【出エジプト記6:2~9:11】(2021/09/05)


【6:2~3】
『神はモーセに告げて仰せられた。「わたしは主である。わたしは、アブラハム、イサク、ヤコブに、全能の神として現われたが、主という名では、わたしを彼らに知らせなかった。』
 神は、アブラハムとイサクとヤコブの時代からモーセが現われるまで、ユダヤ人にヤハウェという御名を御示しになっておられませんでした。神には御名を知らせるべき「時」があるからです。これは、ちょうど最近になるまで人間がDNAや核分裂反応について知らされていなかったのと同じです。例えば、いつ子供を産むかは完全に夫婦の決定にかかっているはずです。神がモーセの時代になるまで御自身の御名を知らせておられなかったのは、この夫婦の決定とよく似ています。ところで、このヤハウェ(YAWH)という御名は、今ではどのように発音されていたか分からなくなっています。ですから、文書や人によって「ヤハウェ」「ヤーヴェ」「ヤーウェ」などと呼び方が違っています。私の経験から言うと、「ヤハウェ」と言ったり書いたりしている場合がやや多いように思えます。ですが、どの呼び方であっても間違っているということはありません。昔は「エホバ」また「イェホヴァ」などと呼ばれていましたが、この呼び方は誤りです。

【6:4~5】
『またわたしは、カナンの地、すなわち彼らがとどまった在住の地を彼らに与えるという契約を彼らに立てた。今わたしは、エジプトが奴隷としているイスラエル人の嘆きを聞いて、わたしの契約を思い起こした。』
 神は、カナンの地をユダヤに与えるという契約が実現されるため、ユダヤ人をエジプトから連れ出そうとされます。それは神が『契約を思い起こした』からです。これは神がそれまで契約を忘れていたという意味ではありません。全知の神は一切の事柄を常に覚えておられるからです。この『思い起こした』とは例えまた表現であって、人間が何かを思い起こして行動するようにして、神が契約を強く心に留めて事を為されるという意味です。このような契約がなければ、ユダヤ人はずっとエジプトに閉じ込められていたかもしれません。いや、その場合、そもそもユダヤ人はエジプトに移住してすらいなかったかもしれません。

【6:6~8】
『それゆえ、イスラエル人に言え。わたしは主である。わたしはあなたがたをエジプトの苦役の下から連れ出し、労役から救い出す。伸ばした腕と大いなるさばきとによってあなたがたを贖う。わたしはあなたがたを取ってわたしの民とし、わたしはあなたがたの神となる。あなたがたは、わたしがあなたがたの神、主であり、あなたがたをエジプトの苦役の下から連れ出す者であることを知るようになる。わたしは、アブラハム、イサク、ヤコブに与えると誓ったその地に、あなたがたを連れて行き、それをあなたがたの所有として与える。わたしは主である。」』
 神は、ユダヤを遂にエジプトから救い出し、至福の地カナンへと移すことにされました。その地でユダヤ人が神と共に歩むためです。ここでユダヤが『贖う』と言われているのは、神が奴隷として苦しめられているユダヤを買い取って御自身の所有の民にされるということです。ちょうど裕福な人が苦しめられている奴隷を買い取って自分の家で安全に住まわせるかのように。その贖いが『伸ばした腕』により行なわれると言われているのは、神が確実に事を成し遂げられるということです。何故なら、神の御腕は決して短くないからです。全能者の御腕が伸ばされたのに実現しないことが何かあるでしょうか。ありません。

 この贖いは、イエス・キリストの贖いを予表しています。古代ユダヤ人はパロという圧制者から解放され、選ばれている人はサタンという圧制者から解放されるからです。苦しみを与える者から神が助け出して下さるという点で、どちらも一緒です。パウロは、出エジプト自体がキリストの贖いを象徴していると示しています(Ⅰコリント10:1~4)。今や人はサタンという霊的なパロからキリストにより贖われることができます。そして贖われると、サタンという暗闇の圧政者から、キリストという光の支配者のもとに移されるのです。パウロがこう言っている通りです。『神は、私たちを暗やみの圧政から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました。』(コロサイ1章13節)

 ここで神は冒頭と最後で『わたしは主である。』と言われましたが、これはイスラエル人に御自身のことをよく認識させるためだと思われます。そうでなければ、これは御自身が語られたことを明示するための宣言です。つまり、これは署名と見做してよいでしょう。「神である私が語ったのだからどうして実現しないことが(または間違っているということが)あるのであろうか。」ということです。律法でもこのような意味合いで『わたしは主である。』と言われています(レビ記19:12、14、16、18)。

【6:9】
『モーセはこのようにイスラエル人に話したが、彼らは落胆と激しい労役のためモーセに聞こうとはしなかった。』
 ユダヤ人は、せっかく神が助けて下さると思ったのに状況が悪くなったので落胆していました。また、酷い苦役のために疲れ果て、もうこれ以上、前向きなことを考えられる余裕はありませんでした。ですから、モーセをもはや相手にしませんでした。この時のユダヤ人は近視眼でした。神はユダヤを救おうとしておられました。その救いの過程の中では、悲惨に思えるような事柄も含まれていました。ところがユダヤ人たちはその悲惨な部分だけに目を留め、もう駄目だと思ってしまったのです。このような短絡さは、当時のユダヤ人だけでなく、全ての時代のあらゆる人が持っている傾向でもあります。例えば、長期的には高騰する銘柄も、一時的に大幅に下落するということは稀ではありません。しかし、そのような下落はやがて元に戻り、再び長期的な上昇の波を上っていくのです。このような時は、メンタルの強くない人だけでなく非常に優秀なトレーダーであっても驚き慌てて、それ以上の損失を防ぐために売り払ってしまうということは稀ではありません。しかし、長期的には実はそこで売らないほうが良かったことに後ほど気付くのです。この時モーセを相手にしなかったユダヤ人たちは正にこのようでした。

