【出エジプト記20:14~21:25】(2021/10/17)


【20:14】
『姦淫してはならない。』
 第七戒(ルター派では第六戒)。これは人間に関する戒めの第三番目ですから、先の二つの戒めのほうが重要性において優っています。神は、聖徒たちが性的にふしだらな行ないをするのを禁じておられます。『姦淫』とは正式な配偶者以外の異性と寝ることです。聖書では『不品行』という言葉がよく出てきますが、これは『姦淫』と意味的に同じです。例えば、女子大生が彼氏と事に及んだり、妻帯者の不倫がこれに該当します。国や地域によっても違いはありますが、多くの国や地域において、これは一般的に罪悪とされません。ここ日本でもそれは罪悪とされません。しかし、国や地域でどのように思われていようとも、それは神の御前において紛れもない罪悪です。神が聖徒たちに姦淫を禁じられたのは、聖徒たちが自分たちの主であられる神のように聖とならなければいけないからです。神はこう言っておられます。『あなたがたは聖なる者となりなさい。わたしが聖であるから。』(レビ記11章45節)聖徒たちは聖潔を得るために召されました。ですから、姦淫という汚れに染まってはいけないのです。それはパウロが、『神が私たちを召されたのは、汚れを行なわせるためではなく、聖潔を得させるためです。』(Ⅰテサロニケ4章7節)と言っている通りです。しかしながら、この戒めはルベンやサムソンやダビデやソロモンといった人たちでさえ守れませんでした。宗教改革者もこの戒めを普通の人が守るのは決して容易ではないと認めていますし、アウグスティヌスも信仰を持つまでは姦淫に染まっていました。学識高いあのヒエロニムスでさえ、姦淫の魔力にずっと悩まされていました。聖徒たちでさえこうなのです。それにもかかわらず生涯の貞潔を誓った修道士たちの無思慮さとくれば、どれだけ愚かだったでしょうか。彼らは貞潔の誓いを立てておきながら、それを守れませんでした。ですから、修道院が不品行の館だと言われることもあったぐらいです。今のカトリックの司祭たちも、その愚かさにおいて修道士たちに引けを取らず、結婚しないで独身を貫き続けています。彼らにはずっと誘惑に陥らないでいられるという前提があります。だからこそ、カトリックの司祭たちには結婚が許されていないわけです。ところが、彼らは結婚しないために、飢えにも似た性欲に打ち負けて姦淫に陥ってしまっています。それは私たちがしばしば国際ニュースで聞いている通りです。アメリカのあるカトリックの教区などは、あまりにも酷い姦淫が司祭により行なわれていたため、被害者たちから訴えられて破綻してしまったほどです。

 先にも述べたように律法とは霊的ですから、ただ文字通りに理解し実行すればよいというわけではありません。それは霊的に理解し実行されるべきものです。ですから、キリストは心の中で異性に情欲を抱けば、たとえ事に及んでいなかったとしても、この戒めに違反したことになると教えられました。すなわち、主はこう言われました。『『姦淫してはならない。』と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。だれでも情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのです。』(マタイ5章27~28節)つまり、異性を目で追いかけて眺めるのは明らかに姦淫となります。ある日本の女性歌手の歌の中に「違う制服の女子高生を眼で追っているの知ってるのよ」という歌詞があります。これは間違いなく姦淫の罪です。ヒトラーがエヴァ・ブラウンに初めて会った時、ずっとその足をまじまじと見つめていましたが、これは姦淫の罪です。ヒトラーは自分のことをキリスト教徒だと言っているのですが…。また、世界で最も有名なプロデューサーの一人であるクインシー・ジョーンズがマイケル・ジャクソンとスタジオにいた際、娼婦が入って来て隠し所を曝け出したのでクインシーとその仲間(ロッド・テンパートン)は長々と嬉しそうに眺めていたのですが、そんな中、マイケル・ジャクソンだけは家具の下に逃げ隠れて見ようともしませんでした。マイケルがこのようにしたのはキリストの御言葉に適っています。もっとも、マイケル・ジャクソンは異端者すなわちエホバの証人だったのですが…。しかしながら、自分の正式な配偶者だけはこれに含まれていません。配偶者だけは、その身体を性的に見ても姦淫とはなりません。その異性だけは例外ですから情欲を向けることが許されているのです。箴言5:19の箇所では妻のことについてこう書かれています。『愛らしい雌鹿、いとしいかもしかよ。その乳房がいつもあなたを酔わせ、いつも彼女の愛に夢中になれ。』ここで妻の乳房に酔えと言われているのは、つまり妻の身体であれば情欲をもって見ても罪にはならないということです。これは自然に考えても分かります。もし配偶者にさえ情欲を持ってはならないとすれば、どうして子どもが作れるでしょうか。配偶者への情欲が禁止されているなら、そもそも事を行なうことさえできません。それは身体的にも不可能となります。行為は情欲があってこそ成り立つように仕組まれています。もし配偶者への情欲も罪だとすれば、人類は子を生めず滅んでしまうことになります。

 姦淫、殊に実際の姦淫を犯すのであれば、その人は神からの裁きを受けます。ヘブル13:4の箇所でこう言われている通りです。『神は不品行な者と姦淫を行なう者とをさばかれるからです。』世の中では、姦淫を犯しても処罰されるということは通常ありません。もちろん、中には処罰される国や地域もありますが、多くの場所では処罰が行なわれていません。ここ日本もそうです。しかし、世の中が姦淫を処罰しなかったとしても、神は姦淫を処罰なさいます。姦淫により神から裁かれた者は数知れません。J・F・ケネディはカトリック教徒でしたが色情狂であり、女から離れることができませんでした。ですから神は彼を裁かれ、殺されることを良しとされました。プロテスタント教徒のマーティン・ルーサー・キングも姦淫の罪を犯し続けており、女を止められませんでした。このため神はこの偽牧師の姦淫を裁いて暗殺に委ねられたのです。ガンディーも姦淫者であって、驚く人も多いでしょうが、毎日淫乱な夜を過ごしていました。彼はキリスト教徒ではありませんでしたから、そうすぐには罰せられませんでしたが、時が満ちると神の裁きにより暗殺されてしまいました。マリリン・モンローも姦淫女であり、ケネディと関係があったことは有名な話です。神は彼女の姦淫を裁かれたので、彼女は子を産めない身体となり、36歳の若さで死ぬこととなりました。「エッセー」で有名なモンテーニュも、彼はカトリック教徒でしたが、聖書の教えに反して淫乱な楽しみをしていました。神がモンテーニュを裁かれたので、彼は結石の絶大な痛みに苦しむこととなり、自分が快楽を味わった正にその場所で正当な罰を受けることになったのです。カエサルはプレイボーイであり、クレオパトラとの関係が有名ですが、淫行には抵抗を持っていませんでした。神がカエサルの姦淫を裁かれたので、彼は暗殺されてしまいました。カトリックだったデカルトも愛人との楽しみを持っていました。デカルトが迫害され、オランダに亡命しなければいけなくなり、多くの人たちから学問的な非難を受けることになったのは、神が彼の姦淫を裁かれたからでしょう。日本の初代内閣総理大臣である伊藤博文は女狂いであり、明治天皇から注意されたのにもかかわらず、女遊びを止めることがありませんでした。ですから、彼は神の裁きとして、安重根に暗殺されてしまうことになったのです。ナチスを統導していた高官たちには、愛人や不倫といった性的な醜聞が多くありました。このナチス率いるドイツが連合軍に敗けてしまった理由の一つは、間違いなくこの姦淫罪にあります。「ジャズの帝王」と呼ばれるマイルス・デイヴィスも、女狂いであり、自伝によれば1000人ぐらいと関係を持ったようです。彼が不可解と思えるぐらいに多くの不当な取り扱い、病気、苦痛、困難、不名誉により悩まされることとなったのは、神が彼の姦淫を裁いておられたからとしか考えられません。聖書に書かれている事例も見てみましょう。ダビデは姦淫に陥りましたから、裁きとして自分の子が死ぬことになり、妻たちも奪われることになりました(Ⅱサムエル12章)。ソロモンも姦淫をし続けていましたから、晩年には偶像崇拝に陥る羽目となり、裁きとして国が引き裂かれ、神から起こされた強い敵に悩まされることとなりました(Ⅰ列王記11章)。ルベンは酷い姦淫に陥ったので、父ヤコブから嫌われ、その罪は永遠に記憶されることとなりました(創世記35:22、49:3~4)。サムソンも姦淫の罪を犯したので、デリラにより強大な力の源が明らかとなり、ペリシテ人の手に陥るという悲惨な裁きを受けてしまいました(士師記16章)。姦淫をした者には神の裁きが下されるというのは、不倫をしたので離婚して莫大な慰謝料を支払う羽目になった有名人のニュースや、まだ中学生または高校生なのに子どもが出来たのでどのようにすればいいか分からず苦悩している若い子や、不快な性病を移されてしまった人たちを見ても分かります。もし姦淫をしなければこんなことにはなっていなかったでしょう。つまり、神の裁きは下されていませんでした。HIVウィルスを移されたので絶望している人もいますが、間違いなく神からの裁きです。夫婦だけに留めていればHIVに感染するということはないからです。これとは逆に、姦淫をしないのであれば裁かれず、むしろ祝福があります。それは、その人が神のように聖潔なので、神からの好意を受けられるからです。王が自分の気に入る者や正しく良い行ないをしている者に褒美を与えるのと一緒です。私たちも、好きな人や正しいことをしている人がいれば、良くしてやるものでしょう。神が姦淫しない者に良くして下さるのは、それと一緒です。このような祝福の事例も幾つか見てみましょう。ルターは自分でも言っているように、姦淫から遠ざかっていました。ですから神はルターを祝福して用いられ、キリスト者でない人々の間でもその名が照り輝くことになりました。アウグスティヌスも救われてからは女から全く遠ざかりました。そのため神の祝福を受けることができ、アウグスティヌスは大いに用いられたのです。ニュートンは生涯独身であり、恐らく童貞であったと思われますが、女には全く関心を示していませんでした(その代わりお金には強い関心を持ちました)。このためニュートンは祝福され、ヨーロッパ全土で称賛・評価されることになり、イギリスではほとんど神のような取り扱いを受け、その葬儀も国葬で行なわれたぐらいでした。アメリカの社会では性的な露骨さが嫌悪されており、もし誰かの不倫がバレたならば社会的な地位や立場が重大な危機に晒されてしまいます。アメリカが経済的に繁栄している理由の一つは、性に対するこのような社会傾向が祝福されているからです。

