【ヨシュア記18:1~23:2】(2022/05/15)


【18:1~7】
『さて、イスラエル人の全会衆はシロに集まり、そこに会見の天幕を建てた。この地は彼らによって征服されていた。イスラエル人の中で、まだ自分たちの相続地が割り当てられていない七つの部族が残っていた。そこで、ヨシュアはイスラエル人に言った。「あなたがたの父祖の神、主が、あなたがたに与えられた地を占領しに行くのを、あなたがたはいつまで延ばしているのか。部族ごとに三人の者を選び出しなさい。彼らが立ってその地を行き巡るように、私は彼らを送り出そう。彼らはその地についてその相続地のことを書きしるし、私のところに持って来なければならない。彼らは、それを七つの割り当て地に分割しなさい。ユダは南側の彼の地域にとどまり、ヨセフ家は北側の彼らの地域にとどまらなければならない。あなたがたは、その地の七つの割り当て地を書きしるし、それをここの私のところに持って来なければならない。私はここで、私たちの神、主の前に、あなたがたのために、くじを引こう。しかしレビ人には、あなたがたの中で割り当て地がない。主の祭司として仕えることが、その相続地だからである。また、ガドと、ルベンと、マナセの半部族とは、ヨルダン川の向こう側、東のほうで、すでに彼らの相続地を受けている。それは、主のしもべモーセが、彼らに与えたものである。」』
 ヨシュア率いるイスラエル人は、会見の天幕をゲリジム山から30kmほど南に離れた『シロ』に建てました。そこには主のおられる契約の箱も当然ながら移されました。この2つはそれまで死海のすぐ北にあるギルガルにありました。そこにイスラエル人の多くもいました。会見の天幕と契約の箱がある場所こそイスラエルの首都です。つまり、この時にイスラエルの中心地がギルガルからシロへと変わりました。しかし、どうしてシロに天幕と箱が移されたのでしょうか。それは、シロ以北にあるカナンの地をこれからまだ相続地を受けていない部族へ割り振るためです。つまり、便宜のためイスラエルの中心地が北西へと移されました。このシロは既に占領済みでしたが、まだ未占領であればここに集まってはいなかったでしょう。シロはエフライム族の相続地です。

 ヨシュアはこのシロで、まだ相続地の割り当てられていなかった『7つの部族』がこれから相続地を割り当てられるため、相続地となるべき北の地に調査部隊を遣わそうとします。もう既にユダ族とヨセフの2部族は相続地を割り当てられていました。他の7部族も速やかに相続地を割り当てられるべきでした。その7部族とは、すなわちベニヤミン、シメオン、ゼブルン、イッサカル、アシェル、ナフタリ、ダンです。調査に行くべき理由は、籤で決められた割り当て地を文書すなわち地図上において登記するためです。まだ割り当て地を受けていないのが『7つの部族』だったのは「7」ですから何か象徴的な意味を持っていそうです。もし意味を持つとすれば、それはこの7部族が他の部族と同様に<聖>であることを示しているのでしょう。この調査に部族ごと『三人』が調査員として選ばれたのは、相続地となるべき地をしっかり確認するためです。何故なら、パウロも言うように『すべての事実は、ふたりか三人の証人の口によって確認される』(Ⅱコリント13章1節)からです。この時に『ユダは南の彼の地域にとどまり、ヨセフ家は北側の彼らの地域にとどまらなければな』りませんでした。つまり、この時に調査する地はユダ族とヨセフ族の相続地になりませんから、この2部族から調査員を出す必要はないということです。7節目では『レビ人』および『ガドと、ルベンと、マナセの半部族』が、これから調査する地に関わらないと言われています。レビ人にはそもそも物質的な相続地が定められておらず、ガド人とルベン人と半分のマナセ人は既に相続地を受け取っているからです。

【18:8~10】
『そこで、その者たちは行く準備をした。ヨシュアは、その地の調査に出て行く者たちに命じて言った。「あなたがたは行って、その地を行き巡り、その地について書きしるし、私のところに帰って来なさい。私はシロで、主の前に、あなたがたのため、ここでくじを引こう。」その者たちは行って、その地を巡り、それを町ごとに七つの割り当て地ごとに書き物にしるし、シロの宿営にいるヨシュアのもとに来た。ヨシュアはシロで主の前に、彼らのため、くじを引いた。こうしてヨシュアは、その地をイスラエル人に、その割り当て地によって分割した。』
 こうして7部族からそれぞれ3人ずつが選ばれ、総計21人の調査員たちがまだ割り当てられていなかったカナンの地を調べに行きます。各部族から選ばれた者の数が「3」人だったのは象徴的な意味を持つのと違い、この時に遣わされた調査員の総数が「21」人だったのに象徴的な意味はありません。21を「7たす7たす7」として分解することはできません。聖書はこのような成り立ちとして「21」を使っていないからです。これはイルミナティやフリーメイソンが「18」を「6たす6たす6」(=666)という成り立ちで使っていても、聖書ではそのような成り立ちとして「18」が使われていないのと同じです。21を777として解するのは聖書に基づいていません。こうして調査員たちは調査を終えて、シロにいるヨシュアの場所へ帰って来ました。彼らは調査した場所が7つに区分された『書き物』を持って来ました。彼らは調査に行った際、何の危険にも遭わなかったと思われます。というのも彼らが行った場所は、その多くの地域が既に占領済みだったからです。この21人の調査員たちの名前はここで全く示されていません。そして、ヨシュアは籤によりどの部族がどの区域を相続すべきか決め、調査員たちが持って来た文書にそれを登記しました。この決定は籤によりますから、神の決定であることを意味していました。

【18:11~20】
『ベニヤミン部族の諸氏族がくじを引いた。彼らのくじに当たった地域は、ユダ族とヨセフ族の間にあった。彼らの北側の境界線は、ヨルダン川から出て、その境界線は、エリコの北側に上って行き、さらに山地を西のほうに上って行き、その終わりはベテ・アベンの荒野であった。そこから境界線は、ルズに向かい、ルズの南のほうの傾斜地に進む。ルズはベテルである。さらに、境界線は、下ベテ・ホロンの南にある山の近くのアテロテ・アダルに下る。境界線は折れて、西側で、ベテ・ホロンに面する山から、南のほうに回り、その終わりはユダ族の町キルヤテ・バアル、すなわちキルヤテ・エアリムであった。これが西側であった。南側は、キルヤテ・エアリムの端からで、境界線は西のほうへ出て、メ・ネフトアハの泉に出て、境界線は、北のほう、レファイムの谷間の中のベン・ヒノムの谷を見おろす山の端に下り、ヒノムの谷を、南のほうのエブス人のいる傾斜地に下り、エン・ロゲルに下る。それから北のほうに折れ、エン・シェメシュに出、アドミムの坂に対するゲリロテに出、ルベンの子ボハンの石に下る。それから、北のほう、アラバの近くの傾斜地に進み、アラバに下る。その境界線は、北のほう、ベテ・ホグラの傾斜地に進み、境界線の終わりは塩の海の北の入江、ヨルダン川の南端であった。これが南の境界であった。ヨルダン川が東側の境界線となっていた。これはベニヤミンの相続地で、その諸氏族の周囲の境界線によるものであった。』
 まだ相続地が割り当てられていなかった7部族のうち、まず最初にベニヤミン族が記されます。ベニヤミンはヤコブの末っ子ですから、ここでは年齢順の記述となっているのではありません。もし年齢順であれば、ベニヤミンの順序は最後だったからです。また、ここでの記述は場所の適切さに基づく順序となっているわけでもありません。何故なら、もし場所の適切性に基づいて記述されるべきだとすれば、ベニヤミンの次はどう考えてもベニヤミンの隣に相続地を持ったダンが書かれるべきでしたが、このダンは最後に書かれているからです(ヨシュア記19:40~48)。