【6:10~11】
『主はモーセに告げて仰せられた。「エジプトの王パロのところへ行って、彼がイスラエル人をその国から去らせるように告げよ。」』
 人間的に考えて、モーセはもうパロのところに行きたいと思わなかったはずだと思われます。一体、一度最高権力者から拒絶されたのに再び王座の前に行きたいと思う人がいるでしょうか。多くの人は気が引けてしまうはずです。しかし、神はモーセに再びパロのもとへ行くよう命じられます。このように、神の言われることは全て正しいのですが、人間にとっては理解し難いことが多いのです。それは、凡人が天才の言うことを、子供が大人の言うことを、初心者が熟練者の言うことを理解できないのと似ています。

【6:12~13】
『しかしモーセは主の前に訴えて言った。「ご覧ください。イスラエル人でさえ、私の言うことを聞こうとはしないのです。どうしてパロが私の言うことを聞くでしょう。私は口べたなのです。」そこで主はモーセとアロンに語り、イスラエル人をエジプトから連れ出すため、イスラエル人とエジプトの王パロについて彼らに命令された。』
 モーセはイスラエル人でさえ反発するのにどうしてパロが説得されるのかと言っていますが、これはもっともなことでした。しかもモーセは『口べた』です。これでは尚のことパロがモーセに説得されるはずはありません。しかし、神はモーセを再びパロのもとに遣わされます。神もパロがモーセに聞こうとしないのを知っておられました。それどころか、神御自身がパロをモーセに対して頑なにされるぐらいでした(出エジプト記4:21)。それにもかかわらず、神はモーセがパロのもとへ行くように命じられます。モーセはパロが説得されることでイスラエル人を去らせるのだと思い込んでいました。つまり、モーセにとってパロが説得されない限り、イスラエル人がエジプトから去ることはありませんでした。しかし、神はパロがモーセを拒絶することで、イスラエル人がエジプトから去るようにさせるつもりでした。ですからモーセは拒絶されるためにパロのもとへ行かねばならなかったのです。見てください、神のやり方はこのようです。それは人間の考えとは違っています。何故なら、神の思いは人間の思いよりも遥かに高いからです(イザヤ55:9)。神は人間には理解し難いことを通して事柄が実現するようになさいます。

【6:14~19】
『彼らの父祖の家のかしらたちは次のとおりである。イスラエルの長子ルベンの子はエノク、パル、ヘツロン、カルミで、これらがルベン族である。シメオンの子はエムエル、ヤミン、オハデ、ヤキン、ツォハル、およびカナン人の女の子サウルで、これらがシメオン族である。レビの子の家系の名は、次のとおりである。ゲルション、ケハテ、メラリ。レビの一生は137年であった。ゲルションの子の諸氏族はリブニとシムイである。ケハテの子はアムラム、イツハル、ヘブロン、ウジエルである。ケハテの一生は133年であった。メラリの子はマフリとムシである。これらはレビ人の諸氏族の家系である。』
 この箇所ではルベンとシメオンとレビの家系が記録されています。しかし、イスラエルのうち、ここで書かれているのはこの3人の家系だけです。どうしてユダやゼブルンやイッサカルなど他の家系は書かれていないのでしょうか。これについてはよく分かりません。この箇所で書かれている3人の子たちについては、既に創世記46:9~11の箇所でも書かれていました。ここではレビの家系だけ孫以降の代についても記録されています。出エジプト記の中心人物であるモーセはレビ族でしたから、ここでレビの家系だけ詳しく書くのは話の流れに合致しています。また、ここではレビが『137年』生きたと書かれています。このことから、レビは殺人罪を犯したのに、死の罰を受けていなかったことが分かります。レビはイスラエルの重要な族長でしたから、神はレビに殺人の罰を免れさせたのかもしれません。何故なら、族長レビが死の罰を受けて悲惨になるのは、イスラエルにとって恥辱となりかねないからです。しかし、神はレビの殺人罪に対する罰を、その子孫たちにしっかりと受けさせられました。そのためレビ族の人々は呪われて自前の土地を持てなくなり、イスラエルの全体に散らされることとなりました(創世記49:7)。この箇所でイスラエルの頭たちは、ルベンにおいては4人、シメオンにおいては6人、レビにおいては3人記されています。レビの子である『ゲルション』は、モーセが自分の子に付けた名前でもあります(出エジプト記2:22)。このゲルションはモーセの祖父の兄です。

【6:20】
『アムラムは父の妹ヨケベテを妻にめとり、彼女はアロンとモーセを産んだ。アムラムの一生は137年であった。』
 ここではモーセの父『アムラム』が出てきますが、彼はレビの孫です。つまり、モーセはレビの曾孫だったことが分かります。モーセはレビからそれほど離れた代ではなかったのです。モーセの父アムラムは自分の叔母と結婚しました。これは律法で禁止されている結婚です(レビ記18:12、20:19~20)。この時はまだ律法が公布されていなかったので、このような近親婚をするユダヤ人は珍しくなかった可能性があります。このアムラムがモーセとアロンを産んだ年齢は分かりません。ですから、アムラムが『137』歳で死んだ時、モーセとアロンが何歳だったのかも分かりません。