 食物の飢えに耐えられない人は大勢います。それと同じで性の飢えに打ち勝てない人も多くいます。人間はまだ堕落する以前、この性欲を完全にコントロールできる力がありました。しかし堕落して以降、人はこの性欲に弱くなってしまいました。どれだけ堕落後の人間が性の飢えに打ち勝てないでいるか、わざわざここで説明する必要はないと思われます。堕落前のアダムのように性欲を抑制できる人はそう多くありません。キリストもこのことについて示しておられます(マタイ19:9~12)。それでは、どうしても自制できない人はどうすればよいのでしょうか。私は確かなことを言いますが、その人は結婚すべきです。それはパウロがこう言っているからです。『不品行を避けるため、男はそれぞれ自分の妻を持ち、女もそれぞれ自分の夫を持ちなさい。』(Ⅰコリント7章1節)『もし自制することができなれけば、結婚しなさい。情の燃えるよりは、結婚するほうがよいからです。』(Ⅰコリント7章9節)つまり、燃え上がる性欲は結婚して夫婦関係の中で処理すべきだということです。そうすれば姦淫の罪を犯すことなしに性の飢えを癒せるからです。酷く食物に飢えている人に向かって「飢えに耐えよ。」などと言うのは酷でしょう。ですから、パウロは性的に飢えている人に対して「性的に自制せよ。」とは言いませんでした。堕落して弱くなっている人間がそうするのはなかなか難しいからです。性的な飢えは配偶者という食物によって対処されるべきであり、姦淫という性的食物の盗みをすることで対処されてはならないのです。しかし、性風俗を利用して性の問題を解決するのは駄目なのでしょうか。パウロの時代では遊女が現代の性風俗に該当しますが、パウロはⅠコリント7章で遊女を使うことにより燃える情を解消せよとは命じていません。むしろ、パウロは遊女との交わりを禁止しています(Ⅰコリント6:15~16)。ですから、性風俗は避けるべきです。しかし、結婚しようにも結婚する相手がいない場合はどうすればよいのでしょうか。その人は不可能のない全能の神に祈るべきです。神がパウロを通して自制できない者は結婚せよと命じられた以上、祈り続けていれば最終的に神の用意して下さった結婚相手が与えられるでしょう。では、牧師や伝道師たちは一般信徒たちに対してどうすればよいのでしょうか。彼らはもし出来るというのであれば、すなわち神がそうさせて下さるというのであれば、ルターが修道士たちの結婚を斡旋したように(このようにするとは流石のルターです)、一般信徒たちの結婚を斡旋できれば喜ばしいでしょう。何故なら、そうすれば一般信徒が姦淫から遠ざけられる上、新しい家庭と幸福と神への感謝が生じ、更には教会の信徒数もやがて増えることになり、一石三鳥だからです。

 この戒めにおける本質は「汚れを避けること」にあります。神は、聖徒たちが聖潔でい続けるのを望んでおられます。だからこそ、ここでは汚れの極致である実際の姦淫が挙げられているのです。それゆえ、実際の姦淫が行なわれていなくても、汚れた行為や振る舞いがされたならば、この戒めの違反となります。神は、この戒めにおいて全てが聖であることを求めておられるからです。例えば、下品な冗談を言うことは罪となります。それは汚れたことだからです。ですから、パウロはこう言っています。『あなたがたの間では、聖徒にふさわしく、不品行も、どんな汚れも、またむさぼりも、口にすることさえいけません。また、みだらなことや、愚かな話や、下品な冗談を避けなさい。そのようなことは良くないことです。』(エペソ5章3~4節)また霊媒や口寄せ、およびそのような類の人たちに未来を任せたり頼んだりするのも罪となります。何故なら、それは汚れることだからです。律法はこう命じています。『あなたがたは霊媒や口寄せに心を移してはならない。彼らを求めて、彼らに汚されてはならない。』(レビ記19章31節)例えば、実際の姦淫はしていない人がいたとします。しかし、その人は下品な冗談をたびたび口にしています。この人は、汚れたことをしているという点で実際の姦淫者と変わりありません。潔癖で有名なピューリタンたちは、やや行き過ぎな面もありましたが、汚れを大いに避けるという方向性について言えば、『姦淫してはならない。』という戒めの本質に適っていました。

【20:15】
『盗んではならない。』
 第八戒。神は聖徒たちに盗みを禁じられます。盗みとは、他人の所有権の下にある物を不当に自分の所有下に移すことです。どうして盗みが罪であるかと言えば、盗みには愛がないからです。被害を受ける人への愛がないからこそ、盗む人は被害を受ける人の所有権を重んじないのです。愛の神は、愛に反した行ないを嫌っておられます。ですから、盗みという愛に反した行ないは罪なのです。この盗みは自然法によっても罪とされます。何故なら、自分の所有物を盗まれて嫌にならない人など誰もいないはずだからです。神はこの盗みに対して裁きをお与えになります。盗んだ人はもし盗みが見つからなければやがて自分も誰かから盗まれることになるでしょうし、もし盗みが見つかったならば社会的・精神的・金銭的な損害を受けることになるでしょう。裁判沙汰になった場合は、その国の刑罰により、盗みに対する裁きの度合いが変わってきます。古代のギリシャやローマでは、盗人が死刑にされていましたが、これは幾らなんでもやり過ぎだったと言わねばなりません。律法では、盗んだ物は何倍にも増し加えられて償われなければならないと命じられています。例えば、牛や羊を盗んで失わせた場合、牛は5倍にして、羊は4倍にして償われなければいけません(出エジプト記22:1)。しかし、その盗まれた牛や羊が失われていなければ2倍の償いとなります(出エジプト記22:4)。