 ベニヤミン族の相続地は『ユダ族とヨセフ族の間』にあり、北がエフライム族の相続地と接し、南がユダ族の相続地と接しています。ベニヤミン族の相続地はかなり小さめでした。それはエフライム族の相続地の3分の1、ガド族の相続地の5分の1ほどしかありません。ベニヤミン族の相続地における北の境界線は、『ヨルダンから出て』『エリコの北側に上って行き』ます。『エリコ』はベニヤミン族の相続地です。北の境界線はエリコから更に西へと進み、『ルズ』すなわち『ベテル』に至ります。『ベテル』はアイのすぐ西です。そしてベテルから20kmほど西に離れた『ベテ・ホロン』まで境界線が伸びています。そこから境界線が南に折れ、10kmほど進むと『キルヤテ・エアリム』に至りますが、これが西側の境界線でした。このキルヤテ・エアリムから南の境界線が東のほう、すなわちヨルダン川のほうに伸びて行きます。東のほうに進むと『エブス人のいる傾斜地』すなわちエルサレムの北側を通ります。エルサレムのすぐ北側にベニヤミン族の南の境界線がありました。『ルベンの子ボハンの石』は前の箇所でも書かれていました(ヨシュア記15:6)。そのまま東に進むと『ベテ・ホグラ』へ至りますが、これはギルガルのすぐ南にある場所です。このベテ・ホグラから南の境界線は南下して死海へと至ります。ベニヤミン族の相続地は死海に僅かばかり面しています。東側の境界線は分かりやすく『ヨルダン川』でした。

【18:21~28】
『さて、ベニヤミン部族の諸氏族の町々は、エリコ、ベテ・ホグラ、エメク・ケツィツ、ベテ・ハアラバ、ツェマライム、ベテル、アビム、パラ、オフラ、ケファル・ハアモナ、オフニ、ゲバで、十二の町と、それらに属する村々であった。また、ギブオン、ラマ、ベエロテ、ミツパ、ケフィラ、モツァ、レケム、イルペエル、タルアラ、ツェラ、エレフ、エブスすなわちエルサレム、ギブアテ、キルヤテなど十四の町と、それらに属する村々であった。これがベニヤミン族の諸氏族の相続地であった。』
 『エリコ』はベニヤミン族の相続地における北部です。『ベテ・ホグラ』は最西南にあります。『ベテル』は最北端にあります。このベテルを北に超えるとエフライムの相続地です。『オフラ』はベテルから10kmほど北東に離れています。『ゲバ』はエリコから20kmほど西にあります。イスラエルと同盟を結んだ『ギブオン』はベニヤミン族が相続しました。『ラマ』はこのギブオンのすぐ東です。『ミツパ』はベテルの南にあります。エブス人の住んでいたエルサレムはユダだけでなくベニヤミンの相続地にも属していました。このエルサレムが首都になるのはまだ先の話です。『キルヤテ』はベニヤミンの最も西にあり、そこは西にあるダンの相続地および南にあるユダの相続地と接しています。ベニヤミンが相続したのは26の町と『それらに属する村々』でした。

【19:1~9】
『第二番目のくじは、シメオン、すなわちシメオン部族の諸氏族に当たった。彼らの相続地は、ユダ族の相続地の中にあった。彼らの相続地は、ベエル・シェバ、シェバ、モラダ、ハツァル・シュアル、バラ、エツェム、エルトラデ、ベトル、ホルマ、ツィケラグ、ベテ・マルカボテ、ハツァル、スサ、ベテ・レバオテ、シャルヘンで、十三の町と、それらに属する村々。アイン、リモン、エテル、アシャン。四つの町と、それらに属する村々、および、これらの町々の周囲にあって、バアラテ・ベエル、南のラマまでのすべての村々であった。これがシメオン部族の諸氏族の相続地であった。シメオン族の相続地は、ユダ族の割り当て地から取られた。それは、ユダ族の割り当て地が彼らには広すぎたので、シメオン族は彼らの相続地の中に割り当て地を持ったのである。』
 ベニヤミンに続いて記されるのはシメオン族です。シメオン族の相続地は特殊であって、広過ぎたユダ族の相続地の中に相続地を割り当てる形で相続地を得ました。ですから、シメオン族は完全に独立した相続地を持っていませんでした。しかし、これはヤコブがシメオン族について預言していたことでした(創世記49:7)。シメオン族の始祖シメオンは大虐殺の罪を犯しました。このシメオンの罪に対する呪いとして、その子孫がユダ族の相続地のうちに相続地を得ることになったのです。自前の相続地を持てないというのは確かに呪いとして相応しいことです。しかも、シメオン族は後ほどユダ族に合併されてしまいます。もし始祖シメオンが罪を犯していなければ、その子孫がユダ族の相続地の中に相続地を得ることはなかったでしょう。このように400年以上も前に犯された始祖の罪の呪いがここで注がれました。罪は子孫にまで大きな影響を齎すのです。ですから、罪を犯すのはイコール子孫が不幸になることです。

 デビルから40kmほど南に離れた『ベエル・シェバ』はシメオンの相続地となりました。この辺りにはかなり長い川が流れています。『モラダ』はベエル・シェバから15kmほど東に離れています。『ホルマ』はモラダから20kmほど南東に離れています。そこは川沿いにあります。『ツィケラグ』はデビルから20kmほど南です。シメオンが相続したのは17の町と『それらに属する村々』でした。それらはユダ族の相続地における南部に位置しています。北部はユダの相続地ばかりです。