【6:21~25】
『イツハルの子はコラ、ネフェグ、ジクリである。ウジエルの子はミシャエル、エルツァファン、シテリである。アロンは、アミナダブの娘でナフションの妹であるエリシェバを妻にめとり、彼女はナダブとアビフ、エルアザルとイタマルを産んだ。コラの子はアシル、エルカナ、アビアサフで、これらはコラ族である。アロンの子エルアザルは、プティエルの娘のひとりを妻にめとり、彼女はピネハスを産んだ。これらはレビ人の諸氏族の一族のかしらたちである。』
 更に続けてレビの家系が詳しく記録されています。出エジプト記はレビ族のモーセを主人公として話が進んで行きますから、ここでレビの家系が詳しく書かれているのは意味のないことではありません。この箇所では、後の箇所にも出てくるコラやエルアザルやピネハスといった特筆すべき人物が記されています。

【6:26~27】
『主が「イスラエル人を集団ごとにエジプトの地から連れ出せ。」と仰せられたのは、このアロンとモーセにである。エジプトの王パロに向かって、イスラエル人をエジプトから連れ出すようにと言ったのは、このモーセとアロンであった。』
 神はこのレビ族モーセとアロンをイスラエル解放の使者また指導者として立てられました。この2人は、ルターと同じで、本当に神から遣わされた使いでした。この2人はヒトラーとは違いました。ヒトラーもドイツを救うために神から遣わされた使徒であると言われ、ドイツ人はヒトラーに熱狂しましたが、この者は神がドイツに与えられた呪いです。ですからヒトラー率いるドイツは最後には敗北したのです。しかし、モーセとアロンは神がイスラエル人に与えられた祝福でした。だからこそ、イスラエル人はこの2人を通してエジプトから救われることになったのでした。

【6:28~7:6】
『主がエジプトの地でモーセに告げられたときに、主はモーセに告げて仰せられた。「わたしは主である。わたしがあなたに話すことを、みな、エジプトの王パロに告げよ。」しかしモーセは主の前に申し上げた。「ご覧ください。私は口べたです。どうしてパロが私の言うことを聞くでしょう。」主はモーセに仰せられた。「見よ。わたしはあなたをパロに対して神とし、あなたの兄アロンはあなたの預言者となる。あなたはわたしの命じることを、みな、告げなければならない。あなたの兄アロンはパロに、イスラエル人をその国から出て行かせるようにと告げなければならない。わたしはパロの心をかたくなにし、わたしのしるしと不思議をエジプトの地で多く行なおう。パロがあなたがたの言うことを聞き入れないなら、わたしは、手をエジプトの上に置き、大きなさばきによって、わたしの集団、わたしの民イスラエル人をエジプトの地から連れ出す。わたしが手をエジプトの上に伸ばし、イスラエル人を彼らの真中から連れ出すとき、エジプトはわたしが主であることを知るようになる。」そこでモーセとアロンはそうした。主が彼に命じられたとおりにした。』
 この箇所では、既に書かれた出来事が再び書かれています。それは出エジプトの始まりの時のことです。昔からよく言われる通り、始めは重要な時期です。そのため、ここでは出エジプトの始まりの出来事が再び書かれているのかもしれません。つまり、その出来事は非常に重要なので、それを再び書いて読者に強く認識させようとしているということです。なお、この出来事が起きたのはだいたい紀元前1300年ぐらいのことです。

 ここではユダヤ人がエジプトの『真中から』連れ出されると言われています。これは既に述べた通り、ユダヤのうちには神がおられたからです。また、ここではユダヤが去る時に『エジプトはわたしが主であることを知るようになる。』と言われています。これは、出エジプトの際に起きた諸々の奇跡と不思議により、エジプト人たちがユダヤの神ヤハウェこそ真の神だと感じるようになる、という意味です。何故なら、大いなる御業を何回も行なうような存在は、本当の神であるとしか理解し得ないだろうからです。一体、真の神でなければどうして多くの御業を行なえるでしょうか。確かに神が言われた通り、ユダヤがエジプトを出る際には、多くのエジプト人が多かれ少なかれヤハウェ神こそ真の神だと思いました。ですから、ユダヤがエジプトを出る際には、多くのエジプト人たちもユダヤ人の集団に付いて行ったのです(出エジプト記12:38)。ユダヤの神が真の神であると知ったならば、エジプト人が去って行くユダヤ人に付いて行ったとしても不思議なことはありません。何故なら、神と神がそのうちにおられる民に付き従うのは理に適ったことだからです。悪者集団に付いて行くのは良くありませんが、神の聖なる集団に付いて行くということほど良いことがあるでしょうか。

【7:7】
『彼らがパロに語ったとき、モーセは80歳、アロンは83歳であった。』
 アロンはモーセより3歳年上です。この2人の兄弟がパロに語ったのは80代になってからでした。普通に考えて、80代の老人が大事業を企てるというのはありそうもないことです。しかし、神は既に老いていたこの2人にユダヤ救出という偉大な仕事を行なわせられました。これが人間だったら若い者に任せていたかもしれません。今でも高齢の社長が若い幹部に社長職を譲るというのは珍しくありません。しかし、神は老人を選ばれたのです。このように神のなさることは人間とは違っています。ですから人間は神の御心が理解できないのです。私たちも神であれば神のなさることをよく理解できたでしょう。しかし私たちは矮小で惨めな塵また灰に過ぎません。

【7:8~10】
『また主はモーセとアロンに仰せられた。「パロがあなたがたに、『おまえたちの不思議を行なえ。』と言うとき、あなたはアロンに、『その杖を取って、パロの前に投げよ。』と言わなければならない。それは蛇になる。」モーセとアロンはパロのところに行き、主が命じられたとおりに行なった。アロンが自分の杖をパロとその家臣たちの前に投げたとき、それは蛇になった。』
 パロの前で最初に行なわれたのは杖または蛇の奇跡でした。注意しなければいけないのは、実際にはアロンが杖を投げたということです。アロンはモーセの代わりに語っていましたが、奇跡もモーセの代わりに行なったのです。私たちの中で、モーセが杖を投げたとイメージしている人は少なくないかもしれません。しかし、モーセはアロンに命じるだけで何もしていませんでした。神はこのような奇跡をパロに見せることで、パロがユダヤを去らせるように働きかけられました。このような奇跡を見せられたら、モーセとアロンは本当に神に会ったということが確証されるからです。つまり、神に会ったからこそこのような奇跡が行なえるということです。ですから、これは証拠としての奇跡でした。