 『盗んではならない』のは目に見える所有物だけでなく、目には見えない権利なども含まれます。例えば、雇い主が日雇い人の賃金を翌日または翌日以降まで支払わず後伸ばしするのであれば、その雇い主は日雇い人の権利を盗んだことになります。何故なら、その日雇い人は賃金をその日に貰う正当な権利を奪われたからです。ですから、律法はこのような雇い主を罪に定めています。『日雇人の賃金を朝まで、あなたのもとにとどめていてはならない。』(レビ記19章13節)と書かれている通りです。また、盗作もこの戒めへの違反となります。盗作は罪ですから、盗作をした人は裁きとして批判されたり軽蔑されたりしてしまうのです。ネットでは、中国や韓国のパクリがよく非難されているのを見かけます。日本の有名な企業である松下電器は他社製品に似た物ばかりを作っていたので「マネシタ電器」などと揶揄されてしまいました。今の時代は、このような罪を防止するために著作権の概念が発達してきています。これは知的な盗みを抑制し処罰するためには良い方策です。しかし、盗作と思えても、オマージュなのかパロディなのか盗作の対象が公式的な要素を持っているので実は盗作と言えないのではないか、という線引きが難しい場合もしばしばあるでしょう。また似ていれば何でも盗作だと思ってしまう人も多いと思われます。これについては知的財産権に対する大衆の意識が更に磨かれることが待ち望まれます。また、「芸術は模倣から始まる」などと言われますが、最初は盗まないとそもそも一人歩きするための一歩さえ踏み出せない場合や分野もありますから、そのような時は大いに考えさせられます。

 これは人間に関する戒めの4番目ですから、先の3つの戒めのほうが重要性において優っています。これは誰でも納得するところではないでしょうか。盗みよりも、明らかに姦淫と殺人と両親への不敬のほうが邪悪だからです。しかし、両親への不敬だけは盗みよりも重要ではない、あるいは重要性がどちらも同等程度である、と思われる方もいるかもしれません。しかし先にも述べた通り、両親への尊敬は道徳の基礎・基本ですから、それは盗みよりも倫理的な重要度において優っていると考えられるべきでしょう。

【20:16】
『あなたの隣人に対し、偽りの証言をしてはならない。』
 第九戒では、聖徒たちが偽って証言することを禁じています。この『偽りの証言』とは訴訟上のことです。十戒が公布された時のイスラエルは、まだイテロにより裁判制度が体系化されたばかりでした。そのためイスラエル人の心には訴訟について強い印象がありました。その訴訟において嘘が語られるのは避けられねばなりません。ですから、ここでは『偽りの証言をしてはならない。』と言われたのです。もちろん、この戒めは訴訟上における嘘だけでなく、日常生活で嘘をつくことも禁じています。嘘が悪であるというのは、いちいち説明するまでもないことでしょう。ですから、パウロは聖徒たちが真実をこそ語らねばならないと命じています。『ですから、あなたがたは偽りを捨て、おのおの隣人に対して真実を語りなさい。』(エペソ4章25節)この嘘は、人類に満ち満ちている罪の一つです。嘘をついたことがない人は恐らくいないでしょう。嘘がそれほど大きな悪ではないと感じている人もいるはずです。ちょっとした嘘をつけばその場を上手にやり過ごせるので、嘘を使うのが望ましいと感じられる場合も多くあります。子どもたちも平気で嘘をつきます。独裁者や共産国は嘘のオンパレードです。このような一般性のため、偽証の戒めは人間に関する戒めの第五番目に置かれています。つまり、前の4つに比べれば嘘の罪はその重大性において劣っています。しかし、嘘をついても罪にならない場合が一つあります。それは人の命を救うためにつかれる嘘です。言い換えれば、嘘をつかないと人の命が失われたり悲惨になってしまう場合の嘘です。このような場合は、嘘をついても律法違反となるどころか、むしろ愛の行ないとなります。何故なら、律法とは愛の法であり、それは隣人を愛するための戒めだからです。例えば、ある人が誰かの命を助けようとして嘘をついたならば、その人は『偽りの証言をしてはならない。』という戒めを実行したのです。その人は字義的にはこの戒めを行なっていませんが、本質的にはそれを行なっています。何故なら、神は隣人を愛するべきだからこそ『偽りの証言をしてはならない』と言われたのだからです。もしこの戒めを字義通りに守ったので人の命が失われたとすれば、この戒めが破られたことになります。その人は第九戒を字義通りには守りましたが、第九戒の究極目的である愛は実践しなかったからです。これの最も良い例は遊女ラハブです。彼女はイスラエル人の命を救うため、王から遣わされた使者たちに嘘をつきましたが(ヨシュア記2:1~7)、もし彼女がこの戒めを字義通りに守っていたとすればイスラエル人の命は恐らく失われていたでしょう。聖書は、字義的に言えば律法に違反したこのラハブの行ないを非難するどころか称賛しています(ヘブル11:31)。ですから、このような場合は戒めに字義通りに違反することで戒めを本質的に実行することになります。要するに、嘘には「罪の嘘」と「愛の嘘」の2つがあるのです。子どもがまだ知ってはならないことを尋ねた際に嘘の答えを言うのも「愛の嘘」に分類して良いでしょう。そのような時に嘘をつかなければ子どもが大変なことになりかねませんから。

 今述べた愛の嘘は別として、嘘をつくならば神から裁かれます。嘘をつけば批判されたり見下されたりされることにもなります。ビジネスであれば取引相手や客から信頼されなくなるでしょう。高い地位にいるのであれば辞任しなければいけなくなるかもしれません。嘘をついたことで裁判になることもありえます。いつも嘘ばかりついている人がいたらどうでしょうか。誰がその人の言うことを信用するでしょうか。中国人は国家的にも個人的にも嘘をつくことに抵抗がありません。ですから、他の民族から警戒されるのです。神は偽りを言っている者たちを裁き滅ぼされます。ダビデが神に『あなたは偽りを言う者どもを滅ぼされます。』(詩篇5:6)と言っている通りです。嘘つきは恐るべき地獄に投げ込まれます。『すべて偽りを言う者どもの受ける分は、火と硫黄との燃える池の中にある。』(黙示録21章8節)と書かれている通りです。その人は天国という都に決して入れません。『偽りとを行なう者は、決して都にはいれない。』(黙示録21章27節)と書かれている通りです。要するに神は偽りを言う者を嫌われます。

 この第九戒の本質は「口に愛と聖さを保つこと」です。神は、聖徒たちの口が愛のために使われ、聖くあることを望んでおられます。ですから、口を不正に使うことの代表例である偽証がここでは挙げられているのです。それゆえ、この戒めを字義通りに捉え、ただ嘘をつかないというだけでは足りません。嘘をつかないだけでなく、自分の口をあらゆる場面で愛のために使い聖く保ってこそ、この戒めを十全に守れたと言えるのです。ただ嘘をつかないだけでは、その口において神に喜ばれることはできません。先にも述べた通り、律法は霊的に捉えてこそ十全に全うできるからです。例えば、嘘は塵ほどもつかないのですが、その口で忌まわしいことばかり言っている人が神に嘉せられるでしょうか。決して嘉せられるはずがありません。

 神は心の中を見られる御方ですから、この戒めは心の中で嘘をつこうとすることも禁じています。ですから、実際には嘘をついていなくても、心の中で「嘘をついてアイツが正しいことを知れないようにしておこうか。」などと思ったならば、第九戒の違反者となります。このように律法を霊的に守らねばならないとすれば、どれだけ律法の道徳的規準が高いかよく分かるはずです。戒めは文字通りにだけでなく心の奥底においても守られなければいけないのです。このような律法を一体誰が完全に守れるでしょうか。キリスト以外は誰もいません。ですから、『義人はいない。ひとりもいない。』(ローマ3章10節)と言われているのです。私たちがこのように律法を守れない罪人だからこそ、私たちにはキリストの贖いが必要なのです。ユダヤ教徒はと言えば、今に至るまで戒めを表面的にしか守ろうとしていません。彼らは律法を文字通りには守ろうとしますが、そのうちに秘められている神の御心については無頓着です。これはタルムードを読めば分かる通りです。彼らはただただ律法を表面的に理解しようとするだけであり、神がどう思っておられるのか、その律法の背景にある御心は何なのか、ということは全く考えないのです。父に喜ばれる子は、父の命令を文字通りに実行するだけでなく、その命令のうちにある父の意志を汲み取ってその意志をも実践しようとします。キリスト者はそうしようとするのですが、ユダヤ教徒たちはそうしようとしないのです。

