【出エジプト記9:12~12:21】(2021/09/12)


【9:12】
『しかし、主はパロの心をかたくなにされ、彼はふたりの言うことを聞き入れなかった。主がモーセに言われたとおりである。』
 パロの心が強情になったのはこれで7度目です。駄目な人は何を言われても何を行なわれても駄目なのです。例えば、ネロに1000度福音を宣べ伝えたとしてもネロは心を変えようとしなかったはずです。アインシュタインもそうでした。アイドル的に人気だったアインシュタインのところには多くの手紙が送られており、主イエスを信じるようにと勧める手紙をアインシュタインは何度も受け取りましたが、彼はずっと信じないでいたのです。このように頑なな人はいつまで経っても頑ななままです。それは、その人が高慢であって、神の前に低くなろうとしないからです。

【9:13~21】
『主はモーセに仰せられた。「あしたの朝早くパロの前に立ち、彼らに言え。ヘブル人の神、主はこう仰せられます。『わたしの民を行かせ、彼らをわたしに仕えさせよ。今度は、わたしは、あなたとあなたの家臣とあなたの民とに、わたしのすべての災害を送る。わたしのような者は地のどこにもいないことを、あなたに知らせるためである。わたしが今、手を伸ばして、あなたとあなたの民を疫病で打つなら、あなたは地から消し去られる。それにもかかわらず、わたしは、わたしの力をあなたに示すためにあなたを立てておく。また、わたしの名を全地に告げ知らせるためである。あなたはまだわたしの民に対して高ぶっており、彼らを行かせようとしない。さあ、今度は、あすの今ごろ、エジプトにおいて建国の日以来、今までになかったきわめて激しい雹をわたしは降らせる。それゆえ、今すぐ使いをやり、あなたの家畜、あなたが持っている野にあるすべてのものを避難させよ。野にいて家へ連れ戻すことのできない人や獣はみな雹が落ちて来ると死んでしまう。』」パロの家臣のうちで主のことばを恐れた者は、しもべたちと家畜を家に避難させた。しかし、主のことばを心に留めなかった者は、しもべたちや家畜をそのまま野に残した。』
 続いて神は雹の災いをエジプト全土に下されます。またも悲惨の度合いがエスカレートしています。何故なら、今度は実際に人が死んでしまうからです。これまでの悲惨においては人が死ぬということはありませんでした。確かに死の悲惨はありましたが、それは獣だけが死ぬということでした。神がこのような悲惨を下されるのは、『わたしのような者は地のどこにもいないことを、あなたに知らせるため』でした。つまり、パロがヤハウェこそ真の神であられ大いなる神であられると知るためでした。神は御自身についてパロが悟るように働きかけておられます。それは神が絶対に認められて当然の存在であられるからです。

 この時、主の言葉を恐れた家臣は対処しましたが、恐れなかった家臣は何もしませんでした。前者は利口であり、後者は愚かでした。何故なら、神とその言葉を恐れるということほど利口なことは他にないからです。『主を恐れることは、知恵の初め。』(詩篇111:10)と書かれている通りです。これに対し、神を恐れないということほど愚かなことはありません。聖書は、そのような人が腐っていると教えています(詩篇14:1)。

 神はこのような悲惨の中にあって、パロが生きたままでいるのを望まれました。それはパロが神の御業の目撃者となり、神の御力がパロに対して示されるためでした。

【9:22~26】
『そこで主はモーセに仰せられた。「あなたの手を天に向けて差し伸ばせ。そうすれば、エジプト全土にわたって、人、獣、またエジプトの地のすべての野の草の上に雹が降る。」モーセが杖を天に向けて差し伸ばすと、主は雷と雹を送り、火が地に向かって走った。主はエジプトの国に雹を降らせた。雹が降り、雹のただ中を火がひらめき渡った。建国以来エジプトの国中どこにもそのようなことのなかった、きわめて激しいものであった。雹はエジプト全土にわたって、人をはじめ獣に至るまで、野にいるすべてのものを打ち、また野の草をみな打った。野の木もことごとく打ち砕いた。ただ、イスラエル人が住むゴシェンの地には、雹は降らなかった。』
 神は容赦なく雹をエジプト全土に降らせました。神がこうされた目的は3つです。一つ目は、御自身の存在をエジプト人に示されるためです。二つ目は、神の栄光が現われるようにするためです。三つ目は、エジプト人がユダヤ人を去らせるようにするためです。この時の災害は前代未聞の規模でした。この時にエジプト全体が悲鳴と苦痛で満ちたのは間違いありません。この時、パロかパロの家臣がエジプトで緊急避難の布告を出したかどうかは分かりません。そのような布告が出されていたとしても、どれだけのエジプト人がそれを真に受けたかは分かりません。よって、この時の被害状況がどのようであったか私たちには不明です。しかし、とにかく酷かったのは確かです。

 この奇跡はモーセ一人だけが行なったようです。この箇所を見ても、アロンが一緒に奇跡を行なったとは読み取れないからです。

 神はまたもユダヤ人だけを区別して災いから守られました。ユダヤ人を連れ出そうとしている最中にあって、ユダヤ人まで死なせるのは筋が通っていないからです。ユダヤの解放が目的なのにユダヤ人を死なせてしまえば、神が何をしようとしておられるのか分からなくなってしまいます。