【7:11~12】
『そこで、パロも知恵のある者と呪術者を呼び寄せた。これらのエジプトの呪法師たちもまた彼らの秘術を使って、同じことをした。彼らがめいめい自分の杖を投げると、それが蛇になった。しかしアロンの杖は彼らの杖をのみこんだ。』
 パロも呪術者たちを呼んでアロンと同じことをさせました。これはパロがモーセとアロンを受け入れたくなかったからです。「我々もそのぐらいのことはできる。」とでもパロは言いたかったのでしょう。パロが呪術者と一緒に呼んだ『知恵のある者』とは学者、哲学者だと考えられます。アロンとは違い、呪術者たちのほうは、単なるトリックによりました。テレビに出てくる凄いマジシャンでもあるかのように杖を蛇に変えたと思われます。今では身体を半分に分割して上半身で下半身を持つ驚くべきマジックがあるぐらいですから、杖を蛇に変えるぐらい訳は無かったでしょう。ところが『アロンの杖は彼らの杖をのみこん』でしまいました。恐らく、スポンジが水を吸収するかのように、アロンの杖が呪術者たちの杖を吸収したのでしょう。流石の呪術者たちもこの奇跡は真似できませんでした。

【7:13】
『それでもパロの心はかたくなになり、彼らの言うことを聞き入れなかった。主が仰せられたとおりである。』
 このような奇跡を見せられたのにパロの心は頑なになりました。これは『主が仰せられたとおり』であって、神がそうなるよう働きかけられたのです。それは、神が更に多くの奇跡をエジプトの中で行なうためでした。パロが妥協したり従順になれば、その時点で、もはや神の奇跡が為される必要はなくなってしまうのです。そうすれば神の栄光も現わされなくなります。

【7:14~18】
『主はモーセに仰せられた。「パロの心は強情で、民を行かせることを拒んでいる。あなたは朝、パロのところへ行け。見よ。彼は水のところに出て来る。あなたはナイルの岸に立って彼を迎えよ。そして、蛇に変わったあの杖を手に取って、彼に言わなければならない。ヘブル人の神、主が私をあなたに遣わして仰せられます。『わたしの民を行かせ、彼らに、荒野でわたしに仕えさせよ。』ああ、しかし、あなたは今までお聞きになりませんでした。主はこう仰せられます。『あなたは、次のことによって、わたしが主であることを知るようになる。』ご覧ください。私は手に持っている杖でナイルの水を打ちます。水は血に変わり、ナイルの魚は死に、ナイルは臭くなり、エジプト人はナイルの水をもう飲むことを忌みきらうようになります。」』
 パロが杖または蛇の奇跡によりモーセとアロンを受け入れなかったので、神は続いてナイルの奇跡を行なわれます。それは、エジプトの中で再び神の栄光が現わされるためでした。もしパロが杖の変化を見てユダヤ人を去らせていたとすれば、もうそれ以上の奇跡は必要なくなっていたでしょうから、それ以上神の栄光が現わされることもなかったでしょう。神はナイルの水を血に変えようとしておられます。すると、ナイルの魚が死ぬので、ナイルが悪臭を放つようになります。エジプト人はもはや血と化したナイルの水を飲むことができません。神はこの奇跡を見たパロが、神こそ『主であることを知るようになる。』と言っておられます。これはこのような奇跡を行なえるのが真の神以外にはいないからです。ですから、この奇跡を見たパロの心には「ユダヤの神ヤハウェこそが真の神なのだ。」という思いが多かれ少なかれ生じたはずです。このような奇跡は誠に恐ろしいと言わねばなりません。神はこの奇跡によりパロを恐れさせることで、パロがユダヤをエジプトから去らせるように働きかけられました。恐れるならば神の言われる通りにせざるを得なくなるだろうからです。

【7:19~21】
『主はまたモーセに仰せられた。「あなたはアロンに言え。あなたの杖を取り、手をエジプトの水の上、その川、流れ、池、その他すべて水の集まっている所の上に差し伸ばしなさい。そうすれば、それは血となる。また、エジプト全土にわたって、木の器や石の器にも、血があるようになる。」モーセとアロンは主が命じられたとおりに行なった。彼はパロとその家臣の目の前で杖を上げ、ナイルの水を打った。すると、ナイルの水はことごとく血に変わった。ナイルの魚は死に、ナイルは臭くなり、エジプト人はナイルの水を飲むことができなくなった。エジプト全土にわたって血があった。』
 早速、ナイルの奇跡がパロの前で行なわれました。これはマジックショーのようにして行なわれたわけではありません。神が水の粒子を血の粒子へと変化させられたのです。これは超自然的な神の介入であって、科学を越えていますから、科学的に説明することはできません。科学が取り扱えるのは自然現象だけです。主は人となって来られた時にも液体変化の奇跡を行なわれました(ヨハネ2:1~11)。血はナイルだけでなく『エジプト全土にわたって、木の器や石の器にもあるように』なりました。つまり、神は一般大衆の間でも奇跡を行なわれました。これは一般人も恐れることで、エジプト全土がユダヤを追い出すようにさせるためです。神は何としてもユダヤをエジプトから連れ去ろうとしておられました。だからこそ一般の人々にもこの奇跡を及ぼされたのです。