【20:17】
『あなたの隣人の家を欲しがってはならない。すなわち隣人の妻、あるいは、その男奴隷、女奴隷、牛、ろば、すべてあなたの隣人のものを、欲しがってはならない。」』
 第十戒。神は聖徒たちが他の人に属するものを何であれ欲しがらないよう命じています。この戒めだけは、これまでの戒めと異なり、心の中だけを取り扱っています。これまでの戒めはどれも行ないを取り扱っていました。世の中は、誰かが他の人の所有物を欲しがったとしても、通常の場合、罪とは定めません。しかし世の中がどのように思おうとも、神はそれを罪と定められます。例えば、誰かが金持ちの持っている高級車を見て「悔しいなあ。何であいつばかりあんな良い車を持っているんだ。ずるいぞ。」などと思ったとします。これは明らかにこの第十戒に違反しています。この戒めを破ったことのない人は、キリスト以外に一人もいないはずです。そのような戒めですから、これは人間に関する戒めの最後に置かれています。神はこの罪を犯した人が裁かれるようになさいます。その裁きというのは、欲しがる思いがやがて実際の危害となって実を結ぶという裁きです。誰かが別の人の所有物を欲しがるならば、嫉妬するので殺意を抱いたり、その人の不幸を願ったりすることになります。実際、ネットを見ると、金持ちに対して嫉妬から「死んでしまえばいいのに。」とか「不幸になれ。」などと言っている人がいます。裁かれると、こういった妬みの思いが行動へと結びつくので、騒ぎになったり逮捕されたりするのです。このようにして心で抱いた嫉妬の思いはやがて処罰されることになります。これについてはヤコブがこう言っています。『あなたがたは、ほしがっても自分のものにならないと、人殺しをするのです。うらやんでも手に入れることができないと、争ったり、戦ったりするのです。』(ヤコブ4章2節)これの最も良い例はヨセフの兄たちでしょう。ヨセフの兄たちはヨセフを嫉妬したのでヨセフを殺そうとしましたが、神がヨセフの死を望まれなかったので、兄たちはヨセフを奴隷として売り渡してしまったのです。創世記37章。

 ルターは、驚くべきことにこの第十戒を2つの戒めに切り裂いています。というのも、ルターは第一戒を第二戒と一緒にして第一の戒めにしているので、残る8つの戒めのどれか一つを2つに切り裂かないと10の戒めにはならないからです。ルターはこの戒めのうち、『あなたの隣人の家を欲しがってはならない。』という部分を第九戒とし、それ以降の『隣人の妻、あるいは、その男奴隷、…』という部分を第十戒とします。何ということでしょうか、これは。この戒めでは「家すなわち妻、男奴隷、女奴隷、云々」と言われているのですから、明らかに一つの戒めとしか考えられません。ルターはプロテスタントの父と呼んでよい大人物ですが、律法の区分においては誤っていました。神は人間崇拝が行なわれないために、ルターがこのような誤りを持ったままでいるようにされました。何故なら、崇拝とは神の専有物だからです。つまり、ルターに神学的な醜い欠陥があるからこそ、ルター崇拝が防止されることになるわけです。

 これで十戒は全て終わります。戒めの数が「10」であるのは、これらの戒めが完全であることを示しています。

【20:18】
『民はみな、雷と、いなずまと、角笛の音と、煙る山を目撃した。民は見て、たじろぎ、遠く離れて立った。』
 全てのイスラエル人たちは山で起きていた光景を見て、その凄まじさに戦慄し、『遠く離れて立った』ままでいました。この時にユダヤ人が感じていた恐れを、その場にいなかった私たちは理解することができないでしょう。ただ物凄い恐怖がユダヤ人に生じていたことは確かです。恐らく、その恐れは911同時多発テロ事件の時にWTCビルが倒壊したのを目の前で見ていた人の恐れに近かったと推測されます。恐れのあまり失神したり、失禁したり、物陰に隠れたユダヤ人がいたかもしれません。子どもたちが泣いていた可能性は高いでしょう。「血の気が引く」とは正にこのことです。

【20:19】
『彼らはモーセに言った。「どうか、私たちに話してください。私たちは聞き従います。しかし、神が私たちにお話しにならないように。私たちが死ぬといけませんから。」』
 ユダヤ人たちは、凄まじい光景を見て戦慄したので、神に服従することを決心しました。しかし、神の命令を直に聞くことはできないと感じられました。何故なら、神の御声は凄まじい稲妻の音に似ているからです。このためユダヤ人たちは、神の命令をモーセが取り次ぐように求めました。モーセの声であれば怖がらずに聞けるからです。これは幼稚園児に屈強な男が話すのではなく、女の先生が屈強な男の話を取り次ぐのと似ています。そのようにすれば園児は安心して話を聞けるのです。

 牧師の必要性・有意味性の一つは、このこと、すなわち「取り次ぐこと」にあります。世の中には「どうして神は教会で直接聖徒たちを教えないで、牧師たちに教えさせておられるのだろうか。」などと思う人がいるはずです。このように思う気持ちは分からないではありませんが、もし神が直に聖徒たちを教えられたならば教会は恐怖に満たされてしまうでしょう。もし神の発される稲妻の声で説教がされたならば、恐怖が何よりも先行するので内容の理解が阻まれてしまうはずです。神はそのようになるのを望まれません。ですから、神は牧師が神の言葉を取り次ぐように定められたのです。牧師が語るのであれば聖徒たちは恐怖を持たないで聞けるだろうからです。

【20:20~21】
『それでモーセは民に言った。「恐れてはいけません。神が来られたのはあなたがたを試みるためなのです。また、あなたがたに神への恐れが生じて、あなたがたが罪を犯さないためです。」そこで、民は遠く離れて立ち、モーセは神のおられる暗やみに近づいて行った。』
 神への服従を示したユダヤ人に対し、モーセは『恐れてはいけません。』と言って応じます。どうして民は恐れるべきではなかったのでしょうか。それは神が現われたのは、ユダヤ人を滅ぼすためではなかったからです。神が来られたのは、ユダヤ人が神にどういう態度を示すのか『試みるため』でした。つまり、神はユダヤ人が御自身に服従するかしないかを知ろうとして、シナイ山に降りて来られたのです。もし神がユダヤ人を滅ぼすために来られたとすれば恐れたとしても仕方ありませんでしたが、神にそのようなつもりはありませんでした。主は、ダニエルの前に現われた際にも『恐れるな。』(ダニエル10章12節)と言っておられます。主は裁きのためダニエルの前に現われたのではなかったからです。同様に主はヨハネに対しても『恐れるな。』(黙示録1章17節)と言っておられます。また御使いも女たちに対して『恐れてはいけません。』(マタイ28章5節)と言いました。これも、やはり御使いが裁きのため女たちの前に現われたのではなかったからです。

 また神がユダヤ人の前に降りて来られたのは、『あなたがたに神への恐れが生じて、あなたがたが罪を犯さないため』でもありました。神の現われによりユダヤ人が戦慄するならば、ユダヤ人は神に服従するようになるからです。というのも恐れは支配を生じさせるからです。例えば、ライオンがシカの群れに来たら、シカたちはライオンの意向に支配されてしまうでしょう。何故なら、もしライオンに気に入られなければ酷い目に遭わされるので、シカは大いに恐れるからです。このようにして神を恐れ神に従うということこそ、人間という被造物の存在意味です。伝道者の書12:13の箇所でこう言われている通りです。『神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである。』