【9:27~28】
『そこでパロは使いをやって、モーセとアロンを呼び寄せ、彼らに言った。「今度は、私は罪を犯した。主は正しいお方だ。私と私の民は悪者だ。主に祈ってくれ。神の雷と雹は、もうたくさんだ。私はおまえたちを行かせよう。おまえたちはもう、とどまってはならない。」』
 神からの恐るべき悲惨に耐えられなくなったパロは、遂に神とモーセたちに譲歩しました。パロは神を正しいとし、自分たちと悪いとしました。しかしパロがこのように言ったのは、悲惨を免れるための見せかけです。そうでもしなければ雹の災いから解放されないことがパロには分かっていたのです。人はこのように今の苦しみから逃れるために、本当は心に思ってもいないことを口にするものです。リトル・リチャードは乗っている飛行機が落ちそうになった時、もし無事に帰れるならば牧師になると神に言ったので、それから牧師になりました。ルターは激しい雷に恐れを抱いたので、聖処女に対してもし守られるなら修道士になると誓いましたが、助かったのでそれから修道士になりました。今の苦しみから逃れるために自分を偽るのは、人間の弱さだと言わねばなりません。

【9:29~33】
『モーセは彼に言った。「私が町を出たら、すぐに主に向かって手を伸べ広げましょう。そうすれば雷はやみ、雹はもう降らなくなりましょう。この地が主のものであることをあなたが知るためです。しかし、あなたとあなたの家臣が、まだ、神である主を恐れていないことを、私は知っています。」―亜麻と大麦は打ち倒された。大麦は穂を出し、亜麻はつぼみをつけていたからである。しかし小麦とスペルト小麦は打ち倒されなかった。これらは実るのがおそいからである。―モーセはパロのところを去り、町を出て、主に向かって両手を伸べ広げた。すると、雷と雹はやみ、雨はもう地に降らなくなった。』
 モーセが祈ると神は雹の災いを止められました。それは、『この地が主のものであることをあなたが知るため』です。つまり、地に対する神の裁量権を通して、パロが地は神の所有だということを知るためでした。これは、それを自由に出来る存在が、それの所有権を持っているからです。もし神が地の所有権を持っておられなければ、神はその地で事を為す権利がありませんでした。モーセが『手を伸べ広げ』たのは、祈りの仕方です。これは神に懇願していることを示しています。ソロモンもこのようにして祈っています(Ⅰ列王記8:22)。映画やアニメや漫画で、誰かが王に両手を差し伸べて嘆願しているシーンは珍しくないかもしれません。モーセが祈った仕方はこれとよく似ています。私たちも、このような仕方で祈って構いません。9.11のようなテロが起きた時やヒトラーのような敵が現われた時であれば、これは実に適切な祈りの仕方です。モーセも大変な時にそうしたからです。

 モーセはまだパロが神を恐れていないと分かっていました。モーセは、パロがその場を凌ぐために見せかけていたことを知っていました。何故なら、神はモーセにパロが頑なになると前もって教えておられたからです。

 31~32節目から雹の大きさを推定できると思われます。この時に落ちた雹の大きさは、『亜麻と大麦』が打ち倒され、『小麦とスペルト小麦』は打ち倒されないほどでした。農家であればよく分かるのでしょうが、農作物の専門家でない私としてはバレーボールぐらいの大きさだったと推測します。この雹は『野の木もことごとく打ち砕いた』(出エジプト記9章25節)ぐらいの大きさだったのですから。

【9:34~35】
『パロは雨と雹と雷がやんだのを見たとき、またも罪を犯し、彼とその家臣たちは強情になった。パロの心はかたくなになり、彼はイスラエル人を行かせなかった。主がモーセを通して言われた通りである。』
 パロが強情になったのはこれでもう8度目です。パロはもう雹が降らなくなったので恐れなくなりました。このため、バネのように再び強情な状態へ戻ったのです。もう雹の災いは目の前から消え失せたのですから。

 このパロのように、ほとんどの人間にとっては目の前の状態が全てです。人は、まだ災いが起きていないと安心しています。しかし、急に災いが起こると周章狼狽してしまいます。そして、その災いが遠のくと再び何事も無かったかのようになります。また、人はまだ死なないと思っているうちはヘラヘラしています。しかし、間もなく死ぬと分かれば途端に恐怖でガクガク震えてしまいます。パロもこのようでした。見てください、人間とはこのようなものなのです。

