる『これ』とは何を指しているのでしょうか。『これ』とは神が実際にモーセに語りかけておられることでしょうか。それとも『わたしはあなたとともにいる。』という神の臨在のことでしょうか。または神がモーセを派遣されることでしょうか―『わたしがあなたを遣わすのだ』。そうでなければユダヤ人が解放されてから『山で、神に仕え』ることでしょうか。『これ』という言葉が何を指しているのかは非常に分かりにくいと感じられます。私はこの言葉の解釈を読者それぞれの判断に委ねたいと思います。

【3:13~14】
『モーセは神に申し上げた。「今、私はイスラエル人のところに行きます。私が彼らに『あなたがたの父祖の神が、私をあなたがたのもとに遣わされました。』と言えば、彼らは、『その名は何ですか。』と私に聞くでしょう。私は、何と答えたらよいのでしょうか。」神はモーセに仰せられた。「わたしは、『わたしはある。』という者である。」また仰せられた。「あなたはイスラエル人にこう告げなければならない。『わたしはあるという方が、私をあなたがたのところに遣わされた。』と。」』
 神はモーセに<『今』>(出エジプト記3:10)行くよう命じられました。この命令に対してモーセは<『今』>行くと言って応じています。モーセは即座に神の大使を拝命したのです。彼は「もう少し経ってから…」とか「今はちょっと…」などと言いませんでした。ここにモーセの謙遜さが現われています。確かなところ、この世にはこのように応じられない人が多いのです。キリストに従うよう命じられたある人は、まず父の葬式を住ませてからキリストに従おうとしました(ルカ9:59~60)。ロトもソドムから逃げるよう命じられた際、即座に従わず、躊躇ってしまいました(創世記19:15~16)。もっとも、モーセは既に40年前に一度イスラエルを救い出そうとした過去があったというファクターも考慮されるべきかもしれません。つまり、モーセにとってイスラエルを解放するという事業は全く新しい企てではありませんでした。だからこそ即座に従えたということだったのかもしれません。もしモーセがこの時に初めてイスラエルを解放することになっていたとすれば、モーセも躊躇っていた可能性があります。

 イスラエル人に神の御名を聞かれたら何と答えればよいかとモーセが尋ねると、神は『わたしはある。』という御名をイスラエル人に知らせよと命じられました。『わたしはある。』とは神が存在そのものであられるという意味です。この神という存在から全ての存在つまり被造物が出たのであって、全ての存在の存在は神という存在に基づいています。ですから神の存在と神の本質は切っても切り離せません。根本的に存在しておられるのが神だからです。私たち被造物は、神という第一次存在に存在を負っている二次的存在に過ぎません。神は、ヤコブの時代においてはまだ御自身の御名を知らせておられませんでした(創世記32:29)。しかし今やこのように神は御自身の御名を聖徒に明かされました。これは聖徒たちが神を知る知識において更に成長すべきだったからです。要するに、この時の聖徒たちはより良く神を知るべき段階に来ていました。子どもが知性の発達と共に新しい事柄を学ぶべきであるのと同じです。

【3:15~16】
『神はさらにモーセに仰せられた。「イスラエル人に言え。あなたがたの父祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、主が、私をあなたがたのところに遣わされた、と言え。これが永遠にわたしの名、これが代々にわたってわたしの呼び名である。行って、イスラエルの長老たちを集めて、彼らに言え。』
 神はまた御自身の御名を『主(ヤハウェ)』とも言われました。他にも神の御名には『エル・シャダイ』(創世記17章1節)とか『不思議』(士師記13章18節)など複数ありますが、それでも神は『ただひとり』(申命記6章4節)であられます。ちょうど一人の首相が「内閣総理大臣」とか「首相」とか「国家のリーダー」とか「日本の統治者」などと色々な言い方で呼ばれているのと一緒です。この神はモーセがユダヤの長老たちに話をするよう命じました。何故なら、一般民衆に語っても長老たちが動かなければ事態は変わらないからです。

【3:16~17】
『あなたがたの父祖の神、アブラハム、イサク、ヤコブの神、主が、私に現われて仰せられた。『わたしはあなたがたのこと、またエジプトであなたがたがどういうしうちを受けているかを確かに心に留めた。それで、わたしはあなたがたをエジプトでの悩みから救い出し、カナン人、ヘテ人、エモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人の地、乳と蜜の流れる地へ上らせると言ったのである。』』
 神はユダヤ人たちの苦難を顧みられたので、ユダヤ人たちをエジプトから連れ出し、その時は呪われた民族が住んでいた素晴らしいカナンの地へと移住させようとしておられました。もうユダヤがエジプトから虐げられる時は終わりました。これからユダヤ人は神に救われて至福の地カナン―その至福は『乳と蜜の流れる地』という言葉で表現されています―へ導かれるのです。

【3:18~20】
『彼らはあなたの声に聞き従おう。あなたはイスラエルの長老たちといっしょにエジプトの王のところに行き、彼に『ヘブル人の神、主が私たちとお会いになりました。どうか今、私たちに荒野へ三日の道のりの旅をさせ、私たちの神、主にいけにえをささげさせてください。』と言え。しかし、エジプトの王は強いられなければ、あなたがたを行かせないのを、わたしはよく知っている。わたしはこの手を伸ばし、エジプトのただ中で行なうあらゆる不思議で、エジプトを打とう。こうしたあとで、彼はあなたがたを去らせよう。』
 神はユダヤの長老たちがモーセに聞き従うと言われました。これは長老たちがアブラハムに語られた神の預言を知っていたからです。神はアブラハムに対し、ユダヤ人が400年の間、奴隷にされると預言しておられました(創世記15:13)。モーセの時代は、ユダヤが奴隷にされてから400年ぐらい経っていました。ですから、長老たちは神の救いのためにやって来たモーセを受け入れたのです。つまり、彼らは神がモーセを通してユダヤに解放を与えて下さると感じました。それは預言の内容と適合しているので歓迎されたわけです。神はこの長老たちを連れてパロのところに会いに行けと命じられます。長老たちも行くべきだったのは事柄がユダヤの全体に関わっていたからです。これからユダヤ人の全てがエジプトから抜け出ようとしていました。であれば、どうして指導者たち皆がエジプト王のところに行かなくていいでしょうか。その起こる事柄が非常に大きいので、これは長老たちも全て動員されるべきことでした。

