【出エジプト記19:1~20:13】(2021/10/10)


【19:1~2】
『エジプトの地を出たイスラエル人は、第三の月の新月のその日に、シナイの荒野にはいった。彼らはレフィディムを旅立って、シナイの荒野にはいり、その荒野で宿営した。イスラエルはそこで、山のすぐ前に宿営した。』
 続いてユダヤ人はレフィディムから『シナイの荒野にはいり』、ホレブ山の手前で宿営します。それは出エジプトから1か月半後の『第三の月の新月のその日』でした。少数であればエジプトからホレブ山まで1週間もあれば着けていたでしょう。しかし、ユダヤ人は非常に多くの群れでした。ですから、どうしてもゆっくり進まざるを得なかったのでしょう。企業もそうですが人数が多いほど機動性も鈍くなるからです。

【19:3】
『モーセは神のみもとに上って行った。主は山から彼を呼んで仰せられた。「あなたは、このように、ヤコブの家に言い、イスラエルの人々に告げよ。』
 モーセがホレブ山に上ると、神の言葉がありました。これから神がモーセを通してユダヤ人にお語りになるのです。これは王が首相を呼んで自分の意志を国民に告げさせるのと似ています。

【19:4】
『あなたがたは、わたしがエジプトにしたこと、また、あなたがたをわしの翼に載せ、わたしのもとに連れて来たことを見た。』
 まず神は御自身の救いと導き、またエジプトで為された御業について確認させようとしておられます。『わたしがエジプトにしたこと』とは、エジプト人に対して行なわれた諸々の奇跡のことです。『あなたがたをわしの翼に載せ、わたしのもとに連れて来た』とは、神がイスラエルをエジプトからホレブ山まで連れて行かれたことです。ここでは神が『わし』に例えられています。聖書では神を鳥において示している箇所が幾つかあります。これは、つまり神という鷲がイスラエルという雛をその翼に載せて導かれたということです。申命記32:10~11の箇所では更に詳しく書かれています。次の通りです。『主は荒野で、獣のほえる荒地で彼を見つけ、これをいだき、世話をして、ご自分のひとみのように、これを守られた。わしが巣のひなを呼びさまし、そのひなの上を舞いかけり、翼を広げてこれを取り、羽に載せて行くように。』この箇所もそうですが、聖書には神と人を動物において語っている箇所が多くあります。これを下劣また獣的だと思ってはなりません。聖書が動物の例えを用いるのは、私たちが事柄を理解しやすくするためなのですから。

【19:5~6】
『今、もしあなたがたが、まことにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るなら、あなたがたはすべての国々の民の中にあって、わたしの宝となる。全世界はわたしのものであるから。あなたがたはわたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる。』
 ユダヤ人は神との『契約』に入れられていました。これはアブラハム、イサク、ヤコブに結ばれていた契約と同じ契約であり、メシアにおける救いの契約です。すなわち、神はメシアにおいてユダヤ人を御自分の民とし、ユダヤ人はやがて自分たちを贖うために現われるメシアの信仰者として神に服従するのです。このため古代ユダヤ教徒とキリスト者は「契約の民」と呼ばれるのです。この契約に入っているのは、旧約時代ではユダヤ人、新約時代ではキリスト者だけです。それ以外の人たちは全て契約の外に置かれています。この契約にユダヤ人が留まるなら、ユダヤ人は『わたしの宝となる』と神は言っておられます。これはユダヤ人が諸国の民の中にあって神に価値高い民族と見做されるということです。だからこそ神はイザヤ43:4の箇所でユダヤにこう言われたのです。『わたしの目には、あなたは高価で尊い。』神がこう言われたのはユダヤ人が神にとって宝の国民だからでした。またユダヤ人が契約を守るならば、ユダヤ人は『祭司の王国』となりました。これは、神という永遠の大祭司がユダヤ人を王国として統導するという意味です。つまり、契約の民とは神に支配される領土としての存在です。Ⅰペテロ2:9および黙示録1:6の箇所で言われているのはここに基づいています。ユダヤ人が契約に留まるならば『聖なる国民』ともなります。何故なら、契約の民は神の贖いにより聖められているからです。ユダヤ人が自分自身から聖いというわけではなく、神の恵みにより聖められたからこそ『聖なる国民』なのです。神はこのように言うことで、ユダヤ人が契約を守るように働きかけておられます。何故なら、神の『宝』また『祭司の王国』また『聖なる国民』になれるというのは大変素晴らしいことだからです。神の契約を守れば、このようになれるのですから、神の契約を守りたくもなるのです。

 ここで神が言っておられるように全世界は神の所有です。詩篇24:1の箇所でも同じくこう言われています。『地とそれに満ちているもの、世界とその中に住むものは主のものである。』パウロも同じことを言っています。『地とそれに満ちているものは、主のものだからです。』(Ⅰコリント10章26節)例えば、私たちが何らかの創作物を作成すれば、その創作物は私たちの所有物であるはずです。神がこの世界を御自分の所有としておられるのも、これと同じです。何故なら、この世界とは神の作成された神的創作物なのですから。

 このように契約を守れば神の民として保たれると約束されたユダヤ人でしたが、彼らは神に背き続けたので、紀元70年に契約から全く排除されてしまいました。それ以降、もう彼らは神の契約下にいません。契約の主であるイエス・キリストを否み続けていることがその良い証拠です。もし彼らが神の契約の下に今でもいるのであれば、契約の主キリストを信じ崇めていたでしょう。今の彼らはキリストのことについて、憎むか、無視するか、とぼけるかするだけです。契約の主を拒んでいるのに契約などあるはずがないではありませんか。ですから、もはや今のユダヤ人たちは神の宝でも祭司の王国でも聖なる国民でもなくなっています。今の彼らは神の敵であり、廃墟の王国であり、反キリストの国民です。

【19:6~7】
『これが、イスラエル人にあなたの語るべきことばである。」モーセは行って、民の長老たちを呼び寄せ、主が命じられたこれらのことをみな、彼らの前に述べた。』
 これらの言葉をユダヤ人に告げよと神が命じられましたから、モーセはその通りにし、神の言葉を一つも省かずユダヤ人の長老に告げ知らせました。この時に神の言葉を直接受けたのはモーセ一人だけです。このように神は一人もしくはごく少数の者たちを通して、多くの人に御自身の御言葉を知らせようとなさいます。これが神のやり方なのです。モーセ以外にもノアや預言者たちがそうでした。信仰義認という聖書の真理を告げ知らせるため特別に起こされたルターも、そうだったとして良いでしょう。

【19:8】
『すると民はみな口をそろえて答えた。「私たちは主が仰せられたことを、みな行ないます。」それでモーセは民のことばを主に持って帰った。』
 モーセから神の御言葉を聞いたユダヤ人たちは、神の御意思に服従すると答えました。何故こう言ったかといえば、そのようにすれば神の喜ばしい民として歩めると分かったからです。既にユダヤ人は神の救いと数々の御業をまざまざと見ていました。そのようなことをされる神が嘘を言われることはありえません。また、そのような神は信頼するに値します。ですから、ユダヤ人たちは神に服従することを決めたのです。モーセはこの返答を神に伝えようと山へ戻りました。

【19:9】
『すると、主はモーセに仰せられた。「見よ。わたしは濃い雲の中で、あなたに臨む。わたしがあなたと語るのを民が聞き、いつまでもあなたを信じるためである。」それからモーセは民のことばを主に告げた。』
 神は、神がモーセに語っておられるのを実際にユダヤ人が聞くようにされました。それはユダヤ人たちが『いつまでもあなたを信じるため』でした。『信じる』とはモーセを神から遣わされた使者として信じるという意味です。神がモーセに語られたのであれば、モーセが神の使者であるということの確証となるからです。神が『濃い雲の中』からモーセに語られるのは、神が人間理性を遥かに超えた物質的ではない存在であることを分からせるためです。そのためには『濃い雲』を用いるのが有効なのです。何故なら、雲とは把握しにくく超越性また神秘性と相性が良いからです。