【19:10~16】
『第三番目のくじは、ゼブルン族の諸氏族のために引かれた。彼らの相続地となる地域はサリデに及び、その境界線は、西のほう、アルマラに上り、ダベシェテに達し、ヨクネアムの東にある川に達した。また、サリデのほう、東のほう日の上る方に戻り、キスロテ・タボルの地境に至り、ダベラテに出て、ヤフィアに上る。そこから東のほう、ガテ・ヘフェルとエテ・カツィンに進み、ネアのほうに折れてリモンに出る。その境界線は、そこを北のほう、ハナトンに回り、その終わりはエフタ・エルの谷であった。そしてカタテ・ナハラル、シムロン、イデアラ、ベツレヘムなど十二の町と、それらに属する村々であった。これは、ゼブルン族の諸氏族の相続地で、その町々と、それらに属する村々であった。』
 ベニヤミン、シメオンに続く第3番目はゼブルンです。

 ゼブルン族の相続地である『サリデ』はカナンの北部にあり、タボル山から20kmほど西に離れ、メギドから20kmほど北に離れています。『ヨクネアム』はカルメル山の麓、イズレエルの平原にあります。その『東にある川』とはキション川を指します。この川にゼブルン族の相続地は面しています。『キスロテ・タボル』とはタボル山の麓の場所です。『ガテ・ヘフェル』はゼブルンの東にあり、タボル山から北に10kmほど離れています。『リモン』はガテ・ヘフェルから15kmほど北です。『ハナトン』はリモンから10kmほど西です。『シムロン』はゼブルン族の相続地の中央部分からやや西にあります。やがてキリストが御生まれになる『ベツレヘム』はかなり南のほう、ユダ族の領域にありますが、ここではゼブルン族の相続地として書かれています。ゼブルン族の相続地はカナンの北側です。彼らが相続したのは『十二の町と、それらに属する村々』ですが、あまり多くはありません。また、その面積も大きくはありませんでした。イッサカル、ダン、ベニヤミンの相続地とだいたい同じぐらいの面積です。北西の境界線はアシェルの相続地と接し、北東の境界線はナフタリの相続地と接し、南東の境界線はイッサカルの相続地と接し、南西の境界線はマナセの相続地と接しており、4つの部族に取り囲まれているのがゼブルン族の相続地です。そこには海が全くありません。

【19:17~23】
『第四番目のくじは、イッサカル、すなわちイッサカル族の諸氏族に当たった。彼らの地域は、イズレエル、ケスロテ、シュネム、ハファライム、シオン、アナハラテ、ラビテ、キシュヨン、エベツ、レメテ、エン・ガニム、エン・ハダ、ベテ・パツェツ。その境界線は、タボルに達し、それからシャハツィマと、ベテ・シェメシュに向かい、その境界線の終わりはヨルダン川であった。十六の町と、それらに属する村々であった。これが、イッサカル部族の諸氏族の相続地で、その町々と、それらに属する村々であった。』
 4番目に書かれるのはイッサカル族です。『イズレエル』はタボル山から25kmほど南にあり、ギルボア山の麓です。この場所はイッサカル族の相続地における最も南です。『ケスロテ』はタボル山のすぐ西の麓にあり、イッサカルの最も北にあります。『シュネム』はケスロテから15kmほど南に位置しています。『タボル』はイッサカル族の相続地における北の境界線にあります。東側の境界線は『ヨルダン川』でした。イッサカルが相続したのは『十六の町と、それらに属する村々』でした。そこはカナンの北にあります。北西の境界線がゼブルン族の相続地に接し、北東の境界線がナフタリの相続地に接し、南の境界線がマナセの半部族の相続地に接し、東の境界線であるヨルダン川を超えるともう一つのマナセの半部族の相続地となります。

【19:24~31】
『第五番目のくじは、アシェル部族の諸氏族に当たった。彼らの地域は、ヘルカテ、ハリ、ベテン、アクシャフ、アラメレク、アムアデ、ミシュアルで、西のほう、カルメルとシホル・リブナテに達する。また、日の上る方、ベテ・ダゴンに戻り、ゼブルンに達し、北のほう、エフタ・エルの谷、ベテ・ハエメク、ネイエルを経て、左のほう、カブルに出て、エブロン、レホブ、ハモン、カナを経て、大シドンに至る。その境界線は、ラマのほうに戻り、城壁のある町ツロに至る。またその境界線は、ホサのほうに戻り、その終わりは海であった。それに、マハレブ、アグジブ、アコ、アフェク、レホブなど、二十二の町と、それに属する村落であった。これがアシェル部族の諸氏族の相続地で、その町々と、それらに属する村々であった。』
 5番目はアシェル部族。『アクシャフ』はキション川から30kmほど北に離れており、地中海が近くにあります。『カルメル』はカルメル山の周辺地域です。『シホル・リブナテ』はシャロンの平原の北にあり、そこはカルメン山から30kmほど南です。アシェル族の相続地はその南東部分で『ゼブルン』と接しています。『ベテ・ハエメク』はアシェル族の相続地の中央部分にあります。『カブル』はベテ・ハエメクから15kmほど南です。『ハモン』はベテ・ハエメクから北に20kmほどです。『カナ』はハモンから25kmほど北東にあり、カナンの中でもかなり北のほうです。北にある『大シドン』とはシドン人の住む地であり、そこはレバノン山が近く、また地中海に面しています。『ラマ』はカブルから20kmほど東です。これはベニヤミンの相続地にある同名の場所とは違います。『ツロ』はカナから20kmほど北西に離れており、地中海沿いにあります。西の境界線は全て地中海となっています。『アフェク』はカブルから10kmほど南西にあります。アシェルの相続地はイスラエルの中で最も北に位置しており、それは米粒を右に斜めに立てたような形です。南の境界線をマナセの半部族の相続地と接し、南東の境界線をゼブルンの相続地と接し、東の境界線をナフタリの相続地と接し、北の境界線を越えるとシドン人の国へ行きます。