 しかし神はあらかじめパロがユダヤ人たちを行かせないであろうとモーセに告げ知らせました。何故なら、どうしてエジプト王が奴隷たちを自ら進んで去らせようとするのでしょうか。奴隷とは生きた財産です。自分の財産をやすやすと手放す人は非常に珍しいと言わねばなりません。神はこのようなパロとエジプトの前で、『不思議』な奇跡を行なおうとしておられました。その理由は2つです。一つ目は、数々の奇跡でエジプトを参らせ、遂にはパロがユダヤ人を去らせるようになるためです。二つ目は、大いなる御業を通して神の栄光が現われるようになるためです。神はパロの心に働きかけてすぐにもユダヤを去らせることもできました。しかし、神はそのようになさいませんでした。そのようにすれば御業を通して神の栄光が現わされなくなるからです。もしこうだった場合、ドラマも感動もなくなっていたでしょう。

【3:21~22】
『わたしは、エジプトがこの民に好意を持つようにする。あなたがたは出て行くとき、何も持たずに出て行ってはならない。女はみな、隣の女、自分の家に宿っている女に銀の飾り、金の飾り、それに着物を求め、あなたがたはそれを自分の息子や娘の身に着けなければならない。あなたがたは、エジプトからはぎ取らなければならない。」』
 ユダヤがエジプトから出る際には華やかでなければいけませんでした。卒業式と入学式は華やかに行なわれるものです。ユダヤの出エジプトは、ユダヤにとって卒業式であり入学式でした。ですから神はユダヤ人が脱出する際、エジプト人から高価な装飾品や着物を剥ぎ取るように命じられます。それを着けてエジプトから出るためです。この剥ぎ取りは神の命令ですから合法でした。これまでエジプト人は400年もユダヤ人から剥ぎ取ったのです。ですから今度はユダヤ人がエジプトから剥ぎ取ることになりました。このようにして神はユダヤ人たちの経済的な損失に報いられたのです。

 神はユダヤ人たちがエジプトから装飾品や着物を剝ぎ取れるように、『エジプトがこの民に好意を持つように』されました。ですからエジプト人は自ら進んで喜びつつ装飾品や着物をユダヤに与えました(出エジプト記12:35~36)。エジプト人はまさか神が自分たちの心を動かしたなどとは思わなかったでしょう。しかし、実際のところ神がエジプト人の心を御心のままに動かされ、ユダヤに対する好意を引き起こさせたのです。神はこのようなやり方で剝ぎ取りを実現されました。神はこのようにいつも超自然的に人の心を動かされます。ですから、ほぼ全ての人は神に心を支配されているなどとは気付きもしません。

【4:1】
『モーセは答えて申し上げた。「ですが、彼らは私を信ぜず、また私の声に耳を傾けないでしょう。『主はあなたに現われなかった。』と言うでしょうから。」』
 モーセはユダヤ人が自分を神の使いとして信用しないと予測します。この予測には根拠がありました。モーセは40年前に一度、ユダヤを解放しようとしましたが失敗に終わっています(使徒行伝7:23~29)。この経験に基づき、モーセは今回も解放の仕事が上手に行かないだろうと予測したのです。人間は1度失敗すると次も失敗すると思う傾向があります。モーセもそのような人間の一人でした。ですが、2回目以降に同じことをしても成功するというケースがしばしばあります。例えば、一度告白してフラれた男が再び告白すると今度はOKを貰えたというケースがそうです。

【4:2~5】
『主は彼に仰せられた。「あなたの手にあるそれは何か。」彼は答えた。「杖です。」すると仰せられた。「それを地に投げよ。」彼がそれを地に投げると、杖は蛇になった。モーセはそれから身を引いた。主はまた、モーセに仰せられた。「手を伸ばして、その尾をつかめ。」彼が手を伸ばしてそれを握ったとき、それは手の中で杖になった。「これは、彼らの父祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、主があなたに現われたことを、彼らが信じるためである。」』
 神は、モーセが持っていた杖を蛇に変え、再びそれを杖に戻すという奇跡をなさいました。これはモーセが幻影を見ていたのではありません。これは実際に起きたことです。神はこの奇跡を証拠としてモーセに備えられました。何故なら、このような奇跡が為されたとすれば、モーセが神に会ったということを確証できるからです。神に実際に会っていないような者が、どうしてこのような奇跡を行なえるのでしょうか。しかし、神に会った者であれば、このような奇跡も行なえるでしょう。キリストもこのような証拠としての奇跡を幾度となく行なわれました。この奇跡において変えられた『蛇』には何も象徴的な意味がありません。この箇所における『蛇』はもちろんキリストやサタンを象徴しているのではありません。聖書にはキリストまたサタンを蛇において象徴させている箇所があります。

