【ヨシュア記1:1~9】(2022/04/17)


 冒頭の箇所から分かる通り、このヨシュア記は明らかに申命記からの続きです。既に述べておいたように、申命記は民数記の続きであり、民数記はレビ記の続きであり、レビ記は出エジプト記の続きであり、出エジプト記は創世記の続きでした。つまり、創世記からこのヨシュア記までの6巻は、王朝時代また王朝時代以降に存在していたあるユダヤ人が書いたと考えられます。「考えられます。」とたった今書いたのは、この6巻分を書いたのが「特定の個人」ではなく「記述者集団」だった可能性もあるからです。ちょうど70人訳聖書を訳したのが個人ではなく集団だったのと同様です。要するに、これら6巻は聖なる記述者たちが共同で書いた可能性もあるというわけです。しかし、神は往々にして一人の人物に100人分もしくは1000人分もの仕事を行なわせる御方ですから、これら6巻が誰か一人の手により書かれた可能性もかなりあります。このヨシュア記とはヨシュア率いるイスラエル人の侵攻記録です。「ヨシュア記」と呼ばれているもののヨシュア個人が書いたのではありません。この文書は、ヨシュアたちがカナン侵攻を開始し、多くの王たちを討ち取り、110歳でヨシュアが死ぬまでの出来事を書き記しています。全部で24章あり、黙示録のように難しい文書というわけではありません。

【1:1】
『さて、主のしもべモーセが死んで後、主はモーセの従者、ヌンの子ヨシュアに告げて仰せられた。』
 モーセが罪のためカナンを前にして死にましたから、神はこれからヨシュアに語られるようになります。何故なら、モーセ亡き今、神はヨシュアを通してイスラエル人を支配されるからです。これまではモーセを通してイスラエルの支配が行なわれていましたから、神はモーセにその御声を向けておられました。

【1:2~4】
『「わたしのしもべモーセは死んだ。今、あなたとこのすべての民は立って、このヨルダン川を渡り、わたしがイスラエルの人々に与えようとしている地に行け。あなたがたが足の裏で踏む所はことごとく、わたしがモーセに約束したとおり、あなたがたに与えている。あなたがたの領土は、この荒野とあのレバノンから、大河ユーフラテス、ヘテ人の全土および日の入るほうの大海に至るまでである。』
 神は、イスラエル人にカナンへの侵攻を開始せよと命じられます。そこは神が『イスラエルの人々に与えようとしている地』です。ですから、ユダヤ人が『足の裏で踏む所はことごとく』ユダヤ人の所有地になります。その地はユダヤ人が自分たちの力で獲得するのではありません。神がその地をユダヤ人に与えて下さるのです。『人は、天から与えられるのでなければ、何も受けることはできません』(ヨハネ3章27節)から。

【1:5~9】
『あなたの一生の間、だれひとりとしてあなたの前に立ちはだかる者はいない。わたしは、モーセとともにいたように、あなたとともにいよう。わたしはあなたを見放さず、あなたを見捨てない。強くあれ。雄々しくあれ。わたしが彼らに与えるとその先祖たちに誓った地を、あなたは、この民に継がせなければならないからだ。ただ強く、雄々しくあって、わたしのしもべモーセがあなたに命じたすべての律法を守り行なえ。これを離れて右にも左にもそれてはならない。それは、あなたが行く所ではどこででも、あなたが栄えるためである。この律法の書を、あなたの口から離さず、昼も夜もそれを口ずさまなければならない。そのうちにしるされているすべてのことを守り行なうためである。そうすれば、あなたのすることで繁栄し、また栄えることができるからである。わたしはあなたに命じたではないか。強くあれ。雄々しくあれ。恐れてはならない。おののいてはならない。あなたの神、主が、あなたの行く所どこにでも、あなたとともにあるからである。」』
 ヨシュアは勇敢でなければいけませんでした。というのも、ヨシュアという指揮官が勇敢でなければ、イスラエル軍の士気に良からぬ影響が出かねないからです。もしヨシュアが勇敢であれば戦士たちも力強くいられるでしょう。しかし、ヨシュアが臆病になっていれば戦士たちの士気は間違いなく低くなります。ですから、ヨシュアは決して恐れないようにすべきでした。至高の神が共におられるのです。であればどうしてヨシュアが恐れたりしていいでしょうか。神が共におられると知りながら恐れたとすれば、それは世界最強の軍隊に守られていながら恐れる人よりも、100倍悪く情けないことです。何故なら、神は世界最強の軍隊よりも遥かに強いからです。新約時代の聖徒たちも恐れるべきではありません。聖徒たちが恐れるべきなのは敵でなく神だからです(マタイ10:28)。むしろ、聖徒たちは強くあるべきです。『主にあって、その大能の力によって強められなさい。』(エペソ6章10節)とパウロが言う通りです。

 ヨシュアは、神がモーセを通して告げられた律法を『昼も夜も』口ずさまなければなりませんでした。それを行ない、祝福され繁栄できるようになるためです。律法を行なうならば祝福されて栄えるというのは、既に申命記28章の箇所で言われていました。もし御言葉を口ずさむならば、忘れないようになりますから、御言葉を行なえるようになります。しかし口ずさまなければ、忘れやすくなりますので、御言葉を行なうのが難しくなります。詩篇1:1~3の箇所では、昼も夜も御言葉を口ずさむ人の幸いが示されています。何故なら、御言葉を口ずさむ人は、悪から遠ざかり、時が来れば実を結ぶようになるからです。新約時代の聖徒たちも、御言葉を口ずさみ、それを行なうようにすべきです。そうしなければ私たちは罪を犯しやすくなるので、不幸になりやすくなります。しかし口ずさむならば、御言葉を豊かに行なえるようになるので、神からの祝福を期待できるようになります。