【19:32~39】
『第六番目のくじは、ナフタリ人、すなわちナフタリ族の諸氏族に当たった。彼らの地域は、ヘレフとツァアナニムの樫の木のところから、アダミ・ハネケブ、ヤブネエルを経てラクムまでで、終わりはヨルダン川であった。その境界線は、西のほう、アズノテ・タボルに戻り、そこからフコクに出る。南はゼブルンに達し、西はアシェルに達し、日の上る方はヨルダン川に達する。その城壁のある町々は、ツィディム、ツェル、ハマテ、ラカテ、キネレテ、アダマ、ラマ、ハツォル、ケデシュ、エデレイ、エン・ハツォル、イルオン、ミグダル・エル、ホレム、ベテ・アナテ、ベテ・シェメシュなど十九の町と、それらに属する村々であった。これが、ナフタリ部族の諸氏族の相続地で、その町町と、それらに属する村々であった。』
 第6番目はナフタリ族です。ナフタリ族の相続地は、最も南東の辺りで僅かばかり『ヨルダン川』に面しています。『フコク』はキネレテ湖から西に10kmほどの場所です。また『南はゼブルンに達し、西はアシェルに達し、日の上る方はヨルダン川に達』します。そして南東はイッサカルに達し、最も北東はダンが北上して開拓した相続地に達し、北を超えるとシドン人の地域に入ります。ナフタリの相続地はカナンの最も北部にあります。その大きさはだいたい西にあるアシェル族の相続地と同じぐらいです。『ハマテ』はキネレテ湖の西に面した場所です。『キネレテ』はキネレテ湖の北に面した場所です。『ラマ』はキネレテ湖から20kmほど西です。これはベニヤミンの相続地にある同名の場所と異なる場所です。あの『ハツォル』はナフタリ人が相続しました。『ケデシュ』はハツォルから20kmほど北に離れています。『エン・ハツォル』はケデシュから25kmほど西に離れており、西の境界線に面しています。『イルオン』はエン・ハツォルのすぐ南東にあります。

【19:40~48】
『第七番目のくじは、ダン部族の諸氏族に当たった。彼らの相続地となる地域は、ツォルア、エシュタオル、イル・シェメシュ、シャアラビン、アヤロン、イテラ、エロン、ティムナ、エクロン、エルテケ、ギベトン、バアラテ、エフデ、ベネ・ベラク、ガテ・リモン、メ・ハヤルコン、ラコン、およびヤフォの近くの地境であった。ダン族の地域は、さらに広げられた。ダン族は上って行き、レシェムと戦って、これを取り、剣の刃で打ち、これを占領して、そこに住み、彼らの先祖ダンの名にちなんで、レシェムをダンと呼んだ。これがダン部族の諸氏族の相続地で、その町々と、それらに属する村々であった。』
 最後はダンです。『ツォルア』は5人の王が逃げたマケダから15kmほど北東にあり、ダン族の相続地の最南端です。月がその下で留まった『アヤロン』はダン族に相続されました。『ティムナ』はツォルアから西に15kmほど離れています。『エクロン』はティムナから北西に20kmほど離れており、その南西はペリシテ人の地域です。『エルテケ』はティムナの北西10kmほどにあります。『ギベトン』はエルテケのすぐ北です。『ベネ・ベラク』はアヤロンの地域にあります。『ガテ・リモン』はアヤロンの北にあり、ダン族の相続地の最北端です。『ヤフォ』はガテ・リモンの東にあり、地中海に面しています。ダン族の相続地は、北西がマナセの半部族の相続地と接し、北東がエフライム族の相続地と接し、東がベニヤミン族の相続地と接し、南がユダ族の相続地と接しています。その大きさはそれほどでもありません。ベニヤミンやイッサカルやゼブルンの相続地と同じぐらいです。その西側は地中海が境界線になっています。

 ダン族は、籤で割り振られた相続地の他に更なる相続地を求め、カナンの最北部にある『レシェム』まで上りそこを占領して新たな相続地としました。この新しい相続地は非常に小さな面積です。その西をナフタリ族の相続地と接し、その南をマナセの半部族の相続地と接しています。北の境界線を越えるとシドン人の地域となります。もしここがダン族に占領されなければ、そこにはずっとレシェム人が住んでいたはずです。このような相続地の拡張を、ダン族の欲深さの現われと見做すべきではないでしょう。何故なら、更なる相続地が欲しければ自分たちで獲得することは許されていたからです。これはヨシュアが、相続地が狭いと訴えたヨセフ族に更なる相続地の拡張を命じたことから明らかです(ヨシュア記17:14~18)。ダン族がこの新しい相続地に自分たちの始祖ダンの名を付けたのは、彼らの持っていた始祖ダンへの敬意をよく示しています。しかし、レシェムという異邦人が付けた名前は消し去られました。

【19:49~51】
『この地について地域ごとに、相続地の割り当てを終えたとき、イスラエル人は、彼らの間に一つの相続地をヌンの子ヨシュアに与えた。彼らは主の命令により、ヨシュアが求めた町、すなわちエフライムの山地にあるティムナテ・セラフを彼に与えた。彼はその町を建てて、そこに住んだ。これらは、祭司エルアザル、ヌンの子ヨシュア、およびイスラエル人の部族の一族のかしらたちが、シロにおいて会見の天幕の入口、主の前で、くじによって割り当てた相続地であった。こうして彼らは、この地の割り当てを終わった。』
 ヨシュアが自分の相続地として『エフライムの山地にあるティムナテ・セラフ』を求めると、それを得て相続地としました。これはエフライムの中央部分から西に20kmほど離れた場所にあります。ヨシュアがこの山地を求めたのは、山と神には強い関わりがあったからです。神はイスラエル人の前でシナイ山に降りて来られました。神が柴においてモーセに会われたのも山です。キリストもよく山に行って祈られました。このヨシュアがエフライム族の領域に相続地を求めたのは、ヨシュア自身がエフライム族だったからです(民数記13:8)。

 こうしてシロの場所で神の御前において相続地が全て決定しました。この時に籤で決められた相続地は全て神の御心に適っていました。何故なら、その決定は神によったからです。籤とは神の決定です。

【20:1~3】
『主はヨシュアに告げて仰せられた。「イスラエル人に告げて言え。わたしがモーセを通してあなたがたに告げておいた、のがれの町をあなたがたのために定め、あやまって、知らずに人を殺した殺人者が、そこに逃げ込むことのできるようにしなさい。その町々は、あなたがたが血の復讐をする者からのがれる場所となる。』
 相続地の割り当てが終わると、誤って人を殺した殺人者が逃れる町を定めることになりました。この町の役割については前の註解書で見た通りです。この町は6つ定めねばならず、既に3つをモーセがヨルダン川の東側で定めていました。もう3つをヨルダン川の西側で定めねばならないというのが神の定めでした(民数記35:9~15)。ヨルダン川を渡って一段落たった今、この3つの町を定めるのです。

 このような町を定められた神は憐れみ深い御方です。意図せず『あやまって、知らずに人を殺した殺人者』は人を殺す気など全くなかったのですから、罰せられるべきでなく無罪となるべきです。何も落ち度がないのであれば、確かにそのような殺人者は刑罰を受けるべきではありません。ですから、神はそのような者のためにこういった町を定め、情けをかけて下さったのです。神は配慮であられます。