【19:10~13】
『主はモーセに仰せられた。「あなたは民のところに行き、きょうとあす、彼らを聖別し、自分たちの着物を洗わせよ。彼らは三日目のために用意をせよ。三日目には、主が民全体の目の前で、シナイ山に降りて来られるからである。あなたは民のために、周囲に境を設けて言え。山に登ったり、その境界に触れたりしないように注意しなさい。山に触れる者は、だれでも必ず殺されなければならない。それに手を触れてはならない。触れる者は必ず石で打ち殺されるか、刺し殺される。獣でも、人でも、生かしておいてはならない。しかし雄羊の角が長く鳴り響くとき、彼らは山に登って来なければならない。」』
 神は、ユダヤ人たちが『着物を洗』って聖別されるよう命じられました。これは神が『民全体の目の前で、シナイ山に降りて来られるから』でした。着物を洗う水は岩から流れていた水が使われたはずです。この時に主が『降りて来られる』というのは臨在のことです。何故なら、神とは物質を超越された御方であり、場所に縛られることはないからです。このような神は世界のどこにもおられます。神御自身がこう言っておられる通りです。『天にも地にも、わたしは満ちているではないか。』(エレミヤ23章24節)ですから、神が人や天使のような姿をしてモーセの前に降りて来られたと想像するのは間違っています。分かりやすく言えば、これは「強い存在感において降りて来る」ということです。どうして神が降りて来られる時に聖別するのか理解できない人は、例えば天皇が自分の所属する団体に訪問される時のことを考えればよいでしょう。その時、その団体がまともであれば、そこにいる人たちは服装や姿勢をしっかりするはずです。ボロボロの服装の人がいれば団長から注意されてしまうでしょう。幾らか例が適切ではありませんが、神が降りて来られる際に聖別するのはこれとかなり似ています。

 神は、御自身の降りられる山に触れる者を殺せと命じられました。これは神が偉大であり神聖であり、誠に畏れ多い御方だからです。ユダヤ人たちはこの神を畏怖しなければいけませんでした。ですから、神は山に触れた者を死なせよと命じられることで、ユダヤ人が神を恐れるようにされたのです。これは単なる見せかけだけの脅しではありません。山に触れたユダヤ人は本当に殺されていたでしょう。もっとも、そのような者がいたのかどうか私たちには分かりませんが。山に触れたら殺されるのは『獣』でも同じでした。何故なら、獣に対しても神は崇高な御方だからです。しかし、ここでは「物」については何も触れられていません。ユダヤ人の所有物が転がったり飛んだりして山に触れた場合、その所有物をどのようにすればよかったのか、私たちには何も分かりません。山に触れると死んでしまいますから、それを取りに行くのは難しかったと思われます。

 また、『雄羊の角が長く鳴り響くとき、彼らは山に登って来なければな』りませんでした。これは山の麓に近づくという意味です。実際、これから三日目に角笛が鳴ると(出エジプト19:16)、民は『山のふもと』(出エジプト19章17節)に行っています。ですから、山に登れというのは文字通りの意味ではなく、麓のことを言っています。神は山に登る者を殺せと言われたからです(出エジプト19:12)。モーセも『民はシナイ山に登ることはできません。』(出エジプト19章23節)と神の御前で言っています。このように考えれば、「どうして神は登ったならば殺されると言われた山に角笛が鳴ったら登れと言われたのだろうか。」という疑問を容易に解決できます。

 神が降りて来られるのが聖別されてから『三日目』だったのは何故なのでしょうか。これはユダヤ人が聖別されたことがしっかりと確認されるためでした。何故なら、三日とは1日が「3回」続くことだからです。「3回」の聖書的意味について再び説明する必要はないでしょう。

【19:14~15】
『それでモーセは山から民のところに降りて来た。そして、民を聖別し、彼らに自分たちの着物を洗わせた。モーセは民に言った。「三日目のために用意をしなさい。女に近づいてはならない。」』
 モーセが山から降りると、民を全て聖別させました。もう間もなく神が近くに降臨されるからです。『女に近づいてはならない。』と言われたのは、心を乱さず、神に精神を集中させねばならなかったからです。神が降りて来られるに際して、女に心を惹かれていたようでは不適切だからです。

【19:16】
『三日目の朝になると、山の上に雷といなずまと密雲があり、角笛の音が非常に高く鳴り響いたので、宿営の中の民はみな震え上がった。』
 神の降臨が近づくと、山には凄まじい現象が起こりました。その現象は4つです。一つ目は『雷』です。これは雷の巨大な音です。雷の音は神の御声を象徴しています。実際、神はヨハネ12:28~29の箇所で雷のような御声で語られました。二つ目は『いなずま』です。これは大空に走る鋭い不規則な電光のことです。この電光の鋭い線には視覚的な恐ろしさ、また強烈さがあります。神はそのような『いなずま』を生じさせることで、民が御自身を畏怖するようにしておられます。三つ目は『密雲』です。これは、先に述べた通り、神が計り知り難い御方であることを示しています。四つ目は『角笛の音が非常に高く鳴り響いた』ことです。例えば、王が戦争から凱旋する時は、楽器部隊がラッパを吹き鳴らして出迎えるでしょう。神が降臨される時に角笛が高く鳴り響いたのは、これと幾らか似ています。しかし、この角笛は誰が吹き鳴らしていたのでしょうか。ここでは何も示されていません。恐らく御使いが吹き鳴らしていたのだと思われます。何故なら、御使いの役割の一つはラッパや角笛を吹き鳴らすことだからです。これは黙示録から分かります。

 この時の光景はあまりにも恐ろしかったので、『宿営の中の民はみな震え上が』りました。これはモーセも例外ではありませんでした。この時の出来事についてヘブル12:19~21の箇所ではこう書かれています。『このとどろきは、これを聞いた者たちが、それ以上一言も加えてもらいたくないと願ったものです。彼らは、「たとい、獣でも、山に触れるものは石で打ち殺されなければならない。」というその命令に耐えることができなかったのです。また、その光景があまり恐ろしかったので、モーセは、「私は恐れて、震える。」と言いました。』なお、ヘブル12:18の箇所によれば、この時のシナイ山は火で燃えていました。また、山にあった雲は『黒雲』でした。その雲は白くありませんでした。また、山には『暗やみ』がありました。また、山には『あらし』も吹き荒れていました。このようなことを知ると、シナイ山の光景がどれだけ凄まじかったか感じさせられます。

【19:17】
『モーセは民を、神を迎えるために、宿営から連れ出した。彼らは山のふもとに立った。』
 角笛の音が鳴り響いたので、モーセは神に命じられた通り(出エジプト19:13)、民を山に導き出しました。こうして神をお迎えする準備が全て整いました。

【19:18】
『シナイ山は全山が煙っていた。それは主が火の中にあって、山の上に降りて来られたからである。その煙は、かまどの煙のように立ち上り、全山が激しく震えた。』
 遂に神がその強い臨在において山へ降りて来られたので、『シナイ山は全山が煙』りで満ちました。先に述べた通り、神が物質的な姿で降りて来られたわけではありません。神は物質的に到来されたのではないにしても、その存在において強く到来なさいました。その到来は単なる概念的な到来ではなく現実の到来でした。ですからシナイ山は全て煙ったのです。神は『火の中にあって』降りず、火を抜きにして降りて来られることもできましたが、火における降臨を神は実行されました。それは火において来られた神をユダヤ人たちが恐れ、神の偉大性をよく感じ取るためでした。火の中にあって来られるということほど神とその崇高性に相応しい到来の仕方が他にあるでしょうか。またこの時には『全山が激しく震え』ましたが、これは山が神とその御力に耐えられなかったからです。偉大な神の前では全宇宙でさえ激しく震えるほどです。

【19:19】
『角笛の音が、いよいよ高くなった。モーセは語り、神は声を出して、彼に答えられた。』
 少し前に比べると『角笛の音が、いよいよ高くな』りました。これは遂に神が山へ降りて来られたからです。すると、民の全ては神とモーセが語り合っている様子を見ました。このようにして民の前でモーセは神から遣わされた使者であるということが確証されました。つまり、誰であれユダヤ人はモーセが神の召しを受けていると認めざるを得なくさせられました。何故なら、モーセが直接神と話しているからです。このような人が神の使者でなければ一体何だというのでしょうか。