【10:1~2】
『主はモーセに仰せられた。「パロのところに行け。わたしは彼とその家臣たちを強情にした。それは、わたしがわたしのこれらのしるしを彼らの中に、行なうためであり、わたしがエジプトに対して力を働かせたあのことを、また、わたしが彼らの中で行なったしるしを、あなたが息子や孫に語って聞かせるためであり、わたしが主であることを、あなたがたが知るためである。」』
 パロはもう心を低くさせそうにありません。パロの心は鉄よりも固かったと思われます。神も、そのようなパロの心を、パロの本性に沿って強情にさせておられます。それにもかかわらず、神はモーセがパロのもとへ行くように命じられます。神がこうされるのは3つの理由からです。一つ目は、神がモーセを通してパロの前で奇跡を行なわれるためです。モーセがパロのところに行かなければ、モーセを通して奇跡が行なわれることもありません。二つ目は、神の大いなる奇跡がユダヤ人たちの『息子や孫』に語り継がれるようにするためです。そのようになることで、神はユダヤ人がその子孫においていつまでも御自身を恐れるようになるのを望まれました。三つ目は、大いなる御業を通してユダヤ人たちが神について豊かに知るためです。神の存在は、神の大きな御力において、豊かに感じ取ることができるのです。神にはこのような目的がありましたから、決して心を低くさせないと分かっているパロのところにモーセが遣わされるのは無意味なことではありませんでした。有そのものであり、有の極みであり、完全な有を持っておられる神が、無意味なことをなさるはずはありません。

【10:3~6】
『モーセとアロンはパロのところに行って、彼に言った。「ヘブル人の神、主はこう仰せられます。『いつまでわたしの前に身を低くすることを拒むのか。わたしの民を行かせ、彼らをわたしに仕えさせよ。もし、あなたが、わたしの民を行かせることを拒むなら、見よ、わたしはあす、いなごをあなたの領土に送る。いなごが地の面をおおい、地は見えなくなる。また、雹の害を免れて、あなたがたに残されているものを食い尽くし、野に生えているあなたがたの木をみな食い尽くす。またあなたの家とすべての家臣の家、および全エジプトの家に満ちる。このようなことは、あなたの先祖たちも、そのまた先祖たちも、彼らが地上にあった日からきょうに至るまで、かつて見たことのないものであろう。』」こうして彼は身を返してパロのもとを去った。』
 続いて神は、イナゴの災いを下そうとしておられます。神は大量のイナゴをエジプトに満たし、そのイナゴにエジプトの植物を食い尽くさせ、更にはイナゴがエジプト人の家々に入り込むようにされます。これは前代未聞の出来事でした。時折ニュースになる通り、最近でもアフリカの地方では大量の昆虫が溢れています。しかし、モーセの時に溢れた昆虫の被害は、最近のよりも遥かに酷かったのではないかと思われます。神はこのような災いによりパロを威嚇されます。それは、神がどうしてもユダヤ人を連れ出そうとしておられるからです。しかし、神の栄光が現われるため、パロの心は頑なにされ続けるのです。

【10:7】
『家臣たちはパロに言った。「いつまでこの者は私たちを陥れるのですか。この男たちを行かせ、彼らの神、主に仕えさせてください。エジプトが滅びるのが、まだおわかりにならないのですか。」』
 家臣たちにはいくらかの思慮がありました。ユダヤ人を行かせなければエジプトが滅んでしまうと分かったのです。ですから、パロに『この男たちを行かせ、彼らの神、主に仕えさせてください。』と進言します。エジプトが滅びるぐらいならば、100万人以上はいたであろうユダヤ人たちを去らせるほうがましです。こんなことは、家臣たちにとって分かり切ったことでした。ところがパロはユダヤ人を行かせたくないあまり、冷静な思考ができなくなっていました。

【10:8】
『モーセとアロンはパロのところに連れ戻された。パロは彼らに言った。「行け。おまえたちの神、主に仕えよ。だが、いったいだれが行くのか。」』
 パロは気が狂っていたわけではありませんから、家臣たちの進言を受け入れ、ユダヤ人たちの願いを叶えることにしました。もし進言を聞いても行かせなければ、パロは狂人だったことになりましょう。しかし、パロは『だが。いったいだれが行くのか。』と言っています。これは、つまり行くのは一部の者だけしか許可されないということです。パロはユダヤ人の全体が出て行くのを拒んでいます。この言葉から、パロがどれだけユダヤ人を行かせたくなかったか分かります。彼にとってユダヤ人たちは本当に重要な財産だったのだと思われます。

【10:9~11】
『モーセは答えた。「私たちは若い者や年寄りも連れて行きます。息子や娘も、羊の群れも牛の群れも連れて行きます。私たちは主の祭りをするのですから。」パロは彼らに言った。「私がおまえたちとおまえたちの幼子たちとを行かせるくらいなら、主がおまえたちとともにあるように、とでも言おう。見ろ。悪意はおまえたちの顔に表われている。そうはいかない。さあ、壮年の男だけ行って、主に仕えよ。それがおまえたちの求めていることだ。」こうして彼らをパロの前から追い出した。』
 モーセは全ての人と全ての家畜を連れて行くと言いましたが、パロはモーセの言葉を拒絶しました。パロは『見ろ。悪意はおまえたちの顔に表われている。』と言っています。これは中傷です。パロはユダヤ人たちが悪いことを企んでいるとすっかり思い込んでいました。このパロもそうでしたが、軽蔑している人のすること言うことは、何でも邪悪に思えてしまうものです。もっとも、この時のユダヤ人たちには悪意など塵ほどもなかったのですが。パロはモーセを拒むと、すぐにモーセたちを追い払いました。パロはモーセたちが煙たくて仕方なかったからです。