【4:6~8】
『主はなおまた、彼に仰せられた。「手をふところに入れよ。」彼は手をふところに入れた。そして、出した。なんと、彼の手は、らいに冒されて雪のようであった。また、主は仰せられた。「あなたの手をもう一度ふところに入れよ。」そこで彼はもう一度手をふところに入れた。そして、ふところから出した。なんと、それは再び彼の肉のようになっていた。「たとい彼らがあなたを信ぜず、また初めのしるしの声に聞き従わなくても、後のしるしの声は信じるであろう。』
 神は、ユダヤ人が杖の奇跡を受け入れなかった時のため、もう一つの奇跡をモーセに備えられました。それは手を懐に入れるとらい病になり、再び懐に入れるとらい病が治るという奇跡でした。この『らい』にもやはり象徴的な意味はありません。これは、ただモーセの手がらいに冒されたというだけのことです。

【4:9】
『もしも彼らがこの2つのしるしをも信ぜず、あなたの声にも聞き従わないなら、ナイルから水を汲んで、それをかわいた土に注がなければならない。あなたがナイルから汲んだその水は、かわいた土の上で血となる。」』
 神は、ユダヤ人が杖とらい病の奇跡を受け入れなかった時のため、ナイルの水を血に変えるというもう一つの奇跡を備えられました。これはトリックを使った魔術ではありません。実際にこのようなことが起こるのです。何故なら、科学的な一般現象を越えて為されるのが奇跡なのですから。

 ところで、これまでの3つの奇跡にはどれも恐怖が伴っています。杖が蛇に変われば、それを見た人は恐れるはずです。モーセの手がらいに冒されても驚き恐れるはずです。ナイルの水が血に変われば、それを見た人は血の気が引いてしまうでしょう。これは恐怖を伴わせることでユダヤ人が神とモーセに服従するためです。恐れるならば従うようにもなるからです(出エジプト記20:20)。これが恐れを伴わないマジックショーのようだったら、どうでしょうか。その場合、畏怖が起こらないので、服従もしにくくなってしまうでしょう。ここで神は「3つ」の奇跡をモーセに備えて下さいました。奇跡が3つだったのは、モーセが神から遣わされたということを強く確証させるためです。全ての事柄は「3回」または「2回」により確認されるべきだというのが聖書の教えだからです。

【4:10】
『モーセは主に申し上げた。「ああ主よ。私はことばの人ではありません。以前からそうでしたし、あなたがしもべに語られてからもそうです。私は口が重く、舌が重いのです。」』
 ピーター・ドラッカーによれば、人には「聞き手」と「読み手」がいます。「聞き手」の人は読むのが苦手ですが聞くのは得意であり、「読み手」の人は聞くのが苦手ですが読むほうは得意です。ですから、ある大統領は聞くのが苦手なので何かを伝えられる際には必ず紙に書かせていましたし、読むのが苦手だったので必ず口で伝えさせていた大統領もいました。これは受動に関する事柄です。私の思うに、これは能動に関する事柄でも同じことが言えます。すなわち、人には「話し手」と「書き手」がいます。「話し手」の人は書くよりも話すほうが得意であり、「書き手」は話すよりも書くほうが得意です。ドラッカーはこれについて何も述べていませんが、私には確かにこのようであると思えます。例えば、アウグスティヌスは間違いなく「書き手」でした。何故なら、彼の書いた文章は非常に特徴的で雄弁なのに対し、口で語る説教については一度も満足したことがないとアウグスティヌス自身が言っているからです。これに対しヒトラーは「話し手」だったでしょう。ヒトラーはドイツ人全体を奮い立たせるほどの雄弁を持っており、彼自身も「今までペンの騎士ではなく雄弁家が世界を変えてきたのだ。」(※)と言っているぐらいですが、彼の著書である「わが闘争」は話し手らしく口述筆記により書かれたのでした。私たちが今見ているモーセはと言えば、モーセ自身の言葉から分かる通り、間違いなく「話し手」ではありません。彼は「書き手」だったでしょう。「トーラー」(創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記の5書のこと)の著者がモーセだと思っている人たちは、この意見を歓迎するでしょう。もっとも、トーラーの著者はモーセでなかった可能性が高いのですが。なお、パウロも間違いなく「書き手」でした(Ⅱコリント10:10)。こういうわけですから、モーセは自分が舌足らずであると神に言います。モーセはここで「私は話すのが苦手なのにどうしてパロの前でしっかり話せるのでしょうか。」とでも言いたいかのようです。しかし、神はこのようなモーセを御自身の真理を伝える使者としてお選びになりました。これは接客が苦手な社員に接客をやらせるようなものです。これこそ神の御心でした。神は能弁家を選びませんでした。それはモーセに栄誉が帰されないためなのです。もしモーセが能弁であれば、モーセが大胆に美しく語るので、神ではなくモーセが賛美されてしまうことになりかねません。そうすれば神の栄光が掻き消されてしまいます。このように神はあえて不適合だと思える器を御自身のために選ばれます。それは卑しい器の中から神の真理と栄光と働きが大いに輝くようになるためなのです(Ⅱコリント4:7)。

(※)この見解は間違っています。ルターやニュートンやロックやダーウィンなどペンで世界を変えた有名な人は幾らでもいるからです。ダーウィンなどはほとんど口で語りませんでしたが―ダーウィンは激しく反論されることを恐れていつも論争の場に向かいませんでした―、彼の「種の起源」は世界全体の思想を丸々と変えてしまったのです。このダーウィンは間違いなく「ペンの騎士」です。ヒトラーは自分の雄弁に酔い痴れて脳がイカレてしまったのかもしれません。