【19:20~25】
『主がシナイ山の頂に降りて来られ、主がモーセを山の頂に呼び寄せられたので、モーセは登って行った。主はモーセに仰せられた。「下って行って、民を戒めよ。主を見ようと、彼らが押し破って来て、多くの者が滅びるといけない。主に近づく祭司たちもまた、その身をきよめなければならない。主が彼らに怒りを発しないために。」モーセは主に申し上げた。「民はシナイ山に登ることはできません。あなたが私たちを戒められて、『山の回りに境を設け、それを聖なる地とせよ。』と仰せられたからです。」主は彼に仰せられた。「降りて行け。そしてあなたはアロンといっしょに登れ。祭司たちと民とは、主のところに登ろうとして押し破ってはならない。主が彼らに怒りを発せられないために。」そこでモーセは民のところに降りて行き、彼らに告げた。』
 神が招かれるとモーセは神の御許に登って行きます。すると、神はモーセに『下って行って、民を戒めよ。』と命じられました。何を戒めるのでしょうか。それは『祭司たちと民とは、主のところに登ろうとして押し破ってはならない。』(24節)ということです。ユダヤ人たちは恐れつつも興奮していたはずですから(これは容易に推測できることです)、『主を見ようと』(21節)して山へ登って来る恐れがありました。激情に突き動かされると往々にして危険が無視されがちです。しかし、山に登ろうとすればユダヤ人たちは殺されてしまいます。神は『彼らが押し破って来て、多くの者が滅びるといけない。』と言われました。だからこそ、モーセが降りて行って「山へ登ってはならない。」と民を戒めるべきだったのです。

 モーセが降りて行って民を戒めたならば、また再び山へ『アロンといっしょに登』らねばなりませんでした。アロンは山に登っても構いませんでした。何故なら、アロンはイスラエルの大祭司だからです。神のおられる至聖所に大祭司が年1回入れたことからも分かる通り(ヘブル9:7)、大祭司だけは神の御前に出てよいのです。しかし、普通の『祭司たち』および『民』は山に登れませんでした。これは皇帝や王に二流、三流の上官が行くべきではないのと似ています。支配者の前には一流の上官が行くべきであるのと同様、神の御前にもモーセとアロンだけが出るべきだったのです。それではフルはどうだったのでしょうか。フルはアロンと一緒にモーセの手を支えたほどの人ですが(出エジプト17:12)、この箇所ではフルについて何も言われていません。よって、フルは山に登れなかったと考えるのが自然でしょう。

【20:1】
『それから神はこれらのことばを、ことごとく告げて仰せられた。』
 モーセが下って行って民を戒めてから再び山に登ると、神は律法を公布されました。律法の公布は、アロンも一緒に聞いていた可能性があります。何故なら、アロンはモーセと一緒にシナイ山へ登っていたからです(出エジプト19:24)。神がアロンにも律法の言葉を聞かせるため、山へ登らせたと考えるのは自然です。アロンは大祭司でしたから、神から直接律法を聞くのは理に適っていると思われます。しかし、アロンは山の途中で待機させられていた、つまりアロンは直接神から律法を聞かされなかった可能性もあります。何故なら、出エジプト24:1~2の箇所では『モーセひとり主のもとに近づけ。』と言われており、アロンが神に近づくことは許されなかったからです。この律法の言葉は20章17節目まで続き、再び22節目から語られています。ここで『ことごとく』と言われているのは「語られるべきことは一つも漏れなかった」という意味です。

 神の律法は、あまりにも重要です。それは真理であり、『正しく、また良いもの』(ローマ7章12節)であって、そこには神の御心が示されているからです。また律法がなければ罪は知られません(ローマ5:13、4:15)。『罪とは律法に逆らうこと』(Ⅰヨハネ3章4節)です。この罪が私たちを根本的に左右させるのです。事実、私たち人間はこの罪により死ぬことになりました(ローマ6:23)。ですから、これから語られる律法は詳しく見て行かねばなりません。神がモーセに語られた律法は全部で10の部分に分けられます。これは聖書が教えていることなので疑う余地は全くありません(出エジプト34:28)。それゆえ、これは「十戒」と呼ばれています。この十戒は、神に関する戒めと人間に関する戒めの2種類に区分されます。この区分については人や教派によって考え方が違います。カトリックやルター派は、10の戒めのうち神に関わる戒めが3、人間に関する戒めが7あると理解しています。しかし、後にも述べますが、この区分は明らかにおかしいので誤りだとせねばなりません。これは神に関わる戒めが4、人間に関する戒めが6あると理解すべきです。プロテステントの改革派・長老派やバプテスト派などはこの理解です。また、律法をユダヤ人に与えられたのはもちろん神ですが、それは御使いたちを通して定められました。ガラテヤ3:19の箇所で書かれている通りです。これについてはガラテヤ書を取り扱っている際に語られるべきことですから、ここで詳しく語ることはしません。

【20:2】
『「わたしは、あなたをエジプトの国、奴隷の家から連れ出した、あなたの神、主である。』
 まず律法の公布者であられる神は御自身について宣言されます。律法とは法ですから、冒頭で公布者また立法者の宣言がされるのは自然なことです。

 ここで神が言っておられるように、エジプトはユダヤ人にとって『奴隷の家』でした。ユダヤ人はそこで奴隷として強制労働をさせられていたからです。しかし、神はそのような牢獄からユダヤ人を連れ出して下さいました。神がユダヤ人の苦しみを顧みて下さったのです。

 この箇所をも第一戒目とする人たちがいます。すなわち、20:3の箇所と20:2の箇所を一緒にして一番目の命令とするのです。しかし、この箇所は命令というより命令の前に置かれた宣言文です。よって、ここは第一戒目に含めるべきではないでしょう。これは序文とすべきです。

 ところで、神がこの時に公布された律法はユダヤ人に対してだけ有効であると思われる人がいるかもしれません。何故なら、この20:2の箇所を見ても分かる通り、戒めはモーセ率いるユダヤ人を対象として語られているからです。これは否定できないことです。この箇所で『あなた』と言われているのは神によりエジプトから連れ出された古代のユダヤ人だからです。しかしながら、この律法は神の民に対して与えられた戒めですから、神の民であればいかなる時代の人間であっても守らねばならないものです。実際、パウロはエペソ人たちが、第5番目の戒め(出エジプト20:12)を遵守するように命じています(エペソ6:1~3)。このエペソ人たちはユダヤ人ではありませんでしたが、キリスト・イエスにより神の民とされた人たちでした。ですから、出エジプト記で言われている律法は、それを直接与えられたユダヤ人だけが守れば良いと考えるのは間違っています。パウロは明らかに異邦人も神の民であれば律法を守るべきだと示しているからです。

【20:3】
『あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。』
 これが一番目の戒めです。神と呼ばれる存在であれば、この世界に幾らでも存在します。しかし、聖書は古代ユダヤ人またキリスト者の神だけが真の神であると教えています。アラーもシヴァもアシュタロテもゼウスも本当の神ではありません。ですから、神はユダヤ人が御自身だけを神とするように命じられます。それは神を信じ、崇め、求め、愛し、恐れ、尊び、服従するということです。他の神―それは神でも何でもありませんが―にこういったことをしてはならないのです。ルターも言っている通り、この第一戒目から全ての正しいことが流れ出ます。何故なら、神を神とするというのは宗教の基本であり、善の基礎だからです。この戒めを守れるのであれば他の戒めも守れるであろうとルターは言いましたが、これはその通りであると言えます。この戒めを聖徒たちは口ずさむべきです。これは非常に重要な戒めだからです。律法を口ずさむのは神の命令です。

 ルターは、次の第二戒目を、この第一戒目と一緒にして「第一戒目」としています。何故なら、2番目の戒めも1番目の戒めと同様、偽りの神々を否定しているからです。しかし、だからといって2つの戒めを一つに纏めることはできません。というのも第一戒目は神を基点として偶像崇拝を禁じているのに対し、第二戒目は偶像を基点として偶像崇拝を禁じているという大きな違いがあるからです。それに、もし第二戒目をも第一戒目とするのであれば、残る8つの戒めのうちどれか一つを二つの戒めに引きちぎらなければいけなくなってしまいます(ルターは実際にそのようにしています)。そうしないと戒めの数が「10」にならないからです。このようにするのは無茶な話です。