【10:12~15】
『主はモーセに仰せられた。「あなたの手をエジプトの地の上に差し伸ばせ。いなごの大群がエジプトの地を襲い、その国のあらゆる草木、雹の残したすべてのものを食い尽くすようにせよ。」モーセはエジプトの地の上に杖を差し伸ばした。主は終日終夜その地の上に東風を吹かせた。朝になると東風がいなごの大群を運んで来た。いなごの大群はエジプト全土を襲い、エジプト全域にとどまった。実におびただしく、こんないなごの大群は、前にもなかったし、このあとにもないであろう。それらは全地の面をおおったので、地は暗くなった。それらは、地の草木も、雹を免れた木の実も、ことごとく食い尽くした。エジプト全土にわたって、緑色は木にも野の草にも少しも残らなかった。』

 パロがユダヤ人の全てを去らせようとしなかったので、神は裁きとして、大量のイナゴをエジプト全土に溢れされました。14節目では、これが前代未聞の規模であって、今の時代に見られる昆虫被害よりも酷かったことが示されています。このイナゴのためエジプトは暗くなってしまいました。ここで「そんな多くのイナゴがどこにいたのか。」と疑問に思う人もいるかもしれません。しかし、この疑問は最近でも時折ニュースで見られるこの地方での昆虫被害に対して向けられるべき疑問でもありますから、ナンセンスだと言わねばなりません。

 この奇跡もモーセだけが行なったようです。アロンも一緒に行なったとはこの箇所で示されていないからです。

【10:16~19】
『パロは急いでモーセとアロンを呼び出して言った。「私は、おまえたちの神、主とおまえたちに対して罪を犯した。どうか今、もう一度だけ、私の罪を赦してくれ。おまえたちの神、主に願って、主が私から、ただこの死を取り除くようにしてくれ。」彼はパロのところから出て、主に祈った。すると、主はきわめて強い西の風に変えられた。風はいなごを吹き上げ、葦の海に追いやった。エジプト全域に、一匹のいなごも残らなかった。』
 イナゴの大群に耐えられなくなったパロは、神とモーセたちの前で悔い改めます。それは死の危険を感じたからです。「このままでは命さえも取られてしまいかねない。」と。ですから、パロは『主が私から、ただこの死を取り除くようにしてくれ。』と言っています。そこでモーセが主に祈ると、主はイナゴの大群をことごとく『葦の海』すなわち紅海に吹き飛ばして下さいました。パロが自分の非を認めたからです。このように神は悔い改める者に対し、それまで注がれていた裁きを止めて下さいます。神は悔い改める者には憐れみ深い御方だからです。

【10:20】
『しかし主がパロの心をかたくなにされたので、彼はイスラエル人を行かせなかった。』
 パロは9度目の拒絶をします。ユダヤ人にとってこれは悲しいことだったかもしれません。パロが拒むので、なかなか荒野に行けないからです。しかし、神にとってはこれで問題ありませんでした。何故なら、パロが拒むからこそ、幾度となく御業を行なえるからです。それゆえ、ユダヤ人は悲しんだらいいのか喜んだらいいのか分からなかったと思われます。この時のユダヤ人はむしろ喜ぶべきだったでしょう。神が御業を何度も行なわれ、御自身の栄光を現わしておられたからです。

【10:21~23】
『主はモーセに仰せられた。「あなたの手を天に向けて差し伸べ、やみがエジプトの地の上に来て、やみにさわれるほどにせよ。」モーセが天に向けて手を差し伸ばしたとき、エジプト全土は三日間暗やみとなった。三日間、だれも互いに見ることも、自分の場所から立つこともできなかった。しかしイスラエル人の住む所には光があった。』
 次に神はエジプト全土を暗くされました。それはエジプトがユダヤ人を去らせようとしないからです。つまり、これも裁きでした。このエジプト人たちのように、神を礼拝しようとしている者たちを妨害する者は、神に妨害されます。何故なら、神とは報いの神だからです。このため人は自分がした通りに自分にもされるのです。さて、神はエジプト全土をどのようにして暗くされたのでしょうか。地上が明るいのは、太陽や星々の光によります。神はこの星の光がエジプトに到達しないようにして暗くされたのです。何故なら、それ以外にエジプト全土が真っ暗闇になる仕組みは考えられないからです。上からの光を遮断しない限り、地上が暗黒になることは有り得ません。では、太陽や星々の光はどうやって妨げられたのでしょうか。それは非常に厚い雲によったはずです。すなわち、エジプトの上に幾重にも重なった雲が流れて来て、上から来る星の光を妨げたのです。その雲は非常に濃かったでしょうが、雨は降らせなかったはずです。というのも、この箇所では雨について何も触れられていませんから。もし暗闇の原因が雲でなければ、エジプトの上空に大量の鳥たちが留まり、上からの光を遮断したことになります。しかし、雲によったと考えるほうが自然でしょう。もし雲でなかったとすれば、霧か何らかの粒子によって妨げられたはずです。この時、エジプト人は『だれも互いに見ることも、自分の場所から立つこともでき』ませんでした。つまり、明かりを灯すことさえできないほどの闇がそこにはあったということです。このようになったのはエジプト人がユダヤを行かせなかったからです。ですから、こうなったのは自業自得でした。