【4:11~12】
『主は彼に仰せられた。「だれが人に口をつけたのか。だれがおしにしたり、耳しいにしたり、あるいは、目をあけたり、盲目にしたりするのか。それはこのわたし、主ではないか。さあ行け。わたしがあなたの口とともにあって、あなたの言うべきことを教えよう。」』
 訥弁のため卑屈になるモーセに対し、神は御自身がモーセの言うべきことを知らせるので大丈夫だと言われます。確かに神がモーセの口を導いて下さるのであれば問題はないでしょう。神は、人に語る口を創造され、聞く耳をも創造されました。このような神は語りにおける最善の導き手であられます。この主は福音書でも似たようなことを言っておられます。すなわち、聖徒たちが話すべきことはその時に示されるので何を話すべきか考慮しなくてもよい、と。こう言われています。『人々があなたがたを引き渡したとき、どのように話そうか、何を話そうかと心配するには及びません。話すべきことは、そのとき示されるからです。』(マタイ10章19節)

【4:13~16】
『すると申し上げた。「ああ主よ。どうかほかの人を遣わしてください。」すると、主の怒りがモーセに向かって燃え上がり、こう仰せられた。「あなたの兄、レビ人アロンがいるではないか。わたしは彼がよく話すことを知っている。今、彼はあなたに会いに出て来ている。あなたに会えば、心から喜ぼう。あなたが彼に語り、その口にことばを置くなら、わたしはあなたの口とともにあり、彼の口とともにあって、あなたがたのなすべきことを教えよう。彼があなたに代わって民に語るなら、彼はあなたの口の代わりとなり、あなたは彼に対して神の代わりとなる。』
 モーセが怖気づくと、神は話が得意なモーセの兄アロンを言わば助手として指定されました。このアロンが『よく話す』と言われているのは、量だけでなく質についてのことでもあったはずです。アロンはモーセの代言者です。モーセが訥々ながら言うべきことをアロンに知らせると、アロンの口を通してそれが雄弁に語られるのです。神はこのアロンを用意することでモーセが安心できるようにされました。アロンが代わりに語ってくれるならば恥ずかしい思いを抱くこともないからです。このアロンは聖書では、ここで初めて出てきます。彼はパロが幼児殺害を命じる前に産まれていたので、殺されずに済んでいました。アーロン・ルッソをはじめ今でもこの名前を付けられているユダヤ人が多くいます。それだけでなく、この名前は創作物の登場人物にもしばしば付けられています。それというのもアロンとはユダヤ最初の祭司であって偉大な人物だからです。

【4:17】
『あなたはこの杖を手に取り、これでしるしを行なわなければならない。」』
 神はモーセが杖を持って早速行くように命じられます。これは勧めでなく命令です。それゆえ、モーセが従わないのは罪でした。モーセは拒むことなくこの命令に従います。神がモーセと共におられ、奇跡とアロンという強力な支えが用意されたからです。これでもう全ての準備が整えられました。

【4:18】
『それで、モーセはしゅうとのイテロのもとに帰り、彼に言った。「どうか私をエジプトにいる親類のもとに帰らせ、彼らがまだ生きながらえているかどうか見させてください。」イテロはモーセに「安心して行きなさい。」と答えた。』
 モーセが妻の父であるイテロにエジプト行きを懇願すると、イテロは快諾してくれました。このように神の御心であれば、他の人も同意してくれる場合が多いのです。それは神が全てに働きかけられるからです。しかし、それが御心でないと、他の人たちが反対したり妨げが起こるということがしばしばあります。

【4:19~20】
『主はミデヤンでモーセに仰せられた。「エジプトに帰って行け。あなたのいのちを求めていた者は、みな死んだ。」そこで、モーセは妻や息子たちを連れ、彼らをろばに乗せてエジプトの地へ帰った。モーセは手に神の杖を持っていた。』
 モーセは40年前にエジプトで殺人を犯していますから、エジプトでは今で言えば指名手配されているようなものでした。このためモーセがエジプト行きを多かれ少なかれ恐れていたのは間違いありません。ですが神はモーセに対して『あなたのいのちを求めていた者は、みな死んだ。』と言われ、モーセを安心させられました。時の流れが、モーセに死を求めるエジプト人たちを地上から消し去っていたのです。このためモーセは安心して家族を連れてエジプトに向かうことができました。この時にモーセは『神の杖』を持っていたと言われています。このように言われているのは神がその杖で奇跡をなさるからです。ところで、この杖は今どこにあるのか、と疑問に感じる方がもしかしたらいるかもしれません。私は言いますが、この杖は、最後の晩餐の時に使われた杯やパウロが書いた直筆の書簡と同様、もう失われています。しかしこの杖が失われたからといって、どうということはありません。何故なら、この杖で神とモーセが行なった奇跡は、信仰者たちに信じられているからです。神の杖が失われたからといって、モーセが杖で奇跡を行なわなかったことになるのでしょうか。そんなことは絶対にありません。カトリックはこのようないわゆる「聖遺物」に強く拘ります。だから彼らの信仰はおかしくなってしまうのです。カトリックは目に見えない対象物ではなく、目で見れる対象物に心を奪われ過ぎています。宗教の本質とは目に見えない対象への信仰にあるのですが…。

【4:21】
『主はモーセに仰せられた。「エジプトに帰って行ったら、わたしがあなたの手に授けた不思議を、ことごとく心に留め、それをパロの前で行なえ。しかし、わたしは彼の心をかたくなにする。彼は民を去らせないであろう。』
 神はモーセにパロの前で奇跡を行なえと命じられます。これはその奇跡を通して神の素晴らしい栄光が現わされるためです。また、その奇跡がユダヤ人の子孫たちに語り継がれることで、その子孫たちが神を恐れ賛美するようになるためです。

 しかしながら、神はパロの心を頑なにすると言っておられます。すなわち、神はパロが証拠としての奇跡を見ても、神とモーセを受け入れないようにされます。神はどうしてパロにこうされるのでしょうか。それは神が重ねて奇跡を行なうためです。パロが頑なになれば奇跡が何回も行なわれますから、それだけ神の栄光も現わされるようになります。もしパロが1回か2回奇跡を見ただけで神とモーセを受け入れていたとすれば、もうそれ以上奇跡が行なわれませんから、神の栄光も少ししか現わされなくなってしまいます。