 この戒めに従わず、神だけを神としなければ一体どうなるのでしょうか。その人は呪いを受けるでしょう。この地上の生涯で呪われるだけでなく、やがて死んでから地獄で永遠に呪いを受けることにもなります。神の他に神を持つ者は祝福されないからです。私たちはこの神を、この神だけを唯一の神とせねばなりません。

【20:4~6】
『あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、どんな形をも造ってはならない。それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神、わたしを憎む者には、父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし、わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施すからである。』
 これが第二戒です。神は、偶像の制作を全く禁じておられます。この二戒目ではこのように偶像の観点から偶像崇拝が禁じられていますが、先の一戒目では神の観点から偶像崇拝が禁じられていました。『偶像を造ってはならない』のが何故かと言えば、『そんなものは神ではない』(エレミヤ16章20節)からです。それは『ただ偽るもの、何の役にも立たないむなしいもの』(エレミヤ16章19節)です。また、それは『銀や金で、人の手のわざ』(詩篇135:15)です。つまり、ただの物体に過ぎません。そこには生命も意志もありません。ですから神はそのような虚しい偶像を造るなと言われたのです。『上の天にあるもの』とは、太陽や太陽神、色々な星、また鳥などを指しています。『上の天』とは大空と宇宙空間のことです。『下の地にあるもの』とは人間や動物や石といったものです。『下の地』とは地球の大地のことです。『地の下の水の中にあるもの』とは魚やイルカやタコなどを指しています。『地の下の水』とは海のことです。この命令が2番目に語られているというのは、偶像崇拝の重大性があまりにも大きいからでしょう。神は偶像崇拝を非常に忌み嫌っておられるのです。具体的に言えば、神の民は仏像を造ってはなりません。また下手をすれば誰かが拝んでしまいかねない、神々しい雰囲気を持った像を制作することも避けねばなりません。それでは、他の人のためであれば別に偶像を制作してもよいのでしょうか。この箇所では『自分のために』偶像を造るなと言われています。『自分のために』と書かれているのは、他の人のためであればOKであるということを意味していません。言うまでもなく、たとえ誰かのためであっても偶像を制作するのは禁じられます。そのようにするのは偶像崇拝へ加担することだからです。健全な感覚を持った人であれば、以上の説明だけでも十分に分かってくれることでしょう。何らかの偶像を造って神とするのは、神を侮辱することに他なりません。何故なら、それは物質を超越しておられる計り知れない無限の御方である神を、矮小な物質、しかも朽ちていく物質の中に閉じ込めることだからです。これは神を愚弄することです。偶像を造って神とする人は、暗黙のうちに「神とはこのような存在なのだ。」と言っています。これは許し難いことです。だからこそ神は偶像制作をユダヤ人に禁じられたのです。この二番目の戒めは、一番目の戒めに比べると、それほど口ずさむ必要はないと感じられます。何故なら、私の見るところ、今のプロテスタント教徒は偶像から遠ざかっているからです。教会員なのに仏像や神棚を拝んでいるという話は、ごく稀にしか聞かれません。ほとんど全てのプロテスタント教徒にとって、偶像を造るなどというのは少し願うことさえないと思います。しかし、モーセの時代のユダヤ人たちは偶像崇拝に近い状態がありました。彼らは他の民族が拝んでいる偶像にたびたび心を惹かれたのです。ですから、古代ユダヤ人たちの場合は、この戒めを大いに口ずさむ必要がありました。なお、既に述べたように、この戒めを第一戒目に含めるのは間違っています。

 また神は偶像を拝んでも、それに仕えてもならないと言われます(5節)。『拝んではならない』とは、偶像が神ではないからです。崇拝は神にだけ捧げられるべきなのです。『仕えてはならない』とは、偶像が単なる虚しい物質に過ぎないからです。ただの物質に仕えるというのは愚かです。しかし、私たち人間は堕落しているので、神々しいと感じられる偶像を見ると、すぐに拝んだり仕えたりしたくなる傾向を持っています。だからこそ、今に至るまで実に多くの人間が、虚しい偶像に跪いたり仕えたりしてきたのです。もし人間が堕落していなければ偶像など無視されていたでしょう。神は偶像に弱い人間の心をよくご存知であられます。だからこそ神はここで偶像の崇拝とそれに対する服従を禁じておられるのです。

 昔のカトリック教徒は、聖像や聖画といった偶像を拝むのは駄目であるがそれに仕えるのは問題ないと考えていました。これはカルヴァンが『キリスト教綱要』の中で詳しく述べています。拝まないで仕えるだけであれば罪にはならないと彼らは思っていたのです。このような区別は誠に愚かであり異常でした。何故なら、私たちが今見ている第二戒目では偶像に仕えてはならないと明白に命じられているからです。聖書を真っ直ぐによく読んでいないと、このカトリック教徒たちのような酷い誤謬に陥ることになってしまいます。

 5~6節では、神が人の行ないに与えられる賞罰について示されています。神が賞罰をお与えになるということは、ソロモンもこう言っています。『神は、善であれ悪であれ、すべての隠れたことについて、すべてのわざをさばかれるからだ。』(伝道者の書12章14節)神は、御自身を憎んで他の神々に従う者に呪いを『三代、四代にまで及ぼ』されます。咎に対する呪いが子孫にまで注がれるというのは非常に重要です。神は、不従順で不敬虔な者を、その子らも含めて嫌われます。例えば、私たちの身内の者を殺した殺人者がいたとすれば、私たちはその殺人者の子どもを良く思えないはずです。むしろ、殺人者に対する憎しみの思いが、その子にまで及ぼされるのではないでしょうか。神が悪い者をその子らまで嫌われるのは、これとよく似ています。『三代、四代にまで』呪いが続くのは、神が悪を大いに嫌っておられるからです。これの良い例はイスカリオテのユダでしょう。裏切り者ユダは、キリストを売るという咎のため呪われましたが、その呪いはユダの子にまで及ぼされました。ですからユダの子は物乞いをせねばならなくなりました。詩篇109:10の箇所で『彼の子らは、さまよい歩いて、物ごいをしますように。』と言われている通りです。また、エレミヤ書17:11の箇所でも子らに呪いが及ぼされると教えられています。こう書かれています。『しゃこが自分で産まなかった卵を抱くように、公義によらないで富を得る者がある。彼の一生の半ばで、富が彼を置き去りにし、そのすえはしれ者となる。』これは不正により富を得た者に対する呪いは、痴呆という形でその子孫にまで及ぼされるということです。ここでエゼキエル書との関わりで大きな疑問を持つ人がいるかもしれません。それはこういった疑問です。「エゼキエル書18章では、父に対する呪いは子に及ぶことがないと言われている。それは出エジプト記20章で父への呪いが子にも及ぼされると言われているのと矛盾していないだろうか。」確かに神はそこで『子は父の咎について負いめがな』(エゼキエル書18章20節)いと言っておられます。しかし、私たちが今見ている箇所では『父の咎を子に報い』と言われています。これは矛盾しているように感じられてしまいますから、解決不可能だと思える人もいるかもしれません。しかし、解決はそう難しくありません。私たちはエゼキエルの時代のユダヤ人についてよく考えるべきです。エゼキエルと同時代のユダヤ人たちは、誰かに降りかかった悲惨は、どれもこれもその人の父における咎が原因だと思っていました。ですから、当時は『父が酸いぶどうを食べたので、子どもの歯が浮く。』(エゼキエル18章2節)という諺がたびたびユダヤ人の間で口にされていました。つまり、父が呪わるべき悪をしたので子にも呪いが及んでいると。しかしながら、全ての悲惨が父の咎に基づいているというわけではありません。例えば、父が潔白であるのに、子が悪をしたので呪いを受けて悲惨になるという場合がそうです。この場合、父は全く子の悲惨と関係がありません。ところが、エゼキエルの時代のユダヤ人たちは、このような場合であっても全て父の咎に悲惨の原因を求めていたのです。このような思い違いを正すべく、神はエゼキエルを通して『子は父の咎について負いめがな』いと言われたのでした。要するに、神はエゼキエル18章で、親の呪いが子にまで及ぼされるということを否定されたわけではありません。ですから、エゼキエル18章と出エジプト記20:5の箇所は内容的に矛盾していないことが分かります。このように呪いが3~4代にまで注がれる一方、神は御自身を愛して服従する者に対して『恵みを千代にまで施』されます。例えば、私たちを命がけで救ってくれた命の恩人がいたとすれば、私たちはその恩人の子にまで良くしてやりたいと思わないでしょうか。道徳観のまともな人であれば、恩人に対する良い思いはその恩人の子にまで多かれ少なかれ及ぼされるはずです。何故なら、自分に良くしてくれた人の子にどうして悪いことなどできるでしょうか。神が御自身に忠実な者にはその子らまで恵んで下さるのは、これとよく似ています。呪いの継続が3~4代までなのに対し、祝福の継続は千代までなのは、神が呪いよりはむしろ慈しみに傾かれる御方だからです。J・S・ミルも世界の観察に基づいて鋭く言っていましたが(『有神論』)、自然を見れば分かる通り、神は人類が快楽を受けることを傾向として望んでおられます。ですから、神は恵みを呪いよりも遥かに長く継続させられるわけです。なお、この箇所で『三代、四代』また『千代』と言われているのは文字通り厳密に理解すべきではありません。これは大まかな言い方であって、『三代、四代』は「幾らか続く」という意味に、『千代』は「非常に長く続く」という意味に解せられます。