 暗闇になった期間が『三日間』だったのは、それが十分な期間だったことを意味します。何故なら、これは1日が「3度」繰り返される期間だからです。聖書において「3度」は確認の意味を持ちます。ですから、「3日」とは十分に確認できる期間だということになります。キリストが死んでおられた期間も、ヨナが鯨の中に閉じ込められていた期間も、3日間でした。

 神はまたもユダヤ人たちだけを特別扱いされました。エジプト全土が暗くなっている中で『イスラエル人の住む所には光があった』のです。このことを見たエジプト人は、神がユダヤと共におられることを認めたはずです。しかし、神はエジプト人とは共におられませんでした。ですからエジプト人は闇に包まれてしまったのです。

【10:24】
『パロはモーセを呼び寄せて言った。「行け。主に仕えよ。ただおまえたちの羊と牛は、とどめておけ。幼子はおまえたちといっしょに行ってもよい。」』
 またもやパロは耐えられなくなってユダヤ人たちに許可を出します。そうでもしなければ更なる悲惨は免れないと感じられたからです。しかし、パロは家畜たちを連れて行くなと言いました。パロは家畜たちがユダヤの宗教行為で失われるのを嫌がったのです。このことからパロの貪欲さを見て取れます。

 パロはこれまでの災いを見ても、未だにユダヤ人たちを十分な形で行かせようとはしません。この愚かな頑なさはどこから来たのでしょうか。ハムとその子ミツライムの血からでしょうか。ハムは愚かな人でした。エジプト人はミツライムの子たちです。いずれにせよ、パロのこのような愚かさは呪われている証拠でした。こういった人の愚かさは何があっても改善されません。ソロモンがこう言っている通りです。『愚か者を臼に入れ、きねでこれを麦といっしょについても、その愚かさは彼から離れない。』(箴言27章22節)

【10:25~26】
『モーセは言った。「あなた自身が私たちの手にいけにえと全焼のいけにえを与えて、私たちの神、主にささげさせなければなりません。私たちは家畜もいっしょに連れて行きます。ひづめ一つも残すことはできません。私たちは、私たちの神、主に仕えるためにその中から選ばなければなりません。しかも私たちは、あちらに行くまでは、どれをもって主に仕えればならないかわからないのです。」』
 モーセはパロの言葉を受け入れず、家畜も一緒に行かねばならないと言います。それも全ての家畜を連れて行くとモーセは言っています。それどころか、モーセはパロが生贄のための動物を用意せねばならないとさえ言っています。しかし、荒野に連れて行った全ての家畜を捧げるというのではありませんでした。モーセたちはその中から傷の無い最良の家畜を選んで神に生贄として捧げるのです。そのようにすることで、イスラエル人たちは主なる神に仕えるのです。

【10:27~29】
『しかし、主はパロの心をかたくなにされた。パロは彼らを行かせようとはしなかった。パロは彼に言った。「私のところから出て行け。私の顔を二度と見ないように気をつけろ。おまえが私の顔を見たら、その日に、おまえは死ななければならない。」モーセは言った。「結構です。私はもう二度とあなたの顔を見ません。」』
 パロが頑なになったのはこれでもう10回目です。パロはモーセをもう耐えられなかったので、二度と顔を見ないように命じます。モーセもパロの態度にうんざりしていたので、パロの命令に応じます。ここにおいて2人の関係は全く決裂してしまいました。しかし、これからもう一度だけモーセはパロの顔を見ることになります(出エジプト記12:31~32)。パロが再びモーセを呼び出したのは、後に見る通り、どうしても仕方なかったからでした。

【11:1】
『主はモーセに仰せられた。「わたしはパロとエジプトの上になお一つのわざわいを下す。そのあとで彼は、あなたがたをここから行かせる。彼があなたがたを行かせるときは、ほんとうにひとり残らずあなたがたをここから追い出してしまおう。』
 神は最後の災いをエジプトに対して用意しておられました。それはパロが「10度」心を頑なにさせたからです。聖書において「10」は完全であることを意味します。つまり、10度心を頑なにさせたパロは、もう改善不可能だったことになります。だからこそ、次が最後の災いになるのです。この最後の災いが起こるとユダヤ人は強制的に追い出されてしまいます。その災いが実に強烈だったからです。

【11:2】
『さあ、民に語って聞かせよ。男は隣の男から、女は隣の女から銀の飾りや金の飾りを求めるように。」』
 遂に出エジプトの「時」が来ました。今やユダヤ人たちが牢獄の家エジプトから救出される時です。これはユダヤにとって歴史的なことです。そのため神は『さあ、民に語って聞かせよ。』と言っておられます。これから起こる出来事はあまりにも重大だからです。それをユダヤの民に聞かせないのは、世界大戦が終わったのにそれを国民に知らせないままでいるのと同じぐらいに悪いことです。