 ユダヤの民が神に服従する意思を示したので、モーセは再び神のおられる山へ戻って行きました。神は山に降りて来られましたが、『暗やみ』のうちにおられました。何故なら、神は暗黒のうちに住んでおられるからです。これは神が目に見えず、物質を越えておられる御方であるということを示しています。神の不可視性・超越性を分からせるためには、暗黒という存在を用いるのが適切なのです。何故なら、暗黒とは的確さがなく把握できないからです。この時には恐らくアロンも一緒に山へ戻ったと思われます。しかし、民は山の麓で『遠く離れて立ち』続けたままでした。もし山に触れるならば容赦なく殺されてしまうからです。

【20:22】
『主はモーセに仰せられた。「あなたはイスラエル人にこう言わなければならない。』
 道徳的な律法は、十戒と細則の2つがあります。十戒は基本的な事柄が取り扱われており、細則は十戒を更に詳しく取り扱っています。ユダヤ人たちは十戒を聞いて服従の意志を示したので、今度は細則が命じられることになりました。何故なら、十戒は細則を内包しているからです。十戒に服従するのであれば細則にも服従するはずなのです。十戒には服従するが細則には服従しないというのはおかしいのです。この細則は出エジプト23:33の箇所まで続きます。

【20:22~23】
『あなたがた自身、わたしが天からあなたがたと話したのを見た。あなたがたはわたしと並べて、銀の神々を造ってはならない。また、あなたがた自身のために金の神々も造ってはならない。』
 神は天からイスラエル人に語って下さいましたが、神に物理的な姿は何も見えませんでした(申命記4:15)。ただ御声が聞こえただけでした。神は御自身の御声を聞いただけであるユダヤ人たちが、銀や金の神々を偶像として造らないよう命じられます。これは、ユダヤ人たちが神の姿を見なかったことで生じた欲求不満を偶像により満たそうとしないためでした。神は、人間に可視的な神を持ちたくなる傾向があることをよく知っておられたのです。ここで銀の神々が禁止されてからすぐに金の神々も禁止されているのは、ユダヤ人が「銀の神々が駄目ならば金の神々はいいのかもしれない。」などという屁理屈を言わないためでした。銀や金以外の素材による偶像制作も禁じられていることは言うまでもありません。ところが、このように命じられたユダヤ人たちは、間もなく金の偶像を愚かにも造ってしまうことになります(出エジプト記32:1~6)。

【20:24~26】
『わたしのために土の祭壇を造り、その上で、羊と牛をあなたの全焼のいけにえとし、和解のいけにえとしてささげなければならない。わたしの名を覚えさせるすべての所で、わたしはあなたに臨み、あなたを祝福しよう。あなたが石の祭壇をわたしのために造るなら、切り石でそれを築いてはならない。あなたが石に、のみを当てるなら、それを汚すことになる。あなたは階段で、わたしの祭壇に上ってはならない。あなたの裸が、その上にあらわれてはならないからである。』
 ユダヤ人は『土の祭壇』を造って犠牲行為をしなければいけません。その時に犠牲となる動物は『羊と牛』です。この動物は清い動物だからです。この羊と牛を『全焼のいけにえ』として祭壇で捧げるならば、それは『和解のいけにえ』となります。何故なら、祭壇で焼かれた時に生じる動物犠牲の煙は、天におられる神を宥めるからです(創世記8:20~21、出エジプト記29:18)。『全焼のいけにえ』とは、動物の全ての部分を焼いて煙にすることです。犠牲として捧げられる動物は、神の永遠の小羊であられる御子イエス・キリストを象徴しています。だからこそ、その御子を示す動物から生じる煙は、神を宥めるのです。子が犠牲にされたのですから父が宥められるのは自然なことです。それゆえ、もし犠牲の動物が御子を示していなかったとすれば、たとえ全焼の生贄を祭壇で捧げたとしても意味は全くありませんでした。この祭壇を石で造るならば、それを人工的に加工させてはなりませんでした。その石は『自然のままの石』(申命記27章6節)でなければなりません。これは贖罪制度が神的に保たれるべきであり、そこに人間的な要素が入り込んではならないことを示しています。また、階段で祭壇よりも高い場所に行く際は、その『裸』すなわち性器が祭壇よりも上に位置してはなりませんでした。人間がそこから生じて来る性器は、人間性を非常によく示していますが、私たちの人間性はアダムにおいて堕落しています。そのような堕落した人間性を示す性器が、堕落した人間の贖罪を成り立たせる祭壇よりも上に位置することはあってはならないことです。

 『わたしの名を覚えさせるすべての所』とは、祭壇が築かれる場所のことです。何故なら、そこでは神の御名において犠牲行為がされるからです。神殿が建設されるまで、ユダヤ人は犠牲を捧げるための祭壇を色々な場所に築いていました。まだその時には神殿という犠牲を捧げる正式な場所がなかったからです。ですから、アブラハムやイサクやヤコブは色々な所で祭壇を築いていました。ヨシュアもエバル山に祭壇を築いています(ヨシュア8:30)。神はその祭壇の場所で、ユダヤ人たちを祝福して下さいました。何故なら、そこでは神に対して和解の生贄が捧げられるからです。神との和解を求めて犠牲を捧げるユダヤ人たちが、どうして神から祝福されないということがあるでしょうか。

【21:1】
『あなたが彼らの前に立てる定めは次のとおりである。』
 ここまで(出エジプト記20:22~26)の戒めは神に関することでした。ここからは人間に関することが命じられます。まず神に関する戒めが語られたのは、神のほうが人間に関する事柄よりも優先されるべきだからです。

【21:2~6】
『あなたがヘブル人の奴隷を買う場合、彼は六年間、仕え、七年目には自由の身として無償で去ることができる。もし彼が独身で来たのなら、独身で去り、もし彼に妻があれば、その妻は彼とともに去ることができる。もし彼の主人が彼に妻を与えて、妻が彼に男の子、または女の子を産んだのなら、この妻とその子どもたちは、その主人のものとなり、彼は独身で去らなければならない。しかし、もし、その奴隷が、『私は、私の主人と、私の妻と、私の子どもたちを愛しています。自由の身となって去りたくありません。』と、はっきり言うなら、その主人は、彼を神のもとに連れて行き、彼の耳をきりで刺し通さなければならない。彼はいつまでも主人に仕えることができる。』
 まずは奴隷に関する戒めから命じられます。今ではほとんどの国で奴隷は見られなくなっています。奴隷という存在はなくなるのが望ましい。何故なら、全ての人は神の御前において自由人であるべきだからです。しかし、古代ではまだそのような考えが持たれておらず、奴隷は当然のような存在だと思われていました。聖書はそのような時代背景を前提として語っていますから、ここで奴隷という存在そのものの可否を取り扱うことはされていません。しかし、神の御心は奴隷制が世界からなくなることです。この奴隷という存在は古代人であるアリストテレスによれば「生きた道具」(『ニコマコス倫理学』)でした。このような言葉を聞くと、奴隷はかなり酷い取り扱いを受けていたのだろうと思われるかもしれません。確かに主人の取り扱いに耐えられず逃亡した奴隷は珍しくありませんでした。しかし、全体的に言えば、私たちが想像しているほどに酷い取り扱いはされていなかったようです。優秀であれば主人から重んじられるイソップやディオゲネスのような奴隷がいましたし、キケロの奴隷のように口述筆記を任されていた奴隷もいましたし(キケロの口述筆記を任されるとは凄いことです)、主人の子どもを教育していた奴隷もいました。私の印象では、少なくとも古代の奴隷はアメリカにおける黒人奴隷に比べれば酷い取り扱いを受けていませんでした。なお、この奴隷の起源についてはよく分かりません。カナンに対して『しもべらのしもべとなれ。』(創世記9章25節)と言われたのが概念的な原型だったのかもしれませんし、ニムロデが支配していた中で生まれてきた存在だったのかもしれません。