 やはり、この奇跡もモーセが命じ、アロンが行ないました。私たちの意識はどうしてもモーセに向かいがちですから、モーセがこの奇跡を行なったとイメージしてしまう人もいるはずだと思われます。特に聖書をよく読み込んでいない人にそのような傾向があるはずです。しかし聖書を見ると、モーセは命令するだけで実際に何もしていなかったことが分かります。

【7:22~23】
『しかしエジプトの呪法師たちも彼らの秘術を使って同じことをした。それで、パロの心はかたくなになり、彼らの言うことを聞こうとはしなかった。主の言われたとおりである。パロは身を返して自分の家にはいり、これに心を留めなかった。』
 驚くべきことに、パロの呪法師たちも同じことをしてみせました。しかし、呪法師たちのほうは前の場合と同様、やはりトリックを使ったのでしょう。恐らく、大量の血か赤い液体を用意したのだと思われます。何故なら、そうでもしなければどうしてナイルを赤く染められるでしょうか。このためパロは再び心を頑なにし、モーセとアロンを受け入れようとはしませんでした。「そんなことであれば我々にだって出来る。」という精神状態になったからです。しかし、このようにしてパロが頑なになることこそ神の御心でした。それは、神がこれからもまだ奇跡をパロの前で行なおうとしておられたからです。ところで、この呪法師たちは悪霊によりナイルを赤くしたと考える人がいるかもしれません。この考えは退けられます。というのも、聖書の他の箇所で、悪霊どもが大いなる奇跡を実現させたと書かれている箇所は見られないからです。すなわち、悪霊どもは神のようにして奇跡を行なえないはずです。悪霊が人や動物に入って滅茶滅茶にさせたということであれば聖書には書かれていますが、これは奇跡とは言えません。呪法師たちはトリックを使ったと考えるのが自然でしょう。エジプトはミイラ技術に長けていたのですから、ナイルを赤くすることぐらい訳は無かったとすべきでしょう。

【7:24~25】
『全エジプトは飲み水を求めて、ナイルのあたりを掘った。彼らはナイルの水を飲むことができなかったからである。主がナイルを打たれてから7日が満ちた。』
 全てのエジプト人がナイルから水を得られなくなったので、エジプト人は井戸を掘りました。その井戸掘りが上手に行ったかどうかは分かりません。神はナイルの奇跡が行なわれてから次の奇跡が行なわれるまで『7日』の期間を空けられました。これは「7」ですから、その期間における十全性を示しています。つまり、次の奇跡が行なわれるまでに十分な間隔が設けられたということです。

【8:1~6】
『主はモーセに仰せられた。「パロのもとに行って言え。主はこう仰せられます。『わたしの民を行かせ、彼らにわたしに仕えるようにせよ。もし、あなたが行かせることを拒むなら、見よ、わたしは、あなたの全領土を、かえるをもって、打つ。かえるがナイルに群がり、上って来て、あなたの家にはいる。あなたの寝室に、あなたの寝台に、あなたの家臣の家に、あなたの民の中に、あなたのかまどに、あなたのこね鉢に、はいる。こうしてかえるは、あなたとあなたの民とあなたのすべての家臣の上に、はい上がる。』」主はモーセに仰せられた。「アロンに言え。あなたの手に杖を持ち、川の上、流れの上、池の上に差し伸ばし、かえるをエジプトの地に、はい上がらせなさい。」アロンが手をエジプトの水の上に差し伸ばすと、かえるがはい上がって、エジプトの地をおおった。』
 続いて行なわれる奇跡は、カエルがエジプト全土に溢れるということでした。大量のカエルを好ましく思う人は恐らくいないと思われます。カエルだらけになったエジプト人たちは吐き気を感じたはずです。この大量のカエルは「早くユダヤをエジプトから去らせよ。」という神の恐るべきメッセ―ジでした。これは、アメリカがどこかの国に経済制裁を与えて、何かを止めさせようとするのと似ています。神に服従しようとしないからこそ、エジプトにはこのような悲惨が与えられたのです。神に従わない人たちには災いがあります。

 このカエルの奇跡も、やはり行なったのはアロンでした。多分、神はモーセにでなくアロンに語らせたり行なわせることで、アロンが神の前ではより高い位置に置かれていたモーセに不満を持たないようにされたのかもしれません。何故なら、実際にはアロンが喋ったり奇跡をするのであれば、アロンはモーセに次ぐ2番目の立場だったとしても満足するだろうからです。もしモーセが語ったり行なったりしていたとすれば、アロンは不満を感じていたかもしれません。その場合、アロンはモーセに従属するただの付随物のようでしかなくなるからです。まともな役割を与えられないので不満に思う副官や部下は歴史の中で少なからず見られます。アロンはモーセにとって副官のようでした。要するに、神は弟の次に位置させられる兄というアロンの状態を考慮して下さったのかもしれません。何故なら、弟に完全に従属させられるというのは兄にとって耐え難いことだろうからです。

【8:7】
『呪法師たちも彼らの秘術を使って、同じようにかえるをエジプトの地の上に、はい上がらせた。』
 またもや呪法師たちもアロンと同じようにしました。これもやはりトリックを使ったはずです。可能性として高いのは、神により溢れた大量のカエルを呪法師たちが集め、それをパロの前で巧みにばら撒いたということです。何故なら、こうでもしなければどうしてエジプトにカエルを溢れさせることができるでしょうか。魔術師やオカルトマニアの人であれば、この呪法師たちは本当に魔術を使ってカエルを溢れさせたと思うかもしれません。しかし、これはトリックによったとするのが自然でしょう。もっとも、カエルをばら撒く際に、彼らが儀式的な振る舞いをしたということであれば可能性としてかなりありそうなことではありますが。それにしても、この呪法師たちは大変に迷惑なことをしたものです。神の場合はエジプトに対する威嚇をされたのですから、何も問題はありませんでした。しかし、呪法師たちは神に対抗せんがため同胞にカエルの害を齎したのでした。迷惑千万とはこのことです。