 神はユダヤ人がエジプト人から銀や金の飾りを求めるように命じられました。これは既に述べた通り、エジプト脱出の出来事が華やかになるためです。卒業式や入学式にボロボロの服装で出たら適切ではないでしょう。ユダヤがエジプトから抜け出る際にも同様のことが言えるのです。既に見た出エジプト記3:22の箇所では、ユダヤ人の女性が、銀や金の飾りだけでなく着物をもエジプト人の女性から求めるように言われていました。しかし、ここではユダヤ人の男性もエジプト人の男性から求めるように言われており、こちらのほうでは着物について触れられていません。この箇所では、銀のほうが金よりも先に挙げられていますが、これが現代であれば金のほうが先に挙げられていたでしょう。ここで銀が金よりも先に置かれているのは、恐らく当時の装飾品は金よりも銀のほうが一般的だったからなのだと思われます。

【11:3】
『主はエジプトが民に好意を持つようにされた。モーセその人も、エジプトの国でパロの家臣と民とに非常に尊敬されていた。』
 神は、エジプト人にユダヤ人を好ませましたが、それまでエジプト人はユダヤ人を嫌っていたはずです。主がこうされたのは、ユダヤ人がスムーズにエジプトから脱出するためであり、ユダヤがエジプトから貴重品を剥ぎ取るためでした。モーセはと言えば『エジプトの国でパロの家臣と民とに非常に尊敬されてい』ました。何故なら、モーセはエジプトの王族だったからです。その王族が40年ぶりにエジプトへ帰って来たのです。これではエジプト人たちから良く思われないはずがありません。これが今の時代であれば世界中で大きなニュースとなっていたはずです。というのも長らく消息が絶たれていた人の知らせは、人の精神に大きな心地良さを齎すからです。ソロモンはこう言っています。『遠い国からの良い消息は、疲れた人への冷たい水のようだ。』(箴言25章25節)

 神はエジプト人の心を操作されました。このように神とは人の心を支配される御方です。パウロも、テトスの心にコリント人への良い思いが与えられたのは神によると言っています(Ⅱコリント8:16)。もし神が操作されるのでなければ、エジプト人もテトスも聖徒たちに良い思いを抱いていなかったでしょう。神が心を支配しておられない人は一人もいません。「いいや、私はそんなことを信じないね。」と思われるでしょうか?そのように思っている心が既に神の支配下にあります。もし神が全ての人の心を支配しておられなかったとすれば、神は神でなくなってしまうでしょう。

【11:4~8】
『モーセは言った。「主はこう仰せられます。『真夜中ごろ、わたしはエジプトの中に出て行く。エジプトの国の初子は、王座に着くパロの初子から、ひき臼のうしろにいる女奴隷の初子、それに家畜の初子に至るまで、みな死ぬ。そしてエジプト全土にわたって、大きな叫びが起こる。このようなことはかつてなく、また二度とないであろう。』しかしイスラエル人に対しては、人から家畜に至るまで、犬も、うなりはしないでしょう。これは、主がエジプト人とイスラエル人を区別されるのを、あなたがたが知るためです。あなたのこの家臣たちは、みな、私のところに来て伏し拝み、『あなたとあなたに従う民はみな出て行ってください。』と言うでしょう。私はそのあとで出て行きます。」こうしてモーセは怒りに燃えてパロのところから出て行った。』
 神は最後の災いとして、エジプトの初子を人も獣も全て滅ぼされようとしておられます。これは今までのどの災いよりも強烈です。これは前代未聞の悲惨であって、二度と起きないことでした(6節)。エジプト人はこの悲惨に発狂せんばかりとなります。そのため、遂にユダヤ人たちをことごとく行かせることになります。ユダヤがエジプトにいるからこそ、こういった悲惨が起こるのだからです。この時も神はユダヤだけを守られました。ゴシェンの地にいたユダヤ人たちは、一人さえも初子を失わずに済みました。家畜も然りです。ですから、エジプト人が叫び声を出している中で、ユダヤ人の住んでいるゴシェンだけは『犬も、うなりはしない』ほどでした。ところで、この箇所からゴシェンの地でイスラエル人は犬を飼っていたことが分かります。ゴシェンに犬がいたということは、犬も出エジプトの際にはエジプトから連れて行かれたことを示しています。ですから、荒野の時期には犬もユダヤ人たちと一緒にいたことになります。これはあまり重要なことではないのですが、もしかしたらモーセやアロンといった重要人物が犬を飼っていた可能性も十分にあります。ただ、聖書はこういった些事については書かないのが通例です。というわけで、モーセはこのように言うと、怒りつつパロの前から退出しました。聖書は「怒り」を抑制せよと聖徒たちに教えています。しかし、モーセは神とその民のために義憤を抱いたのですから、ここで彼が怒ったのは問題ありませんでした。この時の怒りは罪というよりはむしろ敬虔さの表われです。

【11:9~10】
『主はモーセに仰せられた。「パロはあなたがたの言うことを聞き入れないであろう。それはわたしの不思議がエジプトの地で多くなるためである。」モーセとアロンは、パロの前でこれらの不思議をみな行なった。しかし主はパロの心をかたくなにされ、パロはイスラエル人を自分の国から出て行かせなかった。』
 この箇所は、これまでの流れを総括しています。つまり、まとめです。「これまでに起きたのはこういうことであった。」ということです。