 私たちは、忌まわしい偶像を造ることも拝むこともそれに仕えることもしないようにすべきでしょう。むしろ、偶像がこの世界から消え失せ、偶像を愛している人たちが神とそのキリストをこそ求めるようになるのを願うべきです。何故なら、誰であれ偶像を愛する者は呪われるからです。また偶像を愛さない者は御心に適っており祝福されることにもなるからです。私たちは、偶像崇拝を徹底的に避けるべきです。パウロもこう言っています。『ですから、私の愛する者たちよ。偶像礼拝を避けなさい。』(Ⅰコリント10章14節)それどころか、私たちは偶像そのものさえ忌避すべきです。ヨハネがこう言っている通りです。『子どもたちよ。偶像を警戒しなさい。』(Ⅰヨハネ5章21節)ヨハネがこう言ったのは、偶像には得体の知れない魔力があるので、すぐに人間の心を崇拝や服従へと誘ってしまうからです。ヨハネはこのことをよく知っていました。だからこそ、ヨハネは警察官が犯罪者を警戒するように、偶像を警戒すべきだと命じたのです。

 もしこの第二戒に違反し、偶像崇拝を行なうのであれば、神は同性愛の裁きを下されます。偶像崇拝をする人は、偶像という本来は神でない偽りの神を拝む倒錯に陥っているので、性的な倒錯にも陥ってしまうのです。神のことでおかしい感覚を持つ人が、性の領域でおかしくなっても不思議なことはありません。パウロは偶像崇拝者が同性愛に引き渡されるということについて、こう言っています。「というのは、不義をもって真理をはばんでいる人人のあらゆる不敬虔と不正に対して、神の怒りが天から啓示されているからです。なぜなら、神について知りうることは、彼らに明らかであるからです。それは神が明らかにされたのです。神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。というのは、彼らは、神を知っていながら、その神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなったからです。彼らは、自分では知者であると言いながら、愚かな者となり、不滅の神の御栄えを、滅ぶべき人間や、鳥、獣、はうもののかたちに似た物と代えてしまいました。それゆえ、神は、彼らをその心の欲望のままに汚れに引き渡され、そのため彼らは、互いにそのからだをはずかしめるようになりました。それは、彼らが神の真理を偽りと取り代え、造り主の代わりに造られた物を拝み、これに仕えたからです。造り主こそ、とこしえにほめたたえられる方です。アーメン。こういうわけで、神は彼らを恥ずべき情欲に引き渡されました。すなわち、女は自然の用を不自然なものに代え、同じように、男も、女の自然な用を捨てて男同士で情欲に燃え、男が男と恥ずべきことを行なうようになり、こうしてその誤りに対する当然の報いを自分の身に受けているのです。」(ローマ1:18~27)これの最も良い例は、古代ギリシャです。古代ギリシャでは同性愛が社会現象として存在しており、特に小児愛が顕著に見られました。プラトンの作品ではソクラテスが美しい男に興奮している様子が描かれていますし、プラトン自身も同性愛者でした。この古代ギリシャでは偶像崇拝がごく普通に行なわれており、古代ギリシャ人たちの家の庭にはギリシャ神話の神々の神像が崇拝用として置かれていました。神はこのような偶像崇拝をしているギリシャ人に対し、同性愛という裁きを下しておられたのです。また、この同性愛は今の世界でも多く見られるようになってきました。特にここ最近の同性愛に対する寛容な空気は異常だと思えるぐらいです。現代の有名人で同性愛者である人は、少し挙げるだけでも、こんなに沢山います。フレディ・マーキュリー、アダム・ランバート、リトル・リチャード、エルトン・ジョン、レディー・ガガ、ジャニス・ジョプリン、ルーサー・ヴァンドロス、プリンス、ジョージ・マイケル、ピンク、宇多田ヒカル、槇原敬之、ロブ・ハルフォード、カート・コバーン、ブルース・ディッキンゾン、勝間和代、一ノ瀬文香、マツコ・デラックス、壇蜜、鳥居みゆき、江頭2:50、山咲トオル、おすぎ、ピーコ、前田健、井深克彦、橋口亮輔、美輪明宏、はるな愛、ぺえ、ロバート・キャンベル、ティム・クック、カルバン・クライン、アンジェリーナ・ジョリー、ジョディ・フォスター、イアン・ソープ、石川大我。今の世界には神から同性愛の裁きが注がれていると言ってよいでしょう。それは、現代人が神を忘れて自分勝手に生きているからです。現代人は唯一真の神を無視しているという点で偶像崇拝者と全く一緒です。ですから、そのような現代人の生きている現代において同性愛の裁きが注がれていたとしても不思議なことはありません。

 この箇所で神は『ねたむ神』と言われていますが、ここで疑問を持つ人がいるかもしれません。それはこういう疑問です。「神は妬みを罪として禁じておられるのに、どうして御自身は妬みを持たれるのか。」確かに神は律法において妬みを明確に禁じておられます。しかし、神が妬まれるのは全く問題ではありません。何故なら、神が妬まれるのは、他の神々を慕っている聖徒たちだからです。律法で妬みが禁じられているのは、人が誰かの所有物を見て妬むことについてです。夫が不倫をしている妻を妬む場合は全く問題なく、もし不倫の妻に妬みを抱かないのであればその人は妻など愛していないのでしょう。裏切り行為をしている配偶者を妬む人を問題視する人がどこにいるでしょうか。神が偶像崇拝をしている聖徒たちを妬むのは夫が不貞な妻を妬むのと全く一緒ですから、神が『ねたむ神』だと言われていても不思議に思うべきではありません。