【8:8~14】
『パロはモーセとアロンを呼び寄せて言った。「かえるを私と私の民のところから除くように、主に祈れ。そうすれば、私はこの民を行かせる。彼らは主にいけにえをささげることができる。」モーセはパロに言った。「かえるがあなたとあなたの家から断ち切られ、ナイルにだけ残るように、あなたと、あなたの家臣と、あなたの民のために、私がいつ祈ったらよいのか、どうぞ言いつけてください。」パロが「あす。」と言ったので、モーセは言った。「あなたのことばどおりになりますように。私たちの神、主のような方はほかにいないことを、あなたが知るためです。かえるは、あなたとあなたの家とあなたの家臣と、あなたの民から離れて、ナイルにだけ残りましょう。」こうしてモーセとアロンはパロのところから出て来た。モーセは、自分がパロに約束したかえるのことについて、主に叫んだ。主はモーセのことばどおりにされたので、かえるは家と庭と畑から死に絶えた。人々はそれらを山また山と積み上げたので、地は臭くなった。』
 カエルを除くようパロから言われたモーセが祈ったところ、神はカエルを滅ぼして下さいましたが、カエルの死体が積み重ねられたのでエジプトは腐臭だらけになりました。モーセが神にカエルを除くよう祈ったのは、もし祈るならばユダヤ人は神に生贄を捧げてもよいとパロが言ったからです。ですから、モーセは「そういうことであれば。」と思って祈ったのです。もしパロがモーセとアロンに応じる気持ちをここで見せていなければ、モーセが神に祈っていたかどうかは分かりません。

【8:15】
『ところが、パロは息つく暇のできたのを見て、強情になり、彼らの言うことを聞き入れなかった。主の言われたとおりである。』
 またもやパロは頑なになりモーセとアロンを受け入れませんでした。この時期に起きている出来事を知っていたユダヤの民は、どうして神が速やかに御民を連れ出して下さらないのか不思議に思っていたかもしれません。神は明らかにじっくり事を為しておられたからです。しかし神にとってはこれで良かったのです。何故なら、神は一切を御自身の栄光のために行なわれるのですから。このようにしてパロが頑なになり、なかなかユダヤがエジプトから去れないという状況であるからこそ、何度も行なわれる御業を通して神の栄光が大いに現われるようになるのです。

【8:16~17】
『主はモーセに仰せられた。「アロンに言え。あなたの杖を差し伸ばして、地のちりを打て。そうすれば、それはエジプトの全土で、ぶよとなろう。」そこで彼らはそのように行なった。アロンは手を差し伸ばして、杖で地のちりを打った。すると、ぶよは人や獣についた。地のちりはみな、エジプト全土で、ぶよとなった。』
 次はエジプトの塵がブヨになるという奇跡です。ここでは『みな』塵がブヨになったと書かれています。エジプトにある全ての塵がブヨとなったのです。この現象は完全に科学を越えています。このような現象が一般的に起きていれば科学できます。しかし、これは非常な例外的ケースです。それゆえ、この現象について科学的なことは何も言えません。このような奇跡を為されるところに、神の本気度が現われています。神はもう本当にユダヤをエジプトから連れ出そうとしておられました。ですから、このように強烈なことをエジプトの中で行なわれたのです。

 ここで書かれている通り、この奇跡もやはりアロンの手により行なわれました。

【8:18~19】
『呪法師たちもぶよを出そうと、彼らの秘術を使って同じようにしたが、できなかった。ぶよは人や獣についた。そこで、呪法師たちはパロに、「これは神の指です。」と言った。しかしパロの心はかたくなになり、彼らの言うことを聞き入れなかった。主の言われたとおりである。』
 今度の奇跡は呪法師たちに真似できませんでした。これは、先の3つの真似事、すなわち杖とナイルとカエルの奇跡に対抗した真似事が、ただのマジックショーに過ぎなかったことを意味しています。杖を蛇に変えるぐらいならばマジックで出来るでしょう。ナイルの水を赤くするのも、カエルを溢れさせるのもそうです。しかし、ブヨを溢れさせるのはマジックでは出来ないはずです。ですから呪法師たちは、このブヨの奇跡が神によることを認め、『これは神の指です。』と言いました。これはあたかも人が指で何かをするかのように神が奇跡を起こしておられるという意味です。

 このブヨの奇跡を見てもパロはモーセとアロンを受け入れませんでした。パロもこのブヨの奇跡が神によることを悟っていたはずです。しかしパロは心を頑なにさせました。パロはどうしても貴重な財産であるユダヤ人という奴隷を失いたくありませんでした。だからこそ、神の働きを感じたにもかかわらず、モーセとアロンに応じようとしなかったのです。このような頑なさは罪です。

【8:20~24】
『主はモーセに仰せられた。「あしたの朝早く、パロの前に出よ。見よ。彼は水のところに出て来る。彼にこう言え。主はこう仰せられます。『わたしの民を行かせ、彼らをわたしに仕えさせよ。もしあなたがわたしの民を行かせないなら、さあ、わたしは、あぶの群れを、あなたとあなたの家臣とあなたの民の中に、またあなたの家の中に放つ。エジプトの家々も、彼らがいる土地も、あぶの群れで満ちる。わたしはその日、わたしの民がとどまっているゴシェンの地を特別に扱い、そこには、あぶの群れがいないようにする。それは主であるわたしが、その地の真中にいることを、あなたが知るためである。わたしは、わたしの民とあなたの民との間を区別して、救いを置く。あす、このしるしが起こる。』」主がそのようにされたので、おびただしいあぶの群れが、パロの家とその家臣の家とにはいって来た。エジプトの全土にわたり、地はあぶの群れによって荒れ果てた。』
 神が次に為されたのはアブの奇跡です。これは実に強烈です。この奇跡における驚異性から神の本気度がどれだけなのか感じ取れます。ここで書かれている通り、このアブはエジプト全土に満ちました。聖書はこのアブによりエジプトが『荒れ果てた』と言っています。これはアブが人を刺し、大きな騒ぎと悲鳴が生じ、作物なども滅茶苦茶にされたということなのだと思われます。この奇跡も呪法師たちには真似できませんでした。ブヨでさえ真似できなかったのですから、尚のことアブは真似できません。ブヨの体長は2~4mmぐらいですが、アブは23~29mmぐらいあるからです。