【12:1~2】
『主は、エジプトの国でモーセとアロンに仰せられた。「この月をあなたがたの月の始まりとし、これをあなたがたの年の最初の月とせよ。』
 神は、ユダヤ人たちが『この月』すなわちアビブの月をユダヤ独自の月とするよう命じられます。これからユダヤに新しい時代が訪れるのですから、暦も刷新されるべきなのです。このアビブは3月と4月に対応しています。ユダヤ人たちは、月ごとにそれぞれ色々な名前を付けていました。当時のエジプトでは既に太陽暦が採用されていました。ですから、エジプト人もユダヤ人も、現代と同じように1年を12月としていました。

【12:3~14】
『イスラエルの全会衆に告げて言え。この月の十日に、おのおのその父祖の家ごとに、羊一頭を、すなわち、家族ごとに羊一頭を用意しなさい。もし家族が羊一頭の分より少ないなら、その人はその家のすぐ隣の人と、人数に応じて一頭を取り、めいめいが食べる分量に応じて、その羊を分けなければならない。あなたがたの羊は傷のない一歳の雄でなければならない。それを小羊かやぎのうちから取らなければならない。あなたがたはこの月の十四日までそれをよく見守る。そしてイスラエルの民の全集会は集まって、夕暮れにそれをほふり、その血を取り、羊を食べる家々の二本の門柱と、かもいに、それをつける。その夜、その肉を食べる。すなわち、それを火に焼いて、種を入れないパンと苦菜を添えて食べなければならない。それを、生のままで、または、水で煮て食べてはならない。その頭も足も内臓も火で焼かなければならない。それを朝まで残してはならない。朝まで残ったものは、火で焼かなければならない。あなたがたは、このようにしてそれを食べなければならない。腰の帯を引き締め、足に、くつをはき、手に杖を持ち、急いで食べなさい。これは主への過越のいけにえである。その夜、わたしはエジプトの地を巡り、人をはじめ、家畜に至るまで、エジプトの地のすべての初子を打ち、また、エジプトのすべての神々にさばきを下そう。わたしは主である。あなたがたのいる家々の血は、あなたがたのためにしるしとなる。わたしはその血を見て、あなたがたの所を通り越そう。わたしがエジプトの地を打つとき、あなたがたには滅びのわざわいは起こらない。この日は、あなたがたにとって記念すべき日となる。あなたがたはこれを主への祭りとして祝い、代々守るべき永遠のおきてとしてこれを祝わなければならない。』
 神は、ユダヤ人がエジプトを出る直前に、羊を屠るよう命じられました。これはユダヤの救いを記念するためです。これは聖礼典であって、出エジプトの時にだけ行なうべき儀式ではありませんから、今に至るまでユダヤ人はこの儀式を行なっています。それはユダヤがエジプトから救出されたことを忘れないためです。当然ながらキリストやパウロもこの儀式に与かっていました。これはユダヤにおいて最も重要な儀式です。羊を食べる際には『種を入れないパンと苦菜を添え』なければいけませんでした。『種を入れないパン』を添えるのは、ユダヤのうちに悪しきパン種があってはならないからです。というのもパン種は全体に広がるからです。このパン種とは悪いことの象徴です。『苦菜』を食べるのは、ユダヤ人がかつて味わわされていた苦しみを忘れないためです。これらを食べる際には、『腰の帯を引き締め、足に、くつをはき、手に杖を持ち、急いで食べ』ねばなりませんでした。何故なら、ユダヤがエジプトを出る際にはノロノロしていられないからです。また4節目で書かれている通り、羊を用意できない家族は、隣人に羊を求めねばなりませんでした。当然ながらその隣人は羊を貧しい家族に与えなければなりません。それを「貸す」こと、またはそれで「借り」を作ることはできなかったはずです。何故なら、神の救いはユダヤ人の一人一人に与えられたからです。ですから、この儀式においては、私有財産における貸し借りが考慮されるべきではないのです。この時に食べる羊は『傷のない一歳の雄でなければ』なりませんでした。神の儀式で傷の付いた家畜を屠ることは罪です。例えば私たち日本人が天皇に何かを献上する時、「訳あり商品」を選ぶのは適切ではないでしょう。神の前で家畜を屠る際にも同様のことが言えます。傷のある羊は「訳あり商品」のようです。

 神は、屠られた羊の血を印として家に塗らなければならないと命じられます。これはユダヤ人が贖われるためです。神はエジプトの初子を殺される際、羊の血が塗ってある家は過ぎ越されますから―この過ぎ越しをユダヤは祝うのです―、その家にいる初子は殺されずに済みました。何故なら、その家に住んでいる人たちはユダヤ人であって、神に贖われるのだからです。これは暗号と幾らか似ており、エジプト人たちはこの血による贖いのことを知らなかったはずです。ですからエジプト人たちは家に血を塗りませんでした。このためエジプト人の家にいた初子はことごとく殺されてしまったのです。これは、あるドイツ人がユダヤ人にはダビデの星のマークを標識として付けさせるべきだと主張したのと、善悪を抜きにすれば似ています。