【20:7】
『あなたは、あなたの神、主の御名を、みだりに唱えてはならない。主は、御名をみだりに唱える者を、罰せずにはおかない。』
 第三戒です。神は、御自身の御名がみだりに唱えられることを禁じられました。具体的にはどのような振る舞いがこれに該当するのでしょうか。ある人が偽って誓いを立てる時、「主の御名にかけて誓います。」と言うのがこれです。正しいことを正しい心で誓う際に御名を持ち出すのであれば問題ありません。しかし、偽誓を御名によって立てるのは、決して偽ることのない神を偽り事の証人にするわけですから、神の御名をみだりに使用することになります。例えば、誰かが嘘をつく時、「天皇の名によって誓う。」と言えば天皇の名が汚されます。その人は天皇を嘘の証拠人としたからです。神の御名により偽誓するのは、これと同じように悪いことです。また、御名をおまじないのように口ずさむのも禁じられます。ある人たちは、御名を繰り返し何度も口にすべきだと考えています。彼らによれば、「エゴー・エイミ」(我は有りて有るもの/ギリシャ語)という御名を繰り返して唱えていると効果があるといいます。ですから、散歩中にそのようにしている人がいます。しかし、このように御名を口ずさむのは、明らかに迷信的・異教的であり、御名をみだりに唱えることです。それは御名を愚弄することです。「ずっと唱えていると力が生じる。」などという考えは、御経とほとんど変わりません。確かに聖書は御名を呼び求めよと命じていますが、それは有意味に呼び求めるということであって、心からなされるべきことです。例えば、飛行機が墜落しそうになればキリスト者でなくても「神様!どうか助けて下さい!お願いします!」と心から神を呼び求めますが、このような意味で御名を呼び求めるべきなのです。これは心から神を求めているのですから迷信的ではありません。ところが彼らが「エゴー・エイミ」と繰り返して口ずさむべきだと言うのは、実に表面的です。神は人格を持った御方ですから、そのような相手に対して、御経でも唱えるように「エゴー・エイミ」「エゴー・エイミ」「エゴー・エイミ」「エゴー・エイミ」…などとその御名を口にするのはいかがなものかと思えるのです。ですから、私たちはそのようなことをして、御名をみだりに唱えてはならないのです。使徒たちもそんなことはしていませんでした。アウグスティヌスやルターやカルヴァンもそんな呼び求め方はしていません。また、このように御名を唱えるべきだと教えていた者は、「御名を唱えていると声が太くなる。」とも言っていました。だから何なのでしょうか。あたかも「御名を唱えていると声が太くなるから、御名を唱えるのは正しいことだ。」とでも言わんばかりです。もし声が太くなるのが敬虔で御心に適っているとすれば、バリー・ホワイトの声が最も御心に適っていることになるでしょう。彼の声は御名を唱える前から太いからです。声が太くなるから望ましいとでも言おうとするのは、明らかに思い違いです。もう一度言いますが、聖書で御名を呼び求めよと言われているのは、ただ意味もなく口にせよということではありません。そうではなく聖書は、本当に心から「主よ。守って下さい。」「神よ。祝福して導いて下さい。」「万軍の王よ。これこれこういうことをして下さい。」と御名を呼び求めるよう命じているのです。なお、この箇所は『あなたの神、ヤハウェの名によって偽りの誓いをしてはならない。』と訳すこともできます。こちらのほうが意味が分かりやすいと感じられます。

 主の御名をみだりに唱える者は呪われます。その人は神の御名を汚したからです。誰でも自分の名が汚されたら多かれ少なかれ憤らない人はいないでしょう。神も御自身の御名が不正に使われたら憤られるのです。人の場合は名が汚されても必ず処罰されるわけではありませんが、神の場合は御名が汚されたら必ず処罰をなさいます。その処罰は御心のままに与えられますから、「こういう処罰だ。」と具体的に言うことはできません。しかし、どのような処罰であっても悲惨な処罰であることは間違いありません。御名をみだりに唱える者は、御名をみだりに唱えている時点で既に呪われています。つまり、既に呪われているからこそ、御名をみだりに唱えるという呪われたことをするのです。もしその人が呪われていなければ、御名をみだりに唱えはしなかったでしょう。

 第三戒目の本質は「御名を神聖に保つ」ということです。つまり、神は御自身の御名が神聖に保たれるのを望んでおられるからこそ、『御名を、みだりに唱えてはならない。』と言われたのです。ですから、聖徒たちは単に御名を不正に使わないというだけではいけません。御名を不正に使わないだけでなく、むしろ御名が更に高められるようにし、御名がサタンにより汚されているのであればそれを阻止すべきなのです。これは間違いなく御心です。このようにして初めて私たちは第三戒を十全に守れたと言えるのです。というのも、自分一人だけが御名をみだりに唱えなかったとしても、サタンが人々に御名をみだりに唱えさせようとしている状況を阻止しないのであれば、その人は正しいと言えるでしょうか。その人が酷い状況を放置するのは御心に適うでしょうか。また、その人に神への愛はあるのでしょうか。その人は人々が御名をみだりに唱えている状況を放置しているのですから、第三戒における神の御心を全く弁えていません。その人は事実上、自分自身も御名をみだりに唱えていることになります。殺人を阻止できるのに阻止しなかった人が、自分自身は殺人をしていなくても殺人者の共犯者と見做されてしまうのと一緒です。

【20:8~11】
『安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。六日間、働いて、あなたのすべての仕事をしなければならない。しかし七日目は、あなたの神、主の安息である。あなたはどんな仕事もしてはならない。―あなたも、あなたの息子、娘、それにあなたの男奴隷や女奴隷、家畜、また、あなたの町囲みの中にいる在留異国人も。―それは主が六日のうちに、天と地と海、またそれらの中にいるすべてのものを造り、七日目に休まれたからである。それゆえ、主は安息日を祝福し、これを聖なるものと宣言された。』
 第四戒。神は、ユダヤ人が安息日を守るように定められました。この『安息日』とは文字通り安息する日であり、休まねばならない日です。これは土曜日であり、週の最後の日でした。この安息日が定められた目的は3つです。一つ目は、ユダヤ人が神の安息を知るためです。ユダヤ人であれ異邦人であれ、人間の本当の安息は神にあります。ユダヤ人は神の子とされた民族でしたから、休日を持つことで神の安息を学ばなければなりません。しかし休日を持つといっても、週の全てを休みにするのは現実的ではありません。ですから、週の最後の日だけが安息日として定められたのです。ユダヤ人たちはこの日に全き休みを取ることで、神の安息を豊かに感じていたのです。二つ目は、神の民が皆で集まるためです。ユダヤ人は皆揃って神への礼拝を捧げるべきですが、日々の仕事が誰にでもあります。ですから、都合をつけるため週の7日目が会合の日として定められたのです。三つ目は、労働者たちに休息が与えられるためです。7日連続で労働をすると健康に良くありません。ですから、休息のため1日が定められています。これについては申命記5:14~15の箇所を見れば分かります。今でもユダヤ教徒たちはこの安息日を守っています。株の取引や重要な会合でも働くことはありません。モーセの時代のユダヤ人たちについて言えば、彼らは安息日の際、マナを拾い集める仕事は全くしませんでした。しかし、病人を癒したり誰かを助けるといった愛の業であれば行なっても問題ありませんでした。何故なら、律法の本質は愛だからです。ですから愛の業が行なわれるのであれば、安息日が破られても罪とはなりません。福音書に記されている通り、キリストがしばしばそのようにしておられました。また、ラビたちが自分の職務である聖書の講解を安息日にするのも問題ありませんでした。旧約時代のユダヤ人たちにおける大衆は、今とは違って、個人的に聖書を持っていませんでした。ですから、彼らは安息日にラビたちから聖書の話を聞いて学ぶしかありませんでした。それゆえ、もしラビの仕事である聖書講解さえ安息日に禁じられていたとすればユダヤ人たちは霊的な貧困に陥っていたことでしょう。また、安息日に食事を作る仕事は禁じられていませんでした。何故なら、食事は生命と健康を保つためにどうしても必要だからです。これは出エジプト記12:16の箇所から分かります。ユダヤ人たちは、この安息日を神が7日目に休まれたことに基づき遵守すべきでした(11節)。人間は神の似像として創造されました(創世記1章)。ですから、神の似像である人間は、神と同じように7日目に休まねばならないわけです。神でさえ7日目に休まれたのに、神の似像である人間は7日目に休まなくてもよいというのはおかしいと言わねばなりません。人間は創造者であられる神よりも賢慮において優っているとでもいうのでしょうか。そんなことはありますまい。