 この時に神は、ユダヤ人のいたゴシェンの地だけは、アブを生じさせたり飛んで行かせたりさせませんでした。これは神がユダヤ人を特別視しているとパロに分からせるためでした。本当に神がユダヤ人を心にかけておられると分かったならば、流石にパロもユダヤ人を去らせる気持ちになるだろうからです。この箇所では、ユダヤの住んでいるゴシェンの地こそエジプトにおける『真中』だと言われています。これはユダヤの神ヤハウェが万物の中心だからです。神のおられるところが、この世界の中心地です。現在、神はキリスト者という神殿のうちに住んでおられます。ですから、聖書から言えば、この世界の中心はキリスト者です。今でもエルサレムが世界の中心であると考えるならば、それは誤っています。何故なら、今のエルサレムにはもう神の神殿がないからです。中国人が中国こそ世界の中心だと考えるのも誤っています(「中華人民共和国」という国名における「中華」とは<世界の中心に位置する最も華やかな文明>という意味です)。何故なら、神は国にではなくキリスト者という人間のうちに住んでおられるからです。スイスのジュネーヴがプロテスタントの中心地だと言われたのも霊的な意味では誤っていました。何故なら、万物の中心であられる神は、世界中にいるプロテスタント教徒一人一人のうちにおられたのですから。それゆえ、プロテスタントの中心地はプロテスタント教徒個々人のうちにあるのです。

【8:25~27】
『パロはモーセとアロンを呼び寄せて言った。「さあ、この国内でおまえたちの神にいけにえをささげよ。」モーセは答えた。「そうすることは、とてもできません。なぜなら私たちは、私たちの神、主に、エジプト人の忌みきらうものを、いけにえとしてささげるからです。もし私たちがエジプト人の目の前で、その忌みきらうものを、いけにえとしてささげるなら、彼らは私たちを石で打ち殺しはしないでしょうか。それで私たちは荒野に三日の道のりの旅をして、私たちの神、主にいけにえをささげなければなりません。これは、主が私たちにお命じになることです。」』
 アブの災いにパロは参らされていたはずです。ですから、パロは忍耐できなくなって神に生贄を捧げてもよいと言いました。ただし、それはエジプトから出ず『国内』において、という条件が付けられました。パロは何としてもユダヤ人を所有しておきたいと思っていました。そのためユダヤ人の逃亡を心配したのです。国内で生贄を捧げさせれば逃亡の心配もありませんから。

 パロが出した条件付きの許可に対しモーセは『そうすることは、とてもできません。』と言います。何故なら、ユダヤ人たちは『エジプト人の忌みきらうものを、いけにえとしてささげる』ので、エジプト人の目に入る場所で生贄を捧げれば殺されかねないからです。この『エジプト人の忌みきらうもの』とは、羊のことです。創世記46:34の箇所でヨセフが『羊を飼う者はすべて、エジプト人に忌みきらわれている』と言っているからです。エジプト人が羊飼いを忌み嫌っていたということは、エジプト人が羊を忌み嫌っていたということです。エジプト人が尊重したり崇めたりしていたのは、猫やフンコロガシやワニです。猫はエジプト人にとって「神」でした。しかし、羊はエジプト人のお好みではありませんでした。もしユダヤ人がエジプトの国内で羊を捧げていれば、モーセが心配した通り、本当にユダヤ人は打ち殺されていたかもしれません。外国人に厳しい古代エジプト人であれば、そういったことをするだろうからです。

【8:28~31】
『パロは言った。「私はおまえたちを行かせよう。おまえたちは荒野でおまえたちの神、主にいけにえをささげるがよい。ただ、決して遠くへ行ってはならない。私のために祈ってくれ。」モーセは言った。「それでは、私はあなたのところから出て行きます。私は主に祈ります。あす、あぶが、パロとその家臣とその民から離れます。ただ、パロは、重ねて欺かないようにしてください。民が主にいけにえをささげに行けないようにしないでください。」モーセはパロのところから出て行って主に祈った。主はモーセの願ったとおりにされたので、あぶはパロとその家臣およびその民から離れた。一匹も残らなかった。』
 遂にパロはモーセとアロンに応じました。すなわち、もし祈ってアブの群れを除いてくれるのであれば荒野で生贄を捧げてもよい、と許可しました。これはつまり交渉です。パロは、悲惨の除去と引き替えにモーセとアロンの願いを承諾したのです。しかし、パロは荒野に行く条件として『決して遠くへ行ってはならない。』と付け加えます。パロはどのようなことがあってもユダヤをエジプトから去らせたくなかったのです。パロは恐らくユダヤ人が遠くへ行ったまま逃げてしまうのを恐れたのでしょう。というのも、壮年男子だけでも60万人もいるユダヤ人はパロにとって大事な国家的財産だったのですから。このような多くの働き手をやすやすと手放すほどパロは寛大ではありませんでした。