 この時にユダヤ人が屠った子羊は、イエス・キリストを象徴しています。キリストは永遠の子羊であられます。モーセたちの羊は、このキリストを示していました。だからこそ、神はユダヤ人たちをお救いになったのです。何故なら、人が救われるのはただイエス・キリストによるからです。また、家に塗られた子羊の血は、キリストの血を象徴しています。モーセたちの塗った羊の血は、キリストの流された血を現わす影でした。ですから、神はユダヤ人たちを贖われたのです。何故なら、キリストの血によらなければ贖いは有り得ないからです。このようにモーセたちの子羊とその血にキリストを見出せるか、それとも見出さないか。これによって救いの知識における立体感がかなり変わってきます。

 14節目で言われている通り、この過越の祭は永続的に行なわれなければなりません。しかし今やこの聖礼典は聖餐式に置き換えられています。ヘブル7:12の箇所で言われている通り、『祭司職が変われば、律法も必ず変わらなければなりません』。旧約時代では、レビ族が大祭司の職に就いていました。しかし新約時代になるとユダ族であられるキリストが大祭司になりましたから、過越祭の命令は聖餐式へと移行されました。祭司職が変わったので神の法も外形的に変わったからです。ですから、新約時代の御民は、聖餐式を行なうことで過越の命令を全うするのです。もし祭司職が旧約時代のままだったとすれば、律法も変わらなかったでしょうから、今でも過越の祭りが聖徒たちの間で行なわれていたはずです。今でもユダヤ人たちは過越の祭りを行なっています。しかし、ユダヤ人たちを過ぎ越させた子羊の本体であるキリストが既に現われて下さったのです。ですから今や過越祭ではなく、キリストの身体と血に与かる聖餐式を行なわなければいけないのです。

【12:15~20】
『あなたがたは七日間種を入れないパンを食べなければならない。その第一日目に、あなたがたの家から確かにパン種を取り除かなければならない。第一日から第七日までの間に種を入れたパンを食べる者は、だれでもイスラエルから断ち切られるからである。また第一日目に聖なる会合を開き、第七日にも聖なる会合を開かなければならない。この期間中、どんな仕事もしてはならない。ただし、みなが食べなければならないものだけは作ることができる。あなたがたは種を入れないパンの祭りを守りなさい。それは、ちょうどこの日に、わたしがあなたがたの集団をエジプトの地から連れ出すからである。あなたがたは永遠のおきてとして代々にわたって、この日を守りなさい。七日間はあなたがたの家にパン種があってはならない。だれでもパン種のはいったものを食べる者は、在留異国人でも、この国に生まれた者でも、その者はイスラエルの会衆から断ち切られるからである。あなたがたはパン種のはいったものは何も食べてはならない。あなたがたが住む所ではどこででも、種を入れないパンを食べなければならない。」』
 神は、祭りの7日間にパン種を口にすることがあってはならないと命じられました。これはユダヤがエジプトを出るその最初の時期から、悪がユダヤのうちにあってはならないからです。生まれたばかりの幼児が不潔な環境に置かれるのは不適切でしょう。そうしたら幼児は病気や障害になったり、死ぬことさえ起こり得ます。ユダヤ人が贖われたばかりの時期にも、こういったことが言えるのです。この祭りが『七日』であるのは、その期間の完全性を示しています。17、18節目で書かれている通り、この祭りは今でもユダヤの最初の月における15日から行なわれています。今でも彼らが行なっているのは、イエス・キリストと新約聖書の真理性を知らないことに基づいています。昔のユダヤ人が、この祭りの時期にパン種を口にしたら、『イスラエルの会衆から断ち切られる』ことになりました。これはユダヤの共同体から追放され、異邦人と同一視されるようになるということです。旧約時代にはユダヤにだけ救いがありました。ですから、ユダヤから追い出されるのは、その人が地獄に行くことを意味しています。また、この祭りの時期には『どんな仕事もしてはな』りませんでした。何故なら、ユダヤ人がエジプトから出る際には、いつも通りに仕事をしていることができなかったからです。その時にはエジプトから脱出することが彼らの仕事でした。しかし、命や健康を保つため食事の仕事だけは例外的に許されました。もし食事さえも禁止されたとすれば、死人や病人が生じかねませんが、そのようになったら何のために祭りをしているのか分からなくなってしまうでしょう。

【12:21】
『そこで、モーセはイスラエルの長老たちをみな呼び寄せて言った。「あなたがたの家族のために羊を、ためらうことなく、取り、過越のいけにえとしてほふりなさい。』
 モーセは、間もなくエジプトを抜け出ようとしているイスラエル人たちが、速やかに、躊躇せず羊を屠るよう命じます。何故こう命じられたかと言えば、その時にはゆっくりと事を行なう余裕などとてもなかったからです。例えば、これから間もなく9.11のテロがWTCビルで起こるであろうと聞かされた人がいたとすれば、ビルの中にいたその人はノロノロしていられないはずです。ドイツのヴィルヘルム二世が逃げる時にもノロノロしている余裕はありませんでした。ユダヤ人がエジプトから出る時にも、このような緊迫した状況がありました。