 この安息日ほど守るよう厳しく命じられている戒めは、他に一つしかありません。それは血を食べることの禁止命令です。ユダヤ人たちは、どれだけ厳しく安息日の遵守が命じられているかよく知っていました。ですから彼らは安息日を何が何でも守らねばならないと焦って意識過剰となり、驚くべきことに戦争の際にも安息日であれば戦いを休んでいたぐらいでした。ユダヤ人と戦っていた異邦人は、このことをよく知っていましたから、ユダヤ人が安息日に休む時を狙ったのです。このためユダヤ人たちは戦争に負け、多くの死者が出てしまったのでした。これはあまりにも行き過ぎであったと言わねばなりませんが、彼らがこれほどまでに安息日に拘っていたという事実は、いかに聖書で安息日の遵守が厳しく命じられていたかということを裏付けています。このように神が厳しく命じられたのは、安息日が非常に重要な意味を持つからです。

 やや話が横に逸れる感じですが、この箇所は進化論を否定している箇所です。19世紀以降、妥協して進化論を受け入れてしまった神学者や牧師は少なくありません。彼らは創造における『六日』すなわち創世記1章に書かれている『六日』を、文字通りに理解していません。彼らはこの『六日』を「数千万年、数十億年という長い時間における諸段階」として理解しているのです。つまり、『六日』とは単なる象徴表現に過ぎないと。このような理解を私は理解できませんが、彼らの理解を私たちが今見ている箇所は完全に反駁しています。何故なら、この箇所の11節目では、創造の六日が実際の六日、つまり「24時間かける6」として示されているからです。神は、御自身が7日のうち最後の日を休まれたからこそ、ユダヤ人もそのようにせねばならないと命じられたのです。であれば、どうして創造の『六日』が数千万、数十億を示しているということになるのでしょうか。もし『六日』がそんなにも長い期間を示しているとすれば、神の創造における振る舞いは、ユダヤ人たちが安息日を守ることの根拠にはならなかったでしょう。何故なら、「神が考えられないほど長い期間をかけて創造された」ということと「ユダヤ人は六日の間働かなければならない」ということは、類似性がないからです。進化論の教師たちは、ダーウィンと世間の目に敗北させられてしまったのです。これは弱さが原因でした。しかし神は憐み深い御方ですから、進化論を捨てて悔い改めるのであれば、イエス・キリストにおいて赦されるでしょう。私たちが心を傾けるべきなのはダーウィンと世間の目ではなく「神の言葉」です。

 これは非常に重要なのですが、この安息日の本質は、イエス・キリストです。安息日はキリストを象徴しています。つまり、安息日とはキリストという実体を示す影なのです。ですからパウロはこう言っています。『こういうわけですから、…安息日のことについて、だれにもあなたがたを批評させてはなりません。これらは、次に来るものの影であって、本体はキリストにあるのです。』(コロサイ2章16~17節)安息日が本体の影だということはヘブル10:1の箇所でもこう書かれています。『律法には、後に来るすばらしいものの影はあっても、その実物はない』。ですから、ユダヤ人たちは安息日に安息日の本体であられるキリストを感じるべきでした。すなわち、安息日に休むことで、やがて来られるキリストという永遠の安息に入ることを感じなければいけませんでした。もし安息日を単なる休日として休むだけならば、それは非本質的でした。何故なら、そのユダヤ人は影だけを見るばかりで、影の実体には目を向けていないからです。もう一度言いますが、これは非常に重要なことです。今や安息日の本体であられるキリストが現われて下さいました。かつては影でしかなった安息日が実体として実現されたのです。このキリストこそが人間における真の安息であられます。人はこのキリストにおいてこそ本当の安息を得られるのです。だからこそ、安息そのものであられるキリストはこう言われたのです。『すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。』(マタイ11章28節)こういうわけですから、もはや安息日の律法はキリストにより成就されています。キリスト御自身が「私は律法を成就するために来た。」(マタイ5:17)と言われた通りです。もう安息日はキリストにより成就されていますから、キリストを信じる者にとって、今や毎日が安息日です。キリスト者は、キリストを信じたその時から、キリストという永遠の安息に入ったのです。ですから、もはやキリスト者は古い影としての安息日を守る必要がありません。もし今でも昔のように厳格に安息日を守ろうとするキリスト者がいれば、安息日とキリストの関係がよく分かっていないのです。今でも安息日を守らねばならないと強く言っている教派や信条は少なからず存在していますが、安息日についての新約的理解が足りていません。カルヴァンの場合、この点について正しく理解しています。私たちはキリストという真の安息者のうちにいるのです。であれば、そのような私たちが、どうして未だにキリストのうちにいないかのように影としての安息日を守らなければいけないのでしょうか。しかし、今でも昔のように皆で週に一度集まる日が必要です。また、神に倣って週に一度身体を休息させることも必要です。ですから、キリスト者は今でも週に一度の休みを取っています。それが安息日を置き換えた「主の日」であって、これは日曜日すなわち週の初めです。この日に聖徒たちは集って礼拝を捧げ、また身体の休息を得ているのです。休みの日が土曜日ではなく日曜日にされたのは、週の初めである日曜日にキリストが蘇られたからです。

 この第四戒が、神に関する戒めの最後です。神に関する戒めを3つと理解するにせよ4つと理解するにせよ、安息日の戒めが神に関する戒めの最後であると考えない人はいません。

【20:12】
『あなたの父と母を敬え。あなたの神、主が与えようとしておられる地で、あなたの齢が長くなるためである。』
 第五戒。ここから人間に関する戒めとなります。これが人間に関する第一番目の戒めであることは絶対に疑えません。パウロがこれは『第一の戒めであ』(エペソ6章2節)ると明言しているからです。

 神は、聖徒たちが『父と母を敬』うことを命じておられます。これは自然法も命じていることですから、恐らく違和感を持つ人はいないでしょう。両親への尊敬に反対する民族や人は、倫理的に呪われています。両親への敬いは、単に態度でだけ示せばよいというわけではありません。態度では敬っているように見えても、心では敬っていなければ、その人はこの律法を守っていません。何故なら、神は人の心を御覧になる御方だからです(Ⅰサムエル16:7)。心を見られる神が、そのような人に対してどうして「あなたは両親を敬っている。」などと言われるでしょうか。ありえません。父と母を敬うとは、すなわち相手を立て、感謝し、礼節を尽くし、怒らず、反発せず、その意向に仕えるということです。例えば振る舞いとしては敬っているのに、親の命令に服従しないとすれば戒めを守れてはいません。何故なら、本当に敬っていれば、本当に敬っていることの表われとして積極的に服従しようとするはずだからです。この戒めは、実の父と実の母について言われています。では養子とされた子における親の場合はどうすればよいのでしょうか。養子の親の場合も、法的・社会的に言えばしっかりとした親なのですから、敬われるべきです。これは自然に考えれば分かることでしょう。養子の親であれ誰であれ、自分に良くしてくれる目上の人を敬わないというのは、バケモノのようだからです。この第五戒は、中国や韓国など目上の人を敬う文化がある社会であれば、かなり守りやすい戒めです。何故なら、そのような社会にいる人たちの多くは、『父と母を敬え。』と命じられる以前から既に父と母を敬えているからです。しかし、目上の人に反発する人が多くいる社会であれば、これは守るのがなかなか難しい戒めです。では、神が親を敬えと命じられた理由は何なのでしょうか。その理由は、子の存在が親に基づいているからです。子は親なくして存在していません。子はその存在を親に負っています。だからこそ、神は子が自分の源である親を敬うように命じられたのです。この命令が人間に関する第一の戒めであり、次に書かれている殺人禁止の戒めよりも先であるということは、非常に重要です。これは神がこの戒めを非常に重視しておられるということです。神はとにかく聖徒たちが父と母を敬うのを望んでおられるのです。この順番は、人を殺すことよりも親を敬うほうが重要であることを意味しています。何故なら、親を敬うというのは道徳の基礎だからです。親を敬うという最も基本的な道徳さえ守れない人は、その他の道徳を尚のこと守れないはずです。その人には親を敬うという最も基本的な倫理的能力さえないからです。