 ここで次のような疑問を持つ人がいるかもしれません。「神がパロの心を頑なにされたのであればパロに頑なになったことの責任はないのではないか。神が心を頑なにされたのだから、どうしてパロは心を従順にすることができただろうか。」確かに神の働きかけによりパロが頑なになったのは間違いありません。ですがパロが頑なになったのはパロ自身の責任とせねばなりません。何故なら、パロには前々からヤハウェとモーセとイスラエル人に対する潜在的な敵意また不信感があったからです。神は、その敵意と不信感が心の頑なさという形によって現われるようにしただけに過ぎません。つまり、神はパロをパロ自身の本性に委ねられただけです。パロが心を頑なにさせたのはパロの本性に完全に準拠していました。神はその本性を明瞭に発揮させただけに過ぎません。ですから、パロが頑なになったという悪それ自体を神に帰することは絶対にできません。

【4:22~23】
『そのとき、あなたはパロに言わなければならない。主はこう仰せられる。『イスラエルはわたしの子、わたしの初子である。そこでわたしはあなたに言う。わたしの子を行かせて、わたしに仕えさせよ。もし、あなたが拒んで彼を行かせないなら、見よ、わたしはあなたの子、あなたの初子を殺す。』」』
 神はユダヤ人が御自身の子だと言われます。これは古代のユダヤ人がキリストにおいて神の養子にされたという意味です。旧約時代においてユダヤ人以外は神の子ではありませんでした。彼ら異邦人はサタンの子です。何故なら、神の子でなければサタンの子だということになるからです。パウロも、神の子らでない人たちは悪い霊によって歩んでいるサタンの子であると示しています(エペソ2:1~3)。このユダヤ人たちは『初子』でもあります。ユダヤが神の初子であるとはどういう意味でしょうか。これは2つのことが考えられます。一つ目は、ユダヤ人は異邦人に先んじている民族として『初子』だということです。ユダヤ人は神の子として最初に生まれた民族です。一方、異邦人たちは新約時代になってから初めて神の子となりましたから、神の前では初子ではなく次男です。二つ目は、これはユダヤ人が神に捧げられていると示しているということです。何故なら、律法において初子は神に捧げられねばならないと定められているからです(出エジプト記13:12、22:29)。ところで、異邦人クリスチャンの中で、自分たちがユダヤに次いて第二の地位に置かれたことを不満がる人がいるのでしょうか。もしいたとすれば、その人は異邦人がユダヤの次に置かれたことを不満に思うべきではありません。何故なら、神は先にユダヤ人が御自身の子となるのを欲されたからです。誰が神の決定に異を唱えてよいでしょうか。

 神は御自身の子であるユダヤ人たちをパロが去らせるよう求めておられます。もしパロが去らせなければ初子を殺すと神は脅迫されます。この『初子』とはパロの初子だけでなく、エジプト人全ての初子、更にはエジプト人の家畜における初子も含まれています(出エジプト記11:5)。このパロもそうでしたが、人が神に従わなければ死をもたらします。命そのものであられる神から罪を犯して背き離れるならば、私たちの命の源泉である神から遠ざかったのですから、命とは無縁にならざるを得ないからです。それゆえ、『罪から来る報酬は死』(ローマ6章23節)だということになるのです。

【4:24~26】
『さて、途中、一夜を明かす場所でのことだった。主はモーセに会われ、彼を殺そうとされた。そのとき、チッポラは火打石を取って、自分の息子の包皮を切り、それをモーセの両足につけ、そして言った。「まことにあなたは私にとって血の花婿です。」そこで、主はモーセを放された。彼女はそのとき割礼のゆえに「血の花婿」と言ったのである。』
 既に述べた通り、ミデヤンからエジプトまでは数百キロの距離があります。まだ自動車も自転車もないこの時代に、モーセたちは家畜に乗ってゆっくり旅をせねばなりませんでした。モーセはそれなりのスピードがでる馬車を持っていませんでした。ですから、エジプトに着くまで、モーセたちは野宿をせねばなりませんでした。その回数は1回や2回だけではなかったはずです。出エジプト記4:24~26の箇所では、そのように野宿をする際のある日のことが描かれています。