【20:4~6】
『人が、これらの町の一つに逃げ込む場合、その者は、その町の門の入口に立ち、その町の長老たちに聞こえるように、そのわけを述べなさい。彼らは、自分たちの町に彼を受け入れ、彼に一つの場所を与え、彼は、彼らとともに住む。たとい、血の復讐をする者がその者を追って来ても、殺人者をその手に渡してはならない。彼は知らずに隣人を打ち殺したのであって、以前からその人を憎んでいたのではないからである。その者は会衆の前に立ってさばきを受けるまで、あるいは、その時の大祭司が死ぬまで、その町に住まなければならない。それから後、殺人者は、自分の町、自分の家、自分が逃げて来たその町に帰って行くことができる。」』
 無罪となるべき殺人者がこの町に逃げて来た場合、まず『その町の門の入口』で『わけを述べ』、町の長老たちに認められたならその町で住むことができます。訳も知らないのに、また訳が出鱈目であるのに、逃れて来た者を受け入れるべきではないからです。もし訳を話さないか、いい加減な訳を話すのであれば、そのような者を町に住まわせるべきではなかったはずです。もし逃れて来た者が町に入ったならば、『一つの場所を与え』られて、そこにいる住民と生活を共にします。その町から勝手に抜け出ることは許されませんでした。もし抜け出たならば、外で待ち伏せしていた復讐者に復讐されても文句は言えません(民数記35:26~27)。その町にいる者たちは、逃れて来た者たちを町から出して復讐者に委ねてはいけませんでした。たとえ復讐者から賄賂を受けても、脅迫されても、です。もし復讐者の手に逃れて町で住むようになった者を渡すならば、恐らくその復讐者は無罪となるべき殺人者を殺すでしょうから、その殺人者を引き渡した者たちも殺人の罪を犯すことになります。

 有罪となるべき意図的な殺人を犯した殺人者がこの町で住むことは許されません。もしそういった者がいた場合、つまり出鱈目を言ってその町で住めるようになった者がいた場合、本当は意図的に殺人を犯したことが明らかになって時点で、たとえ町にいても捕まえられて死刑に処せられねばなりませんでした。そのような者であれば、町から出して復讐者の手に委ねても問題ありませんでした。たとえ、その復讐者がその委ねられた者を殺すことになったとしても、です。何故なら、意図的な殺人者に対しては復讐の死を与えても良いと神が許可しておられるからです(民数記35:19~21)。ところで、このようなことを聞いて「恐い」と思う兄弟姉妹がどこかにいるのでしょうか。「恐い」のは、神の御言葉を自分の意志としないそのような兄弟姉妹の不敬虔な霊性のほうです。確かなところ、何よりも恐いのは神の御言葉に反対したり敵対したりすることなのです。世俗に呑み込まれて霊性を鈍化または窒息させてはなりません。

 町に逃れた殺人者は、裁判を受けて無罪であることが確定するか、町に入った時点で大祭司だった者が死ぬまで、その町から出られません。この2つのうちどちらか1つが実現すれば、その殺人者はもう『自分の町、自分の家』に帰ることができます。もし復讐者が心配なのであれば『自分が逃げて来たその町』に帰ることもできます。どちらに行くかはその人次第です。もし自分の町や家に帰った場合、その人が逃れの町から出て来たからといって、復讐者が待ってましたと言わんばかりに殺すことは決して許されません。もし復讐者が逃れの町から出て自分の家に帰ったその殺人者を殺すならば、当然ながらその復讐者は殺人を犯した刑罰として死刑に処せられねばならなくなります。

【20:7~9】
『それで彼らは、ナフタリの山地にあるガリラヤのケデシュと、エフライムの山地にあるシェケムと、ユダの山地にあるキルヤテ・アルバ、すなわちヘブロンとを聖別した。エリコのあたりのヨルダン川の向こう側、東のほうでは、ルベン部族から、高知の荒野にあるベツェルを、ガドの部族から、ギルアデのラモテを、マナセ部族から、バシャンのゴランをこれに当てた。これらは、すべてのイスラエル人、および、彼らの間の在留異国人のために設けられた町々で、すべて、あやまって人を殺した者が、そこに逃げ込むためである。会衆の前に立たないうちに、血の復讐をする者の手によって死ぬことがないためである。』
 こうしてヨルダン川の西で、3つの部族の相続地にそれぞれ一つずつ逃れの町が定められました。ナフタリ族に定められた『ケデシュ』はハツォルの北にあり、イスラエルの最も北の地域です。エフライム族の相続地では、エバル山とゲリジム山の麓にある『シェケム』が逃れの町として定められました。ユダの相続地では『ヘブロン』が定められました。これら3つの場所はそれぞれ互いにかなり離れた距離にあります。これは無罪となるべき殺人者がどこの場所で出ても、逃れの町に行き易くさせるためです。前の註解書でも書きましたが、この町がそれぞれ近い場所にあれば、町を複数定める意味がなくなります。ヨルダン川の西に定められたこの町はどれも『山地』でした。山に定められたのは神がその町で殺人者を守って下さるからなのでしょう。神と山の関連性については前述の通りです。実際、神はこの町で無罪となるべき殺人者を守られました。また、これらの場所を『聖別した』のは、そこが聖なる用のために使用されるからです。ヨルダン川の東では、ルベン族とガド族とマナセの半部族の相続地にこの町が定められていました。これについては既に前の註解書で見ておいた通りです。ヨルダン川の東側でも、やはり町の距離は互いにそれぞれかなり離れています。

 この町は、ユダヤ人だけでなく『在留異国人』も使うことができます。イスラエル共同体にいる構成員であれば掟はユダヤ人であれ在留異国人であれ共通して適用されるというのが、律法の定めだからです。もちろん、中には在留異国人だけユダヤ人と取り扱いの異なる掟もありますが、そのような掟は僅かです。これは神が依怙贔屓しない愛の神であられるからです。在留異国人だからといって、イスラエルの中で知らずに人を殺した場合、逃れの町に入れず復讐者から復讐されるままにされていいのでしょうか。とんでもないことです。ですから、神は『在留異国人のため』にもこの町を用意して下さったのです。神は、怒りに燃えた復讐者は制することが出来ないのをよく知っておられます。殺人者に対する怒りほど抑え難い怒りは他にないからです。その怒りは理性を失わせてしまいます。そのような復讐者に復讐するなと自制を求めても、怒りで我を忘れているため無意味な場合が多いのです。そうであれば殺人者のほうを逃れの町に匿うことで問題解決を図ったほうが遥かに効果的でしかも安全です。ですから、神はこの問題を復讐者ではなく殺人者のほうに行動を起こさせることで解決しようとされたのです。これは実に理知的です。怒りに燃えた復讐者は、気が狂っておかしくなっている犬・猫や戦争でパニック状態になって走り回る役畜のようです。このような動物に何を言っても何をしても、その動きを制御することは難しいでしょう。そのように、殺人者に対する復讐を欲する復讐者もなかなか抑え込むことが難しいのです。