 神は、この戒めを守る者には長生きをさせて下さいます。親を敬う者には寿命の祝福が与えられるのです。それは、その人が御心を行なっているからです。神は正しい者には慈しみ深くあられます。神はこのように戒めを守るなら長寿が与えられると約束することで、聖徒たちを律法の遵守へといざなっておられます。しかし、次のような疑問を持つ人もいるかもしれません。「世の中には両親を敬っているのに早死にしたり、それとは逆に両親に逆らってばかりいるのに長生きする者もいるのではないか。」確かにこのような事例があることを私は認めます。しかし、神はここで絶対的な約束を示しておられるのではありません。ここでは両親を敬う者が一般的に神から長生きさせてもらえるということが言われているに過ぎません。神は確かに両親を敬う者を長生きさせられますが、全ての場合でそのようにされるというのではありません。ここで言われている約束は絶対原則ではなく一般原則なのです。ですから、両親を敬っているのに早死にした人や両親に逆らっているのに長寿である人がいたとしても、この箇所での約束が偽りであるということにはなりません。

 この第四戒における本質は「目上の人に敬意を持つこと」です。神は秩序と礼節を重んじておられます。またこの世界では人々の間に正しい関係が構築されなければいけません。もし人が目上の人を敬わなければ、世界からは秩序も礼節もなくなり、人々の関係は誠に醜くなってしまうでしょう。だからこそ神は、人間が最も敬わなければならない人間である両親を挙げて、『父と母を敬え。』と命じられたのです。ですから、神の御心をこの戒めから汲み取るのであれば、私たちは両親以外にもあらゆる目上の人を敬わなければならないことが分かります。王などの権威者、共同体のリーダー、上司、先生と呼ばれる存在、兄や姉といった人たちは多かれ少なかれ敬わなければなりません。パウロもこのように言っています。『あなたがたは、…敬わなければならない人を敬いなさい。』(ローマ13章7節)今の日本を見ると、私の感覚では、傾向として目上の人を敬うということが疎かにされているように感じられます。もし本当にそのようになっているとすれば、実に残念なことだと言わねばなりません。今では子が親をその名前で呼ぶということもあるぐらいですし、皇室の廃止を求めている人やあらゆる既存の権威を破壊しようとしている共産主義も珍しくありません。また、大人たちは反発されることを恐れて子どもたちに注意しなくなってきています。このままいけば、目上の人を敬わない今の傾向はますますエスカレートしていくと推測されます。

【20:13】
『殺してはならない。』
 第六戒(ルター派はこれを第五戒とします)。これは自然法も命じるところであり、どの国でも禁止されていますから、違和感を持つ人はいないはずです。「世の中には殺人を悪と見做さない未開人や狂人もいるのではないか。」などと言うことはできません。何故なら、彼らは倫理的に堕落しているからです。例外的な人たちを、一般的な考察の基準とすることはできません。神は殺人を犯す人には、死をもって報いられます。創世記9:6の箇所でこう書かれている通りです。『人の血を流す者は、人によって、血を流される。』律法でもこう言われています。『いのちにはいのち。』(申命記19:21)例えば誰かからお金を奪った人は、自分が奪った分と同額か同額以上のお金を返さねばならないはずです。それと同様で、人の命を奪った者は、自分の命をもって報いられなければなりません。今の世界や昔の歴史を見ると、確かに神は殺人者を報いとして死なせておられることが分かります。これについては、聡明なリンネの注目すべき作品である「神罰」という本を読むのがよいでしょう。この本の中でリンネは実際に殺人者が神罰を受けて殺されている出来事を非常に詳しく幾つも書いてくれていますので、恐れ戦かされる人も多いはずです。要するに、人を殺す者は未来の自分を自分で死なせています。何故なら、神は人がした通りにその人にもされるからです。『あなたがしたように、あなたにもされる。』(オバデヤ15)と聖書に書かれている通りです。ですから、殺人者が報いとして酷い死に方をしたとしても、それは全く自業自得だと言わねばなりません。しかし、モーセはどうなるのでしょうか。既に見た通りモーセは殺人を犯しましたが、それにもかかわらず神から死の刑罰を受けてはいません。それどころかモーセは120歳までも神に生かしてもらうことができました。確かに聖書は、神が殺人者を報いとして殺されると教えています。ここで私たちは、律法の立法者であられる神が裁きの裁量権を持っておられることを知るべきです。すなわち、神には殺人者に死の刑罰でない刑罰をお与えになる自由があります。これは国家に犯罪人を恩赦する自由があるのと同じです。法がどのような刑罰を定めていようとも、国家が恩赦を出せば犯罪人たちは刑罰を免れたり減刑されたりするのです。そのような裁量権を持っておられる神は殺人を犯したモーセに対し、死を与えられる代わりに、40年もミデヤンの荒野で生活させるという刑罰をお与えになりました。快適さに満ちたエジプトからつまらなく寂しいミデヤンの荒野に移されて生活させられるというのは、言い過ぎですが天国から地獄に移されることですから、死に代わる刑罰として適切でした。私たちは神が刑罰の権利を全て持っておられることを知らねばなりません。ダビデもやはり殺人を犯したのに死の刑罰は受けませんでした。ダビデは殺人罪の刑罰として自分が死ぬ代わりに、生まれたばかりの子を失うことになりました。神はダビデの死を望まれなかったので、ダビデを殺す代わりにダビデの子を殺されたのです(Ⅱサムエル12:18)。なお、この戒めが人間に関する戒めの二番目に置かれているのは、その重要性の大きさを示しています。つまり、神は聖徒たちが殺人罪に走ることを大いに忌み嫌っておられます。

 第六戒の本質は「隣人の命を心から愛すること」です。神は聖徒たちが隣人の命を自分の命も同然に思うのを望んでおられます。ですから、人の命を愛さないことの極致である殺人を挙げて、『殺してはならない。』とお命じになったのです。この戒めは隣人の命を重んじることがその本質ですから、たとえ実際には殺さなかったとしても、心の中で殺そうとすれば違反者となります。その人は、神の御前ではれっきとした殺人者です。何故なら、神は人の心を見られるからです。ですから律法では人を殺そうとすることさえも禁止されています。『あなたの隣人の血を流そうとしてはならない。』(レビ記19:16)と書かれている通りです。この律法の本質を弁えるのであれば、私たちは隣人の命を守り、誰かにより危害が加えられないように働きかけるべきであると理解できます。すなわち、隣人の命を保護し、危害から遠ざけることで、私たちは初めて『殺してはならない。』という戒めを十全に守れたことになるのです。そのようにしない人は、この戒めを守れていません。「隣人の命を保護したりしなくても別に実際の殺人は犯されていないではないか。その命を保護したりしなかっただけでも殺人になるのか。」と思われるかもしれません。確かに社会的な意味において殺人は犯されていませんが、霊的な意味では殺人が犯されています。その人は『殺してはならない。』という戒めを文字通りには犯していませんが、その本質においては犯しています。もし律法を単に文字通りに守ればよいというのであれば、愚かなパリサイ人となってしまいます。私たちは『律法が霊的なものであることを知』(ローマ7:14)らねばなりません。キリストも律法が霊的であることを私たちに示しておられます。主は、兄弟に対して憤ったり、兄弟を軽蔑したりする者は、この戒めに違反していると教えられました。マタイ5:21~22の箇所で主がこう言われた通りです。『昔の人々に、『人を殺してはならない。人を殺す者はさばきを受けなければならない。』と言われたのは、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。兄弟に向かって腹を立てる者は、だれでもさばきを受けなければなりません。兄弟に向かって『能なし。』と言うような者は、最高議会に引き渡されます。また、『ばか者』と言うような者は燃えるゲヘナに投げ込まれます。』キリストがこのように言われたのは、兄弟を蔑ろにする者は、その兄弟の命を心において愛していないからです。つまり、その人は兄弟の命を憎んでいるわけです。このように兄弟を憎む者は兄弟を実際に殺していなくても殺人者であり、『殺してはならない。』という戒めを犯しています。ヨハネが『兄弟を憎む者はみな、人殺しです。』(Ⅰヨハネ3:15)と言っている通りです。ここで、「律法が霊的にも守られなければいけないとすれば、一体誰が神の律法を忠実に守れるのか。」と思われるかもしれません。これはその通りです。私たち人間は、キリストお一人を除いて、誰も律法を忠実に守ることができません。それはパウロがガラテヤ書で教えている通りです。私たちは誰でも例外なく罪人なのです。ですから、律法を忠実に守れない私たち罪人には、イエス・キリストの血による贖いが必要なのです。