 この箇所には驚くべきことが書かれています。神が御自分の僕であるモーセを殺そうとされたのです。どうして神がモーセを殺そうとされたのか理解できない人は多いはずです。神はどうしてモーセという御自分の選ばれた特別な人間を殺してしまおうとされたのでしょうか。聖書には、その理由が具体的に何も書かれていません。この理由は幾つかのことが考えられます。まず考えられるのは、神がモーセを従順にしようとされたということです。少し前、モーセは僅かばかり神に反発する気質を現わしていました(出エジプト記4:10、13)。神はモーセを通してイスラエルを救い指導されるのですから、モーセが神に反発することはあってはならないことです。例えるならば神は社長であり、モーセは支店の運営を任された支店長です。支店長が社長に逆らうべきでないことは明らかです。ですから神はモーセを恐れさせて従順にしようとされたのかもしれません。殺そうとすればモーセは恐れてしまうのですから。または神がモーセの殺人を裁かれようとしたとも考えられます。モーセは40年前に殺人を犯しましたが、しかし死の罰は受けていませんでした。律法では『命には命』と書かれており、殺人者は死の報いを受けるべきだとされています。このため神はモーセに報いを与えようとされたのかもしれません。殺人者が死ぬべきなのはモーセほどの人であっても例外ではありません。何故なら、『神は人を神のかたちにお造りになったから』(創世記9章6節)です。またはモーセが神に逆らった道を行こうとしていたからだとも考えられます。モーセはエジプト行きを恐れて、真っ直ぐな道を歩んでいなかったか、寄り道をしていた可能性があります。このため神はモーセに死の罰を与えようとされたのかもしれません。聖書にはこのような例が他にもあります。それは、あのバラムの出来事です。バラムは神の御心でない間違った道に進もうとしたので、危うく主に殺されるところでした(民数記22:21~35)。またはモーセが息子に割礼を施していなかったからだとも考えられます。エジプトから脱出したユダヤ人は全て割礼を受けていましたから(ヨシュア5:5)、モーセも生後8日目に割礼を受けていたのは間違いありません。しかし、モーセはどうしてか自分の息子には割礼を施していませんでした。モーセが割礼を施さなかったのは、異教徒のイテロまたはチッポラの反応を気にしたのか、単に忘れていただけなのか、神の定めなどあまり気にしなくなっていたからなのか、色々と考えられますが、実際にどういった理由からだったのかは不明です。このために神はモーセを殺そうとしたのかもしれません。何故なら、神の法を守っていないような者はイスラエルの指導者に相応しくないからです。「割礼を施せ。」と言うべき指導者が自分の子に割礼を施していないのではお話しにならないではありませんか。この箇所を見る限りでは、正しいのは割礼を施していなかったからである可能性が高いと思われます。何故なら、妻のチッポラが息子に割礼を施すと神はモーセを放されたからです。ところで、この時、チッポラが『あなたは私にとって血の花婿です。』と神に言ったのは一体どういう意味なのでしょうか。これはこう言いたいのだと思われます。「神であるあなたはやがて現われるメシアの血によりモーセを贖われた花婿であられるのに、そのモーセを殺そうとされるのですか。」確かにモーセは教会の一員であって、教会とはメシアの血により贖われた神の妻であって、神はその妻である教会の花婿であられます。要するにチッポラは教会の花婿であられる神に血によるキリストの救いを思い起こさせているのだと思われます。なお、ここでは女性であるチッポラが割礼という聖礼典を施していますが、だからといって新約時代の割礼であるバプテスマを女性が施してよいということにはなりません。何故なら、これは例外的なケースであって、一般的な規則にすることはできないからです。宗教改革者が述べた通り、聖礼典は指導者である男性信仰者が施すべきです。では、ある島に女性しかおらず、その中にいるある女性が信仰を持ったのですが、外部からどうしてもバプテスマ実施のために男性牧師を呼べない場合はどうなのでしょうか。また、ある人が臨終の時に信仰を持ったのですが、死ぬ前までにバプテスマを受けるためにはどうしても女性が執行するしかない場合はどうなのでしょうか。これらのケースでは、チッポラの場合と同様で、女性が聖礼典を執行するのも例外的に許されるでしょう。何故なら、この場合は女性が執行することになっても仕方ないのですから。

【4:27~28】
『それから、主はアロンに仰せられた。「荒野に行って、モーセに会え。」彼は行って、神の山でモーセに会い、口づけした。モーセは自分を遣わすときに主が語られたことばのすべてと、命じられたしるしのすべてを、アロンに告げた。』
 神はアロンがモーセに会うよう命じられます。このように命じられたのは直接的な御声によりました。モーセと同様、アロンも神の語りかけを聞けていたのです。アロンはこの命令に従い、モーセに会いに行きました。アロンはモーセに会うと親愛の口づけをしています。これはイサクとイシュマエルとは違い、この2人の兄弟仲が悪くなかったことを示しています。モーセは神の言葉と奇跡についてアロンに話します。これからイスラエルをエジプトから解放するためです。このアロンは恐らく、これまでエジプトに住んでいたと考えられます。もしエジプトに住んでいなければ、アロンに対し『荒野に行って』とは命じられていなかっただろうからです。

【4:29~31】
『それからモーセとアロンは行って、イスラエル人の長老たちをみな集めた。アロンは、主がモーセに告げられたことばをみな告げ、民の目の前でしるしを行なったので、民は信じた。彼らは、主がイスラエル人を顧み、その苦しみをご覧になったことを聞いて、ひざまずいて礼拝した。』
 ユダヤ人たちは神からの御告げと不思議な奇跡により、モーセとアロンを神の使者として受け入れ、ユダヤを救って下さる神に礼拝しました。もし御告げと奇跡がなければ、モーセとアロンは受け入れられていなかったはずです。しかし、この2つはしっかりとありました。主もこの2つを持っておられました。だから、多くの人たちがキリストを受け入れて信じたのです。

【5:1】
『その後、モーセとアロンはパロのところに行き、そして言った。「イスラエルの神、主がこう仰せられます。『わたしの民を行かせ、荒野でわたしのために祭りをさせよ。』」』
 モーセとアロンはパロにユダヤを去らせるよう求めましたが、2人がこのようにしたのは神から遣わされたからです。遣わされなければこのように伝えるのは難しいのです。パウロがこう言っている通りです。『遣わされなくては、どうして宣べ伝えることができるでしょう。』(ローマ10章15節)ところで、これまでユダヤ人たちは神の御名を恐れるあまり、御名を口にすることさえいけないとしてきました。しかし、この考えは間違っています。確かに御名を畏怖すべきではありますが、だからといって口にしてはいけないということにはならないからです。実際、この箇所でモーセとアロンは神の御名を口にしていますし、多くの預言者たちも御名を口にしました。御名を口にすべきでないと言うユダヤ人たちはモーセや預言者たちよりも利口で思慮深いとでもいうのでしょうか?まさか、そんなことはないはずです。