 『ヘブル人』(これはユダヤ人の祖先「エベル」がその名の由来です―創世記10:25、11:17)が奴隷の売り買いをするのは禁じられていませんでした。何故なら、財政上の理由からどうしても自分や子どもたちを奴隷として売らなければいけなかったユダヤ人がいたからです。ユダヤ社会でユダヤ人が奴隷として売り買いされて良かったとすれば、異邦人も当然ながら奴隷として売り買いされて問題ありませんでした。しかし、ユダヤ人が奴隷となる場合、ユダヤ人は神の民として本来的に自由であるべきですから、『七年目』には自由の身となることができました。エジプトでの奴隷状態から解放されたユダヤ人が、エジプトから出てからも奴隷であるというのは道理に適っていないからです。神から連れ出されて自由の身とされたユダヤ「民族」は、その構成員である「個人」においても自由の身であるべきなのです。7年目に解放されるのは、「7」が安息を示す数字だからです。ユダヤ人が7年目に去る際は、奴隷になる前と同じ状態で去らねばなりませんでした。すなわち『独身で来たのなら、独身で去り』、『彼に妻があれば、その妻は彼とともに去る』べきでした。もし奴隷の時に主人から妻が与えられた場合は、その妻と妻の産んだ子どもたちを主人に渡してから去らねばなりません。何故なら、その妻子たちは本来的に主人に属しているからです。奴隷が主人の所有する存在(妻とその子)を持ち逃げするというのは許されないことです。

 しかしながら、奴隷が希望するのであれば、主人から与えられた妻およびその子たちと一緒に主人の家で仕え続けることができました。これは妻子を愛している奴隷のためです。その場合、主人は奴隷を『戸口の柱のところに連れて行き、彼の耳をきりで刺し通さなければな』りませんでした。これは現代人が開けているピアス穴の部分です。これを何かに例えるならば、貴賤の度合いは違っていますが、議員が議員であることを示すために議員バッジを付けているようなものです。実際にこのようにして主人の家に居続けた奴隷がどれだけいたのか定かではありません。古代ユダヤ人は新しい妻を持つために、今いる妻を些細な理由から離縁するという習慣を持っていましたから、性的な貪欲さにより、7年経過したら主人の家から去って行く奴隷が多かった可能性もあります。

 このように古代ユダヤ社会において耳の穴は永久的な奴隷であることを示していました。今の時代では飾りのため耳に穴を開けますから、耳に穴が開いている理由は古代とかなり異なっています。耳に穴を開けたユダヤ人がそこにイヤリングをしていたかどうかは分かりません。

【21:7~11】
『人が自分の妻を女奴隷として売るような場合、彼女は男奴隷が去る場合のように去ることはできない。彼女がもし、彼女を自分のものにしようと定めた主人の気に入らなくなったときは、彼は彼女が贖い出されるようにしなければならない。彼は彼女を裏切ったのであるから、外国の民に売る権利はない。もし、彼が彼女を自分の息子のものとするなら、彼女を娘に関する定めによって、取り扱わなければならない。もし彼が他の女をめとるなら、先の女への食べ物、着物、夫婦の務めを減らしてはならない。もし彼がこれら三つのことを彼女に行なわないなら、彼女は金を払わないで無償で去ることができる。』
 ある親が娘を女奴隷として売った際、その娘を女奴隷として買い取った主人が飽き飽きして手放すのであれば、彼女を男奴隷のようにして去らせてはなりませんでした。すなわち、彼女が主人のもとを去る時、外国人に売られてはなりません。何故なら、その主人は『彼女を裏切ったのであるから』です。男奴隷の場合は外国人に売られても構いませんでした。その主人は彼女を『贖い出されるように』せねばなりません。つまり、奴隷になるまでいた親のところに戻さねばなりませんでした。

 その女奴隷を主人が自分の息子に娶らせた場合、彼女は主人から娘も同然として取り扱われねばなりませんでした。何故なら、彼女は主人の息子と一心同体であり、その主人にとって義理の娘だからです。しかし、その妻はあくまでも女奴隷であって正規の妻ではありませんでしたから、主人の息子は他の女性を妻として持つことができました。私たちは、古代では多くの社会で正式な妻に加えて側室の妻が容認されていたことを知るべきです。女奴隷は側室の妻にしかなり得ません。しかし、その息子が他の妻をも娶ることで女奴隷を蔑ろにすることは許されませんでした。もし蔑ろにしたなら、その女奴隷は主人の家から『無償で去ることができ』ました。何故なら、主人の息子はその女奴隷が妻であることを事実上否定しているからです。

 ここまで見てきた奴隷の定めは、今の時代に生きる私たちにとって実際的な関わりをほとんど持っていません。まさかこれから私たちの国に奴隷制度が持ち込まれるということもないはずです。しかし、この定めも神の言葉ですから、聖徒たちは聖なる知識としてこのことを知っておかねばなりません。

【21:12】
『人を打って死なせた者は、必ず殺されなければならない。』
 神は、人の命を奪った者が、自分もその命を奪われるように命じておられます。これについては創世記註解から既に何回も述べていますから、再び説明する必要はないでしょう。殺人者が報いとして死ななければならないというのは、聖書でこれからも繰り返し語られることになります。なお、この戒めを死刑や戦争に適用させることはできないという点で、私たちは誤らないようにすべきです。私がこのように言うのは、もしかしたらこの戒めを読んで、死刑や戦争での殺人行為をも否定することになる人がいるかもしれないからです。しかし死刑や戦争で人を殺すのは合法ですから、たとえ殺したとしても神から断罪されることは決してありません。実際、神御自身が悪い者に石を投げて死刑にせよと命じておられますし、戦争の時にも敵たちを皆殺しにせよと命じておられます。

 現代における多くの国では殺人者に対して死刑が行なわれていません。人を殺した者に対して死刑以外の刑罰を与えている国が多いのです。これは由々しきことです。例えば、奪った額と同額か同額以上の償いを強盗に行なわせようとしない国があったとすれば、どう思われるでしょうか。「おかしいだろう。」と思われるに違いありません。殺人者に死の報いを与えようとしない国は、この国のようです。しかし、私が何と言おうとも、死刑廃止論者からはああだこうだと反論されてしまうでしょう。聖書が教えている通り、人間は堕落してしまったので、正しい倫理観を持つことさえできなくなってしまったのです。神が倫理的な闇の中に多くの国の人々を委ねておられるのですから、どうして死刑廃止論を打ちのめして過去の遺物とさせることができましょうか。しかし、願わくは神が多くの人たちを死刑容認論へと転向させて下さいますように。

 教会はこれまで、司法に関わることは個々の国が勝手に定めればよいと考えてきました。死刑について言えば「死刑にするかしないかはそれぞれの国に任せられるべきだ。」などと考えてきました。このように考えるのはよく考えればおかしいと言わねばなりません。強制的にとは言いませんが、もし出来るというのであれば国家司法は神の法に基づかせるべきです。死刑について言えば、あらゆる国の法律において死刑が定められるのが望ましいのです。何故なら、神は人殺しについて『人を打って死なせた者は、必ず殺されなければならない。』と言っておられるからです。キリストは私たちに『御心が天で行なわれるよう地でも行なわれるように』祈れと命じられました。ですから、私たちは地の国々がその法律において死刑を定めるよう願わねばなりません。何故なら、地でも行なわれるべき『御心』は神の律法のうちに啓示されているのであって、その律法では人殺しを死刑にするよう命じられているからです。もし本当に『御心が天で行なわれるよう地でも行なわれるように』願うというのであれば、教会は司法律法の国家的適用が実現されることを望まなければなりません。

【21:13~14】
『ただし、彼に殺意がなく、神が御手によって事を起こされた場合、わたしはあなたに彼ののがれる場所を指定しよう。しかし、人が、ほしいままに隣人を襲い、策略をめぐらして殺した場合、この者を、わたしの祭壇のところからでも連れ出して殺さなければならない。』
 全く意図していないのに知らず知らずのうち人殺しをしてしまった人は、『のがれる場所』に逃れることができました。これは裁判で真実が明らかになるまでの間に、殺された者の復讐者が怒りに駆られて復讐をしてしまわないためです(申命記19:6)。その人は誤って人を殺してしまったのですから、神はその人に死の刑罰をお与えになりません。ですから、神はそのような人にここで配慮して下さっておられます。その誤った殺人がここでは『神が御手によって事を起こされた場合』と言われていますが、これは例えば『木を切るため隣人といっしょに森にはいり、木を切るために斧を手にして振り上げたところ、その頭が柄から抜け、それが隣人に当たってその人が死んだ場合』(申命記19章6節)がそうです。この町については聖書で後ほどまた詳しく説明されることになります。その『のがれる場所』はイスラエル人たちがカナンを占領してから定められるべきことでした。