【21:1~3】
『そのとき、レビ人の一族のかしらたちは、祭司エルアザルとヌンの子ヨシュアとイスラエル人諸部族の一族のかしらたちのところに来て、カナンの地のシロで、彼らに告げて言った。「主は、私たちに住むべき町々と、家畜のための放牧地とを与えるよう、モーセを通して命じられました。」それで、イスラエル人は、主の命令で、彼らの相続地から、次の町々とその放牧地とをレビ人に与えた。』
 逃れの町がヨルダン川の西でも定められた時、レビ族の長たちが自分たちの住むべき町々と家畜を養う放牧地を求めましたが、これは前から主が定めておられたことですから、このように求めたのは全く問題ありませんでした。まだこの時にはレビ人の町々と放牧地が定められていませんでした。もしレビ人に住む町と家畜を養う放牧地がなければ、一体どこにいてどこで住めばいいというのでしょうか。まさかホームレスのようにでもなるべきだというのでしょうか。とんでもありません。ですから、レビ人たちには町々と放牧地が『主の命令』に基づき与えられます。

【21:4~7】
『ケハテ諸氏族のために、くじが引かれたとき、ユダ部族、シメオン部族、ベニヤミン部族のうちから、くじによって、十三の町がレビ人の祭司アロンの子孫のものとなった。エフライム部族、ダン部族、マナセの半部族から、十の町がくじによって残りのケハテ族のものに、イッサカル部族の諸氏族、アシェル部族、ナフタリ部族、バシャンのマナセの半部族から、十三の町がくじによってゲルション族のものに、ルベン部族、ガド部族、ゼブルン部族から、十二の町がメラリ族の諸氏族のものになった。』
 レビ族はケハテ族とゲルション族とメラリ族の3つに分かれていました。これら3部族については以前の註解書で見た通りです。ケハテ族だったアロンの子孫には『ユダ部族、シメオン部族、ベニヤミン部族』の相続地から13の町が住まいとして宛がわれました。これらの地域は死海の西側全体に広がっています。アロンの子孫でないケハテ族には『エフライム部族、ダン部族、マナセの半部族』の相続地から10の町が住まいとして宛がわれました。これらの地域はアロンの子孫たちの住まいから北に広がっています。またゲルション族には『イッサカル部族の諸氏族、アシェル部族、ナフタリ部族、バシャンのマナセの半部族』の相続地から13の町が住まいとして宛がわれました。これらの地域はカナンの北部から北東部にかけて広がっています。メラリ族には『ルベン部族、ガド部族、ゼブルン部族』の相続地から12の町が住まいとして宛がわれました。これらの地域は死海の東から北にかけて広がっています。この箇所で宛がわた町の数として『十三』とあるのは、特に象徴的な意味を持ちません。世の中は「13」を特別な数字として見做しますが、聖書においては何も特別ではないからです。意味を持つのは1つ上の数字である「14」です。13、それは聖書において全く普通の数字です。この『十三』がこの箇所では何の意味も持っていないのですから、この箇所に書かれている『十』『十二』という他の数字も少なくともこの箇所では何の意味も持っていないと見做すべきでしょう。「10」と「12」という数字の場合は、聖書で意味ある数字として使われることが多いのですが。

【21:8~12】
『イスラエル人は、主がモーセを通して命じたとおりに、これらの町とその放牧地を、くじによってレビ人に与えるとき、ユダ部族、シメオン部族から、次に名をあげる町を与えた。これらは、レビ人に属するケハテ諸氏族の一つ、アロンの子孫のものとなった。―最初に彼らにくじが当たったからである。―彼らには、ユダの山地にあるキルヤテ・アルバ―アルバはアナクの父―、すなわちヘブロンとその周囲の放牧地を与えた。しかし、この町の畑とその村々は、エフネの子カレブに、その所有地として与えられた。』
 レビ人の住まいとその放牧地も、やはり籤により決められました。これはイスラエルの主が神であられたからです。神が主であられるゆえ、レビ人の領域も神の決定である籤に委ねなければいけませんでした。しかし、レビ人が全く自分に定められた住まいから移動できないわけではありませんでした。もしレビ人が個人的にエルサレムに行きたいと思えば、自分の住まいから離れてエルサレムまで自由に行くことができました。申命記18:6~8の箇所に書かれている通りです。

 『ケハテ諸氏族の一つ、アロンの子孫』である『レビ人』には、『ヘブロンとその周囲の放牧地』が宛がわれました。このヘブロンはカレブが攻め取った相続地です(ヨシュア記14:6~15)。このため、ヘブロンの『畑とその村々』はカレブの所有となっていました。つまり、アロンの子孫たちはそこを借り受けていただけでした。このように最初の籤はヘブロンに住むレビ人を決めるために引かれましたが、それを引いたのがアロンの子孫だったのです(10節)。神の御心はヘブロンにアロンの子孫たちが住むことでした。

【21:13~19】
『祭司アロンの子孫には、殺人者ののがれの町ヘブロンとその放牧地、それにリブナとその放牧地、ヤティルとその放牧地、エシュテモアとその放牧地、ホロンとその放牧地、デビルとその放牧地、アインとその放牧地、ユタとその放牧地、ベテ・シェメシュとその放牧地。すなわちこれら二つの部族から九つの町を与えた。またベニヤミン部族の中からも、ギブオンとその放牧地、ゲバとその放牧地、アナトテとその放牧地、アルモンとその放牧地、この四つの町を与えた。それでアロンの子孫である祭司たちの町の総数は、十三の町とその放牧地であった。』
 既に見た通り、アロンの子孫に宛がわれた『ヘブロン』は逃れの町でした。『リブナ』はマケダの西にあります。『ヤティル』はヘブロンから南に30kmほどです。『エシュテモア』はヘブロンから20kmほど南にあります。『デビル』はユダの相続地における中央部分に位置しています。『ユタ』はエシュテモアのすぐ北にあります。『ベテ・シェメシュ』はマケダのすぐ北東にあります。イスラエル人の奴隷になった異邦人の町である『ギブオン』はアロンの子孫の住まいとなりました。『ゲバ』はギブオンの東です。