 モーセが遂に荒野へ行けると期待しつつ祈ったところ、神はエジプトからアブの群れを除いて下さいました。これはパロが神とモーセたちに応じたからです。ところで、神はどのようにして大量のアブを除いて下さったのでしょうか。これは聖書に書かれていないので分かりません。アブの嫌いな天候を生じさせられたのかもしれませんし、アブの天敵を活発にさせられたのかもしれませんし、神の御手が直接アブの群れを遠くへ追いやったのかもしれません。

【8:32】
『しかし、パロはこのときも強情になり、民を行かせなかった。』
 パロが心を頑なにさせたのはこれで5度目です。このパロのように、心を低くさせない人は、どのようにしても心を低くさせることがありません。パロもそうでしたが、強情な人は一時的に心を柔軟にさせたかに見えることもあるかもしれません。しかし、それは一時的に過ぎず、バネが元に戻るようにしてやがて元の状態に戻ってしまいます。このようなバネのごとき人は、やがて燃えないゴミとして永遠の地獄に捨てられるのです。その時、消えない火が燃えないバネを容赦なく焼き焦がします。しかし、そうなったのは心を強情にさせた当人の自業自得なのです。パロも今頃、強情なバネとして地獄の業火で焼かれているでしょう。

【9:1~7】
『主はモーセに仰せられた。「パロのところに行って、彼に言え。ヘブル人の神、主はこう仰せられます。『わたしの民を行かせて、彼らをわたしに仕えさせよ。もしあなたが、行かせることを拒み、なおも彼らをとどめておくなら、見よ、主の手は、野にいるあなたの家畜、馬、ろば、らくだ、牛、羊の上に下り、非常に激しい疫病が起こる。しかし主は、イスラエルの家畜とエジプトの家畜とを区別する。それでイスラエル人の家畜は一頭も死なない。』」また、主は時を定めて、仰せられた。「あす、主はこの国でこのことを行なう。」主は翌日このことをされたので、エジプトの家畜はことごとく死に、イスラエル人の家畜は一頭も死ななかった。パロは使いをやった。すると、イスラエル人の家畜は一頭も死んでいなかった。』
 続いて神はエジプト人の家畜を『非常に激しい疫病』で滅ぼされました。エジプトの家畜は『ことごとく』死に絶えました。これはパロとエジプト人全てが恐れを抱き、エジプト全体がユダヤを去らせるようにするためです。この『非常に激しい疫病』が何だったのかは分かりません。ただこれは動物にだけ感染する疫病だったようです。何故なら、この箇所では人の害について何も書かれていないからです。この時のエジプト人たちは、疫病が神から下されたことについて、ユダヤとその神に怒りや憎しみを持たなかったと思われます。むしろ、彼らはこの時に「悲しみ」や「恐れ」を持ったと推測されます。

 この時も神はユダヤ人だけを区別して特別扱いされました。これは神がユダヤ人に強く働きかけておられることを、エジプト人たちがよく知るためです。これは正に「選民」と呼ぶに相応しい取り扱いです。神は紀元1世紀の患難の際にも、御自身の民である聖徒たちを特別視して守られました。黙示録3:10の箇所に書かれている通りです。このようなユダヤ人に対し、エジプト人たちは全く守られませんでした。それはエジプト人たちが神の民ではなく、神の選民をいつまで経っても去らせようとしないからです。

【9:7】
『それでも、パロの心は強情で、民を行かせなかった。』
 パロはまたもや頑なになりました。ユダヤを行かせなかったのはこれで6度目です。読者の中で、いつまでパロはユダヤを行かせないつもりなのか、と思う人がいるかもしれません。パロの家臣にも、ユダヤ人を早く去らせたほうがエジプトにとって良いのではないか、と感じる人がいたはずです。しかし、神はまだパロを強情にさせ続けられました。それは、より多くの御業が行なわれることにより、更に神の栄光が現わされるためでした。

【9:8~11】
『主はモーセとアロンに仰せられた。「あなたがたは、かまどのすすを両手いっぱいに取れ。モーセはパロの前で、それを天に向けてまき散らせ。それがエジプト全土にわたって、細かいほこりとなると、エジプト全土の人と獣につき、うみの出る腫物となる。」それで、彼らはかまどのすすを取ってパロの前に立ち、モーセはそれを天に向けてまき散らした。すると、それは人と獣につき、うみの出る腫物となった。呪法師たちは、腫物のためにモーセの前に立つことができなかった。腫物が呪法師たちとすべてのエジプト人にできたからである。』
 次に神は、モーセに煤を取らせ、それがエジプト人の身体で腫物となるようにされました。これはこれまでの奇跡よりも強烈だったでしょう。今度はエジプト人の身体に深刻な害が齎されたのですから。この奇跡によりエジプト全体で騒ぎが起こったことは容易に想像できます。このようにすることで、神はエジプト人たちを急かしておられるようです。「いつまで私の民ユダヤを去らせないつもりなのか!」と。この腫物がどのような類の腫物だったかは分かりません。しかし、そのようなことは別に知らなくても問題ありません。ただ悲惨な腫物がエジプト人の身体に生じたということを知っているのであれば。さて、ここまでの流れを見ると、神の奇跡はその悲惨さにおいてエスカレートしていることが分かります。実は大きくなり、子供の身体は成長し、何かの技術は時間と共に上昇するものです。神からの災いもその通りです。

 今度もやはり呪法師たちにモーセたちの真似はできませんでした。それどころか呪法師たちはモーセの前に立つことさえできませんでした。これは呪法師たちが完全に敗北したことを意味しています。

 今度の奇跡はモーセが実際に行なったようです。神はこの奇跡をモーセがするように求められました。しかし、8節目では『<あなたがた>は、かまどのすすを両手いっぱいに取れ』と書かれており、10節目でも『<彼ら>はかまどのすすを取って』と書かれていますから、アロンもモーセと一緒に煤をまき散らしていました。