 しかしながら、意図的に殺したことが明らかである場合は、強制的にでも捕まえて死刑にせねばなりません。それは、イスラエルのうちから悪がなくなるためです。たとえ、祭壇にしがみ付いていたとしても、その場でか別の場所に移して殺人者は殺されねばなりません。ローマもそうでしたが、古代においては祭壇や祭壇の角にしがみつくのであれば、そのようにしている犯罪者に手を出してはならないという考えがありました。何故なら、そこは神礼拝の場所であって、そのような場所で惨たらしいことが行なわれてはならないからです。ですから、犯罪を犯した者が祭壇の場所に行くのは珍しくありませんでした。聖書にもそのような事例が幾つか記されています(例えばⅠ列王記2:28)。これは今で言えば、犯罪者が教会に逃げてそこで牧師や司祭に匿ってもらうのと幾らか似ています。しかし、神は祭壇にしがみ付いていても殺人者は殺されなければならないと命じておられます。これは殺人者は必ず報いとして死ななければならないからです。もっとも、モーセのように神が死刑以外の刑罰を望まれた人についてはこの限りではありません。

【21:15】
『自分の父または母を打つ者は、必ず殺されなければならない。』
 これは十戒の第5戒に属しています。つまり、これは『あなたの父と母を敬え。』という十戒の細則です。「父と母を敬う」とは、すなわち「父と母を打たない」ということなのです。何故なら、父母を敬っているのであれば、どうして父母を打つことがありましょうか。

 神は、父か母を打つ者は死刑にせねばならないと命じておられます。これは父と母が、神により定められた地上における最高の権威者だからです。父か母を打つのは、神を打つことの次に悪いことです。父母の重要性を理解するならば、これは極悪であることが分かります。ですから、父や母に暴力をするような不届き者は死に値します。古代ローマでは、親殺しが非常に忌み嫌われており、そのため親を殺した者には蛇・猿・犬と一緒に袋の中に縫い付けられ海に捨てられるという死刑が与えられていました。これは親殺しがケダモノ同然であるからです。このようなことから分かるように、またローマ人の法が世界中の法律に大きな影響を及ぼしたことからも分かるように、ローマ人たちは高い道徳を持っていました。しかし、私たちは今、そのようなローマ人の道徳よりも更に高い道徳を見ています。ローマ人は親を殺さなければ死刑にしていませんでしたが、聖書は親を打つだけでも死刑に値すると教えているのです。このように教える神の法よりも高い法は存在していません。しかし、父か母を『打つ』と言っても、どれだけ打ったら駄目なのでしょうか。少しだけでも打ったら駄目です。それでは、まだ理性の開花していない幼児が笑いながら親を叩くのはどうなるのでしょうか。私たちが今見ている戒めでは、子どもの持つ明白な反逆性が問題にされていることを知らねばなりません。ニコニコ喜びながら親を叩いている幼児の精神的な背景には、理性的な反逆を認めることはできないでしょう。幼児は訳も分からず親を叩いていると思われるからです。ですから、その幼児を懲らしめるべきではありますが、死刑にすべきではありません。また映画やコントなどにおいて子が親を演技で叩くのも、この戒めが適用されるべきではありません。何故なら、それは演技であって、そこに反逆心は全くないはずだからです。

【21:16】
『人をさらった者は、その人を売っていても、自分の手もとに置いていても、必ず殺されなければならない。』
 神は、誘拐の罪を死に定めておられます。誘拐犯が『その人を売っていても、自分の手もとに置いていても』誘拐した時点でそれは死罪となります。この罪については他の箇所でもこう書かれています。『あなたの同族イスラエル人のうちのひとりをさらって行き、これを奴隷として扱い、あるいは売りとばす者が見つかったなら、その人さらいは死ななければならない。あなたがたのうちからこの悪を除き去りなさい。』(申命記24章7節)どうして誘拐した者は死刑に値するのでしょうか。誘拐行為が罪であることは万人の認めるところでしょう。しかし、誘拐の罪が死に値すると聞かされると疑問に感じる人も多くいるはずです。日本の刑法でも誘拐の罪は死刑が定められていません(最高刑は無期懲役)。聖書は、どうして誘拐の罪が死に値するのか具体的に示していません。私の考えでは、誘拐罪が死に値するのは、それがあまりにも非人道的な罪だからです。これは誘拐された者が持つ恐怖や不安といった精神的な苦痛、また移動の自由を奪われたり身体を紐などで拘束されたり暴行されたりするといった身体的な苦痛を考えれば分かるはずです。堕落しておかしくなってしまった私たち人間がどう思おうとも、誘拐罪は死刑であると定めている神の言葉が何よりも正しい道徳を示しています。

 力や不正によって実現されてはなりませんが、教会は諸国の法で誘拐罪が死刑に定められるよう願うべきです。すなわち、大衆の同意のもと合法的に聖書の誘拐法が適用されることを求めるべきです。何故なら、教会は『御心が地で行なわれるように』求めねばならないからです。『地』とは私たちの住むこの世界であり、その中には当然ながら政治の領域も含まれています。その政治領域における一つの御心は、「国が誘拐犯を死刑に定める」ということです。私たちはキリストが命じられたように御心が地で行なわれることを願わないのでしょうか。聖徒であればそんな人はいないはずです。また、神の誘拐罪に対する御心は死刑ではないのでしょうか。それが御心であることはこの箇所を見れば明らかです。そういうわけで、教会は誘拐罪において国が聖書的な刑罰を定めることを、またそれ以外の罪においても国が聖書的な刑罰を定めるよう願わねばならないのです。今の世界を見るとどうでしょうか。多くの国で人が誘拐されています。これは誘拐犯が死刑にされていないため、誘拐のリスクが低いからです。誘拐犯が全て死刑になるようにしてみなさい。そうすれば、あまりにも高いリスクなので誘拐をしようとする者は激減するはずです。死刑になることが分かっていながら誘拐する者がいたとすれば、図太い神経を持った愚か者なのです。どうか地に正義と安心が実現されますように。

【21:17】
『自分の父または母をのろう者は、必ず殺されなければならない。』
 2節前の21:15の箇所と同様、この箇所も十戒の第5番目における細則です。「父と母を敬う」とは、すなわち「父と母を呪わない」ということなのです。これと同じ命令がレビ記20:9の箇所でも繰り返されています。このように繰り返されるのは、その戒めが非常に重要であるからです。神が父また母を呪う者に死刑を定めておられるのは、父また母を打つ者が死刑にならなければならないのと同様の理由からです。親とは絶大な権威を持った存在であるゆえ、親を呪うことは神の御前で致命的な罪なのです。神はこのような刑罰を示して威嚇されることで、子どもたちの反逆心を抑え込み、親たちの権威を正常な状態に保とうとしておられます。『父または母をのろう』とは、例えば「この糞野郎!」とか「お前なんか死んじまえ!」などと罵ることです。では、実際に魔法陣を描いて呪うのはどうなのでしょうか。これは親を呪う罪に加えて魔術の罪も犯されていますから、二重の意味で死に値します。聖書において魔術をする者は死に値するからです。しかし、この戒めではそういった魔術的な呪詛が念頭に置かれているのではありません。若い者たちは間違っても親を呪わないようにしなさい。今の時代で親を呪っても死刑になることはないが、その代わり、あなたは神から大きな呪いを受けることになるだろう。

【21:18~19】
『人が争い、ひとりが石かこぶしで相手を打ち、その相手が死なないで床についた場合、もし再び起き上がり、杖によって、外を歩くようになれば、打った者は罰せられない。ただ彼が休んだ分を弁償し、彼が完全に直るようにしてやらなければならない。』
 争いなどで相手に怪我を負わせた者は、治療費および治療中の生活費を支払うのであれば、『罰せられない』で済みます。『罰せられない』とは「死刑にされない」という意味です。ただ、単に弁償すればそれだけでよいでというのではありません。弁償する際は、当然ながら誠意と謝罪が伴っていなければなりません。愛抜きの機械的な償いは聖なる神の民に相応しくありません。