【5:2】
『パロは答えた。「主とはいったい何者か。私がその声を聞いてイスラエルを行かせなければならないというのは。私は主を知らない。イスラエルを行かせはしない。」』
 パロはやはり神とモーセたちを受け入れませんでした。重要な財産である自分の奴隷たちを進んで捨てるということは、やはりパロにとって出来ないことでした。これは他の王でも同じだったでしょう。ヨセフの時代のパロであれば話は違っていたでしょうが。この時、パロはヤハウェを知らないと言いましたが、これは本当のことでした。パロが知っていたのは、イシスやホルスやオシリスやラーといったエジプトの神々でした。このパロは、ユダヤ人の神がユダヤ人だけでなくパロの神でもあり、そればかりでなく全人類・全世界の神であられることを知りませんでした。旧約時代では、神がユダヤ人に対してだけ御自身を神として示しておられただけに過ぎません。その当時、真の神を持っているのはユダヤ人だけでした。それ以外の異邦人たちは、真の神が与えらておらず、偽りの神々を信じる以外にはありませんでした。ですからパロも全存在の神であられるユダヤの神を知らないでいたのです。しかし、だからといってヤハウェ神がユダヤ人だけの民族的な神だったということにはなりません。古代ユダヤの信じていた神は、この世界を創造された神だからです。そのことを示すかのように、今やその神は世界中で真の神として信じられ崇められているではありませんか。

【5:3】
『すると彼らは言った。「ヘブル人の神が私たちにお会いくださったのです。どうか今、私たちに荒野へ三日の道のりの旅をさせ、私たちの神、主にいけにえをささげさせてください。でないと、主は疫病か剣で、私たちを打たれるからです。」』
 モーセとアロンは、もし行かせてもらえないと神から『疫病か剣』の裁きを受けてしまうと訴えます。これは本当でした。神に従わない者は裁きの対象となるからです。

 ここで『三日』と言われているのは、エジプトから神の山ホレブまで行くのに三日間ぐらいかかるからでしょう。ユダヤ人が住んでいたエジプトのゴシェンからホレブ山まではだいたい250kmぐらいありますが、毎日ずっと歩いて行くならば確かに三日ぐらいで着きそうです。毎日15時間、時速5kmの徒歩で行くならば、3日で225km進めるからです。

【5:4~5】
『エジプトの王は彼らに言った。「モーセとアロン。おまえたちは、なぜ民に仕事をやめさせようとするのか。おまえたちの苦役に戻れ。」パロはまた言った。「見よ。今や彼らはこの地の人々よりも多くなっている。そしておまえたちは彼らの苦役を休ませようとしているのだ。」』
 パロからすれば、モーセとアロンはユダヤ人を休ませようとしているだけに過ぎないと感じられました。つまり、モーセとアロンは単なる口実として神を持ちだしたに過ぎないとパロには思えました。パロはこの2人が神と会ったことを全く信じていなかったのです。ですから『おまえたちの苦役に戻れ。』と言って、モーセとアロンを完全に退けています。支配者が反教会的であると、このように聖徒たちは苦難を味わうものです。願わくは主が聖徒たちの上にコンスタンティヌスのような支配者を置いて下さいますように。しかし、モーセとアロンはパロから拒絶されても失望しなかったはずです。何故なら、パロが聞き入れようとしないというのは、既に神から知らされていたことだからです。

 この箇所でパロはユダヤ人が『この地の人々よりも多くなっている』と言っています。ユダヤ人がエジプトを出る際には壮年の男子だけでも『約60万人』(出エジプト記12章37節)いましたから、普通に考えるならば、当時のエジプトで壮年男子は60万人もいなかったことになります。異民族がそこに元からいた民族よりも多くなるというのは驚くべきことです。これはアメリカで黒人が白人よりも多くなったり、日本で在日韓国人が純粋な日本人よりも多くなるのと一緒です。ユダヤ人がエジプトに移住した時、ユダヤ人は100人もいませんでしたが(出エジプト記1:1~5)、400年間で壮年男子だけでも60万人となりました。イスラエルは実に多産だったのです。神が御自身の民を大いに増やして下さいました。その恵みはとこしえまで。

【5:6~14】
『その日、パロはこの民を使う監督と人夫がしらに命じて言った。「おまえたちはれんがを作るわらを、これまでのようにこの民に与えてはならない。自分でわらを集めに行かせよ。そしてこれまで作っていた量のれんがを作らせるのだ。それを減らしてはならない。彼らはなまけ者だ。だから、『私たちの神に、いけにえをささげに行かせてください。』と言って叫んでいるのだ。あの者たちの労役を重くし、その仕事をさせなければならない。偽りのことばにかかわりを持たせてはいけない。」そこで、この民を使う監督と人夫がしらたちは出て行って、民に告げて言った。「パロはこう言われる。『私はおまえたちにわらを与えない。おまえたちは自分でどこへでも行ってわらを見つけて、取って来い。おまえたちの労役は少しも減らさないから。』」そこで、民はエジプト全土に散って、わらの代わりに刈り株を集めた。監督たちは彼らをせきたてて言った。「わらがあったときと同じように、おまえたちの仕事、おまえたちのその日その日の仕事を仕上げよ。」パロの監督たちがこの民の上に立てたイスラエル人の人夫がしらたちは、打ちたたかれ、「なぜおまえたちは定められたれんがの分を、きのうもきょうも、これまでのように仕上げないのか。」と言われた。』
 パロはユダヤ人が怠けているので荒野に行こうとしていると思っていたので、更にユダヤ人に苦役を重くします。こうしてユダヤ人たちは煉瓦を作る藁さえも自分たちで集めなければいけなくなりました。このような労働の虐待は、悪しきナチスがユダヤ人たちに行なわせた強制労働を思い起こさせます。20世紀のユダヤ人たちも、ナチスからこき使われて悲惨にされたのです。もっとも、ナチスから苦しめられたユダヤ人たちの大半はアシュケナージであって、実は本当のイスラエルではないのですが。実際、ナチスに苦しめられたユダヤ人の囚人を見ても、やはりセム系の顔立ちではないことが確認できるのです。ところで、当時のユダヤ人たちはどうして煉瓦を作らされていたのでしょうか。ユダヤには壮年男子が60万人もいたのですから、大勢の過重労働により、非常に多くの煉瓦が作られていたはずです。それらの煉瓦がピラミッドのために使われたとは考えられないでしょうか。可能性としてはかなりあり得るでしょう。