【21:20~26】
『ケハテ族のうち残りのレビ人であるケハテ諸氏族には、エフライム部族からくじによって次の町々が与えられた。彼らには、エフライムの山地にある殺人者ののがれの町シェケムとその放牧地、ゲゼルとその放牧地、キブツァイムとその放牧地、ベテ・ホロンとその放牧地、この四つの町。ダン部族から、エルテケとその放牧地、ギベトンとその放牧地、アヤロンとその放牧地、ガテ・リモンとその放牧地、この四つの町。マナセの半部族から、タナクとその放牧地、ガテ・リモンとその放牧地、この二つの町を与えた。残りのケハテ諸氏族には、全部で十の町とその放牧地が与えられた。』
 アロンの子孫でないケハテ族であるレビ人は『シェケム』をその住まいとしましたが、これは既に見た通り逃れの町でした。『ゲゼル』はアヤロンの南にあり、エフライムの相続地における最も南西です。『ベテ・ホロン』はゲゼルから20kmほど東にあります。『エルテケ』はゲゼルから15kmほど南西にあり、ダン族の相続地における南の境界線に面しています。『ギベトン』はエルテケのすぐ北です。あのアヤロンは彼らの住まいとなりました。『ガテ・リモン』はアヤロンの北にあり、シャロンの平原の南側にあります。『タナク』はメギドの南にあり、マナセの半部族の相続地における北側です。先に見た『ガテ・リモン』はダンの相続地であり、そこはマナセの半部族の相続地にも含まれていましたが、マナセの半部族の相続地に含まれるほうの『ガテ・リモン』もアロンの子孫でないケハテ族の住まいとなりました。彼らに住まいとして与えられた町とその放牧地は、ヨルダン川の西側部分における中央部分に広がっています。

【21:27~33】
『レビ諸氏族の一つゲルション族には、マナセの半部族から、殺人者ののがれの町バシャンのゴランとその放牧地、ベエシュテラとその放牧地、この二つの町。イッサカル部族から、キシュヨンとその放牧地、ダベラテとその放牧地、ヤルムテとその放牧地、エン・ガニムとその放牧地、この四つの町。アシェル部族から、ミシュアルとその放牧地、アブドンとその放牧地、ヘルカテとその放牧地、レホブとその放牧地、この四つの町。ナフタリ部族から、殺人者ののがれの町、ガリラヤのケデシュとその放牧地、ハモテ・ドルとその放牧地、カルタンとその放牧地、この三つの町を与えた。それでゲルション人の諸氏族の町の総数は、十三の町と、その放牧地であった。』
 ゲルション族であるレビ人に住まいとして宛がわれた『ゴラン』は逃れの町であり、マナセの半部族の相続地における中央部分にあります。ナフタリ部族の相続地にあった逃れの町である『ケデシュ』はゲルション族の住まいとなりました。ゲルション族に与えられた住まいと放牧地はカナンの北側に位置しています。

【21:34~40】
『レビ人の残りのメラリ諸氏族には、ゼブルン部族から、ヨクネアムとその放牧地、カルタとその放牧地、ディムナとその放牧地、ナハラルとその放牧地、この四つの町。ルベン部族から、ベツェルとその放牧地、ヤハツとその放牧地、ケデモテとその放牧地、メファアテとその放牧地、この四つの町。ガド部族から、殺人者ののがれの町ギルアデのラモテとその放牧地、マハナイムとその放牧地、ヘシュボンとその放牧地、ヤゼルとその放牧地、全部で四つの町。これらの町はみな、レビ諸氏族のうちの残りの諸氏族、メラリ族のもので、くじによって与えられた十二の町であった。』
 メラリ族であるレビ人に住まいとして与えられた『ヨクネアム』はイズレエルの平原にあり、ゼブルン部族の相続地における最も南西です。『ヤハツ』はネボ山から25kmほど南東に離れています。『メファアテ』はルベン部族の相続地における最も北東にあり、その東はアモン人の国と接しています。ガド族の相続地に定められた『ラモテ』はメラリ族の住まいとなりました。『マハナイム』はガドの北部に位置しています。『ヘシュボン』はネボ山から20kmほど北東にあり、それはガドの最南端です。このようにメラリ族のレビ人は、ヨルダン川の東側ではルベン族とガド族の相続地から、ヨルダン川の西側ではゼブルン族の相続地から、その住まいと放牧地を宛がわれました。

【21:41~42】
『イスラエル人の所有のうちで、レビ人の町は、全部で四十八の町と、その放牧地とであった。これらの町には、それぞれの周囲に放牧地があった。これらの町はみなそうなっていた。』
 レビ人が住まいとして受けた町の総数である『四十八』は、何も象徴的な意味を持ちません。この「48」から「6」つの逃れの町を除けば「42」となります。「42」であれば聖書には意味があります。すなわち、「42」は<少ない>または<短い>という意味です。しかし、レビ人が住まいとして受けた逃れの町は「5」つでしたから、「48」から「42」という数字は出てきません。出てくる数字は「43」ですが、この数字に聖書的な意味はありません。これら48の町はどれも周囲に放牧地がありました。これはレビ人が家畜を持っているのでどうしても放牧地を必要としたからです。

【21:43~45】
『こうして主は、イスラエルの先祖たちに与えると誓った地をすべて、イスラエルに与えられたので、彼らはそれを占領して、そこに住んだ。主は、彼らの先祖たちに誓ったように、周囲の者から守って、彼らに安住を許された。すべての敵の中で、ひとりも彼らの前に立ちはだかる者はいなかった。主はすべての敵を彼らの手に渡された。主がイスラエルの家に約束されたすべての良いことは、一つもたがわず、みな実現した。』
 こうしてユダヤ人はカナンの地から異邦人を追い払って占領しました。聖書を読めば分かる通り、まだカナンの全ての地域を隅々まで徹底的に占領していたというわけではありません。しかし、全体的に言えば確かにユダヤ人はカナンの地を全て占領したと言うことができました。この占領はユダヤ人が自分自身の力で成し遂げたわけではありません。もしユダヤ人だけで占領しようとしていれば、強く数も多いカナン人たちを駆逐することはできませんでした。実際、ユダヤ人が自分たちだけで占領を試みた際は、カナン人から返り討ちにされて上手く行きませんでした(民数記14:40~45)。1世代目のユダヤ人は神が共にいて下さらなかったからです。しかし、2世代目のユダヤ人には神が共にいて下さいました。この神は『いくさびと』(出エジプト記15章3節)であり、神の『右の手は敵を打ち砕』(出エジプト記15章6節)きますから、たとえマルスが1億人束になって戦ったとしても打ち負かされてしまいます。無敵の神に勝てる敵などいません。ですから、このような神が共におられたユダヤ人は、神によりカナン人たちを追い払うことができたのです。

 ユダヤ人が占領した地に住むようになると、神は彼らを敵から守り安住できるようになさいました。神が周囲にいた敵をユダヤ人の手に渡されましたから、『ひとりも彼らの前に立ちはだかる者はいなかった』のです。これは前から約束されていたことでした(申命記7:24)。神がユダヤ人をカナンの地に植えて栽培するようにされました。ですから、神は敵という嵐や鳥からユダヤ人を守られたのです。自分の育てる植物を保護しようとしない人がどこにいるでしょうか。

 このようにして神のユダヤ人に対する約束はことごとく成就しました(45節)。これは『神は人間ではなく、偽りを言うことがない』(民数記23章19節)からです。このため聖書は神が『真実な方』(Ⅰコリント10章13節)だと述べているのです。何故なら、偽らないということは真実だということだからです。