 ここで「聖書には懲役刑は定められていないのか。ただ弁償したりするだけでよいのか。」と思う方がいるかもしれません。この箇所にしても、怪我を負わせた者が弁償すればよいと言われているだけであり、懲役刑に処せられるべきだとは言われていません。聖書に懲役刑を定めている箇所はありません。聖書は罪を犯した者が被害者に償いをすべきだと教えています。ですから、古代ユダヤの共同社会に懲役に服する者を住まわせる建物はありませんでした。教会は、国が懲役刑を廃止するよう願うべきです。この懲役刑は間違った刑罰です。懲役に犯罪者を服させるのには、倫理的な矯正が目的とされています。ところが、刑期が終わって出獄した人の再犯率は全体的に見て何と高いことでしょうか。これは昔から言われてきたことです。このように懲役刑は明らかに欠陥していますし、聖書に懲役という思想はありませんから、そのような刑罰などないほうが神の御心に適う祝福された社会となるでしょう。社会にとって良いのは、とにかく加害者に償いをさせることで罪のリスクを高め、そもそも犯罪を事前に抑止してしまうことです。

【21:20~21】
『自分の男奴隷、あるいは女奴隷を杖で打ち、その場で死なせた場合、その者は必ず復讐されなければならない。ただし、もしその奴隷が一日か二日生きのびたなら、その者は復讐されない。奴隷は彼の財産だからである。』
 主人が自分の奴隷を殺した場合は死罪となります。何故なら、奴隷の命も命であることには変わらないからです。『人の血を流す者は、人によって、血を流される。』(創世記9章6節)という聖なる定めは、人の貴賤に左右されません。すなわち、「奴隷は卑しい者であるから殺しても死罪とはならない。」などということにはなりません。そのようなことは聖書に記されていません。ここで『復讐』と言われているのは死刑のことです。奴隷を死なせた者は、神の復讐により死刑とならねばならないのです。また、ここでは杖で打って奴隷を死なせた場合のことが言われていますが、これは殺害方法の一例を述べているだけに過ぎません。杖で打つ以外にも、例えば殴って殺したり、蹴って殺したり、何かを投げつけて殺したりしても死刑に定められるのは言うまでもありません。神はこのように定めることで、奴隷の命も尊重されねばならないことを示しておられます。

 しかしながら、主人の打った奴隷が『一日か二日生きのびたなら』主人は死罪になりません。何故なら、奴隷は人間であると同時に『財産』でもあるからです。その財産としての要素のゆえ、もし奴隷が即座に死ななければ死罪にはならないのです。もし奴隷が1日か2日生きのびても主人に死刑が与えられるとすれば、奴隷も自由人と変わらないことになってしまいます。自由人の場合は、たとえ1日か2日生きのびても、やがて死ぬのであれば加害者は死刑となります。何故なら、自由人には財産としての要素が存在しないからです。また、ここで『一日か二日』と言われているのを文字通りに捉えるべきではなく、これは「数日の間」という意味だと理解すべきです。何故なら、1日また2日生きのびたら死罪にならないとすれば、3日また3日以上の間生きのびたとすれば尚のこと死罪にはならないはずだからです。私たちは、この箇所から奴隷と自由人における尊厳上の相違を知ることができます。

 先にも述べましたが、聖書はこのように奴隷制を前提として語っており、奴隷の存在そのものを取り扱うことはしていません。聖書は当時の時代状況に合わせて書かれているのです。しかし、ここで次のように思う人がいるかもしれません。「聖書が奴隷制を問題にしていないというのは、つまり奴隷制は容認されるべきことを意味している。何故なら、もし奴隷制が悪であれば、聖書は奴隷制を問題にしていたはずだから。」なるほど、一見するとこの意見は理に適っているように感じられなくもありません。聖書全体の思想に通暁していない人であれば、このように考えしまう人もいるかもしれません。このように考える人に、私は尋ねたいのですが、天国に夫婦の秘事は存在しているのでしょうか。聖書の中で夫婦の秘事は容認されています。ところが天国にそれが存在しないのは明らかです。何故なら、天国ではキリストも言われたように『めとることも、とつぐこともなく』(マタイ22章30節)、もはや子を産む必要は全くないからです。もし聖書が奴隷制を前提として容認しつつ語っているというので奴隷制が普遍的に容認されるべきだとすれば、秘事についても同様のことが言えましょう。すなわち、地上において秘事が容認されているのであれば、それは普遍的な容認を意味しているのだから、天国でも秘事が禁じられることはない、と。しかし、秘事は地上の人生では容認されていても天国では容認されないのですから、それと同じで、聖書は奴隷制が普遍的には容認され得ないのに時代的に容認するという妥協的態度を取っているのです。

【21:22~25】
『人が争っていて、みごもった女に突き当たり、流産させるが、殺傷事故がない場合、彼はその女の夫が負わせるだけの罰金を必ず支払わなければならない。その支払いは裁定による。しかし、殺傷事故があれば、いのちにはいのちを与えなければならない。目には目。歯には歯。手には手。足には足。やけどにはやけど。傷には傷。打ち傷には打ち傷。』
 妊婦を流産させた者は、妊婦の夫の要求に基づいて裁判官が定めた罰金を払わねばなりません。ここで『裁定』と言われているのは裁判における判決のことです。その罰金がどれだけ高くても、加害者はそれを『必ず支払わなければな』りませんでした。今の司法では、加害者のほうばかり配慮されていて、被害者のほうは蔑ろにされがちです。このような司法は人間が堕落していることの表われですが、神の法においては徹底的に被害者および社会正義のことが考えられています。何故なら、加害者とは人を害した者であって、被害者こそが主体的に考えられるべきだからです。ですから、たとえ莫大な額の罰金を加害者が負わされて大いに悩んだとしても、加害者の心情は考慮されないのです。

 しかし、妊婦を死なせてしまった場合は、加害者に死刑が与えられます―『いのちにはいのち』。その場合に、加害者は死刑になるだけでなく、胎児を失わせたことによる罰金も支払わなければならなかったのでしょうか。実際はどうだったか分かりませんが、そのようにして二重の刑罰が下されていた可能性はかなり高いでしょう。

 また、妊婦を流産させて害した加害者は、その妊婦が受けた害と同じ害を自分も受けねばなりませんでした。このように定められたのは、イスラエルに社会正義が実現されるためです。この箇所からも分かりますが、聖書は同害刑法を定めています。これはその社会に悪への強い抑止力を生じさせるためです。今のように懲役刑を与えるぐらいでは強い抑止力は生じ得ません。何故なら、幾らかの刑期を終えれば五体満足で再び自由の身に戻れるからです。これでは犯罪を行なうことに大きな抵抗が生じるはずもありません。刑務所から出た時の爽快感を期待して希望に満ちていれば、刑期における諸々の不快感も和らぐことになります。これは明らかに「ゾッとする刑罰」ではありません。すなわち、抑止力としては弱いと言わざるを得ません。ですから、今も各地において大小様々な悪事が多く起きているわけです。しかし、同害刑法が徹底的に実施されていたらどうでしょうか。骨折させた者は自分も骨折させられ、失明させた者は自分も失明させられ、下半身不随にさせた者は自分も下半身不随にされる。これは明らかに「ゾッとする刑罰」です。もしこうであれば強い抑止力が生じるでしょう。多くの人は自分も同じ害を受けたくないので、犯罪行為をしにくくなるはずです。「しかし同害刑法が徹底されるというのは残酷に思える。」などと言われるでしょうか。同害刑法が残酷に感じられるというのは、つまり裏返せば強い抑止力が生じるということです。残酷だからこそ人を恐れさせるからです。同害刑法が残酷であり強い抑止力を生じさせるというのであれば、それが社会から残酷な犯罪行為を減らすことになります。社会から残酷な犯罪が減るのであれば、犯罪者に残酷な同害刑法が適用されたほうがどれだけ良いでしょうか。まさか平和に住んでいる多くの人たちがより安全になることよりも、犯罪者のことをこそ考えるべきだと言うのではないでしょう。確かに同害刑法そのものは残酷に感じられるかもしれませんが、それは社会全体にとって癒しとなるのです。