 この箇所でパロはユダヤ人が偽りを言っていると述べています。しかし、ユダヤ人は真実で良いことを言っていました。彼らは神の命令により荒野に行こうとしていましたし、エジプトから出て神に生贄を捧げるのは良いことです。このパロのように、人は見下している相手が自分に不都合なことを言うと嘘だと思う傾向があります。何故なら、その嫌っている相手の発言により自分の優位性や利益が失われるのを避けたいと思う心理が働くからです。しかし、この時のユダヤ人のように本当に相手が正しいことを言っている場合も多いのです。

【5:15~19】
『そこで、イスラエル人の人夫がしらたちは、パロのところに行き、叫んで言った。「なぜあなたのしもべどもを、このように扱うのですか。あなたのしもべどもには、わらが与えられていません。それでも、彼らは私たちに、『れんがを作れ。』と言っています。見てください。あなたのしもべどもは打たれています。しかし、いけないのはあなたの民なのです。」パロは言った。「おまえたちはなまけ者だ。なまけ者なのだ。だから、『私たちの主にいけにえをささげに行かせてください。』と言っているのだ。さあ、すぐに行って働け。わらは与えないが、おまえたちは割り当てどおりれんがを納めるのだ。」イスラエル人の人夫がしらたちは、「おまえたちのれんがのその日その日の数を減らしてはならない。」と聞かされたとき、これは、悪いことになったと思った。』
 ユダヤ人が更に酷くされた苦役をパロに訴えたところ、パロは全く取り合ってくれませんでした。パロはユダヤ人が本当に怠け者であると思い込んでいました。ですから、ユダヤ人たちはそれまで与えられていた藁がないのに今まで通りの煉瓦を納めなければいけなくなりました。「万事休す」とはこのことです。

【5:20~21】
『彼らはパロのところから出て来たとき、彼らを迎えに来ているモーセとアロンに出会った。彼らはふたりに言った。「主があなたがたを見て、さばかれますように。あなたがたはパロやその家臣たちに私たちを憎ませ、私たちを殺すために彼らの手に剣を渡したのです。」』
 ユダヤ人たちは、更に労役が厳しくなったので、モーセとアロンの非を責めました。モーセとアロンのせいで更にユダヤ人が悲惨になったからです。ですから彼らは『主があなたがたを見て、さばかれますように。』と2人に対して言っています。しかし、このように言うのは誤っていました。何故なら、そもそもモーセとアロンをパロに遣わされたのは主だからです。モーセとアロンは主の命じられる通りにしたまでです。また、エジプト人たちがユダヤ人を剣で殺すと言っているのも誤りです。何故なら、神はユダヤ人がエジプト人から殺されるようにするのではなく、ユダヤ人をエジプト人から救おうとしておられたからです。ですから、モーセとアロンを責めたこのユダヤ人たちは何が起きているのか全く理解できていませんでした。

【5:22~23】
『それでモーセは主のもとに戻り、そして申し上げた。「主よ。なぜあなたはこの民に害をお与えになるのですか。何のために、私を遣わされたのですか。私がパロのところに行って、あなたの御名によって語ってからこのかた、彼はこの民に害を与えています。それなのにあなたは、あなたの民を少しも救い出そうとはなさいません。」』
 モーセは神の命令通りにしたのに状況が良くなるどころか悪くなっているので、一体どういうわけなのかと神に言っています。このようにモーセが言ったのは罪ではありません。何故なら、モーセはここで神の為さる事柄に否定や批判をしておらず、ただ詳細を聞いているだけだからです。ですから神もモーセの言ったことに怒られませんでした。では、私たちもこのモーセのように神に言ってもいいのでしょうか。モーセのように言うのであれば、すなわちそこに敵意や反逆の心がないのであれば、許されるでしょう。つまり、単に御心を知ろうとして言うのであれば問題ないでしょう。しかし、このように言う場合には、最大限の節度を持たなければいけません。何故なら、神はこざかしい者を嫌われるからです。

【6:1】
『それで主はモーセに仰せられた。「わたしがパロにしようとしていることは、今にあなたにわかる。すなわち強い手で、彼は彼らを出て行かせる。強い手で、彼はその国から彼らを追い出してしまう。」』
 モーセは、神がユダヤを救われると言われたのにかえってユダヤが悲惨になっているので、何が起きているのか理解できませんでした。しかし、神の側では、ユダヤの救いのために全ての事柄が正しく進んでいました。ですから、神はモーセに『わたしがパロにしようとしていることは、今にあなたにわかる。』と言っておられます。すなわち、これからパロは災いに耐えかねて、ユダヤ人たちをエジプトから去らせることになります。パロが<『強い手』>でユダヤ人を追放してしまうというのは、つまり「強制的に」というほどの意味です。このモーセもそうでしたが、私たちにとって神の為さることは、その途中の時期においては、なかなか分からないことが多いのです。しかし、全てが終わると、一体どういうことだったか分かるようになるのがしばしばです。全てが終わると、それまでに起きた出来事の全体像を把握できるようになるからです。まだ全体像を見れない途中の時期にあって、人が神の御心を察せないのは何も不思議なことではありません。