【22:1~6】
『そのとき、ヨシュアはルベン人、ガド人、およびマナセの半部族を呼び寄せて、彼らに言った。「あなたがたは、主のしもべモーセがあなたがたに命じたことを、ことごとく守り、また私があなたがたに命じたすべてのことについても、私の声に聞き従った。今日まで、この長い間、あなたがたの同胞を捨てず、あなたがたの神、主の戒め、命令を守ってきた。今すでに、あなたがたの神、主は、あなたがたの同胞に約束したように、彼らに安住を許された。今、主のしもべモーセがあなたがたに与えたヨルダン川の向こう側の所有地、あなたがたの天幕に引き返して行きなさい。ただ主のしもべモーセが、あなたがたに命じた命令と律法をよく守り行ない、あなたがたの神、主を愛し、そのすべての道に歩み、その命令を守って、主にすがり、心を尽くし、精神を尽くして、主に仕えなさい。」ヨシュアは彼らを祝福して去らせたので、彼らは自分たちの天幕に行った。』
 レビ人の住まいと放牧地が主により決められると、ヨシュアは『ルベン人、ガド人、およびマナセの半部族』が自分たちの相続地へ帰るよう命じます。2部族と半部族はカナンの西側で全て相続地が定まってから自分たちの相続地に帰れる、というのが前から決まっていたことだからです(民数記32:18)。彼らはここまでよくやりました。ですから、臆することなくヨルダン川の東にある自分たちの住まいに帰ることができました。もし彼らが誓いを果たさなかったり、いい加減に歩んでいたとすれば、こうはいかなかったでしょう。その場合、彼らが自分たちの住まいに帰れたかどうか定かではありません。ヨシュアは彼らを『祝福して去らせ』ました。これは彼らに何の落ち度もなかったからです。この時にヨシュアが与えた祝福は神における祝福でした。それゆえ、帰って行った2部族と半部族は神からの祝福を受けたはずです。

 ヨシュアは、2部族と半部族が帰る際、帰ってからも神への愛と従順を忘れないよう警告します(5節)。ここまで彼らは神を愛し神に従っていました。これから自分たちの住まいに帰るからといって、そのような敬虔さを失わせてはいけませんでした。それはずっと保たれているべきだからです。人は、気を引き締めているべき時間や期間が終わると、往々にしてすぐにもだらけてしまうものです。会社ではきっちり振る舞う真面目そうな社員が、家では何にも気にせずだらしなくしている、というのが良い例です。ヨシュアは一段落経ったからといって気を緩めてはいけないと注意したわけです。私たちも霊において気を緩めるべきではないでしょう。神の御前で聖徒たちは常にしっかりしているべきだからです。あのパウロも決して気を緩めないような信仰者でした。

【22:7】
『―マナセの半部族には、モーセがすでにバシャンに所有地を与えていたが、他の半部族には、ヨシュアはヨルダン川のこちら側、西のほうで、彼らの同胞といっしょに所有地を与えた。―』
 マナセの半部族は2つありましたが、それぞれの半部族には異なる相続地が与えられたということを、この箇所では確認しています。一方の半部族には、数年前に、ヨルダン川の東側で、モーセを通して相続地が与えられていました。もう一方の半部族には、つい先ほど、ヨルダン川の西側で、ヨシュアを通して相続地が与えられました。どちらの相続地も大きな面積でしたが、東側のほうは西側の2倍ぐらいの面積がありました。東側の相続地はアモン人の国と接していますから、後の時代ではアモン人の侵入に対処しなければいけませんでした。西側の相続地は、北西がアシェルと、北がゼブルンと、北東がイッサカルと、南西がダンと、南がエフライムと、東がヨルダン川と接しています。東側の相続地は、北がシドン人の地域と、北西がダンの新しい相続地と、南がガドと、西がヨルダン川と接しています。西側の相続地はやがて北王国イスラエルの領地となります。東側の相続地は、やがて南の幾らかの部分が北王国イスラエルの領地となり、それ以外の部分はシリヤ人の地域となりました。

【22:7~9】
『さらに、ヨシュアは彼らを天幕に送り返すとき、彼らを祝福して、次のように彼らに言った。「あなたがたは多くの財宝と、おびただしい数の家畜と、銀、金、青銅、鉄、および多くの衣服とを持って天幕に帰りなさい。敵からの分捕り物はあなたがたの同胞と分け合いなさい。」それでルベン族、ガド族、マナセの半部族は、カナンの地にあるシロでイスラエル人と別れ、モーセを通して示された主の命令によって、彼らが得た自分の所有地、ギルアデの地へ行くために帰って行った。』
 ヨシュアは2部族と半部族を送り返す際、彼らが『多くの財宝と、おびただしい数の家畜と、銀、金、青銅、鉄、および多くの衣服とを持って天幕に帰』るよう指示します。彼らは民の先頭に立って戦うという最も勇敢でリスクの高い行為をしたのですから、敵から獲得した戦利品の多くを報酬として受け取る権利がありました。こうして彼らは他の諸部族から『別れ』ましたが、これは本質的な別れではありません。すなわち、これは子どもが親元から離れたり、学生が卒業して学校を離れたりするような、本質的離別ではありませんでした。これは夕方なので遊んでいた友だちと別れて家に帰るのと同じで、ただ自分たちの住まいに戻るというだけの『別れ』でした。このやり取りは『シロ』で起こりました。そこに会見の天幕と契約の箱があり、イスラエル人はそこに集まっていたからです。

【22:10~12】
『ルベン族、ガド族、マナセの半部族は、カナンの地にあるヨルダン川のほとりの地に来たとき、そこ、ヨルダン川のそばに一つの祭壇を築いた。それは、大きくて、遠くから見える祭壇であった。イスラエル人はこういううわさを聞いた。「ルベン族、ガド族、およびマナセの半部族が、カナンの地の国境、ヨルダン川のほとりの地、イスラエル人に属する側で、一つの祭壇を築いた。」イスラエル人がそれを聞いたとき、イスラエル人の全会衆は、シロに集まり、彼らといくさをするために上って行こうとした。』
 2部族と半部族が帰る際にヨルダン川の畔に大きくて目立つ祭壇を築いたので、それについて知った他の諸部族は彼らと戦おうとします。彼らが祭壇を築いたのは神への反逆を示しているように感じられたからです。主のためでない祭壇を勝手に築くのは律法違反です。祭壇はキリストという永遠の犠牲を指し示す動物犠牲が捧げられる場所ですから、イスラエル人とその社会における根幹です。そのような聖なる祭壇を蔑ろにし、主でない他の神々のために邪な祭壇を築くのは、冒涜的であり実に許し難い行為です。ですから、他の諸部族は2部族と半部族と戦いに行こうとしたのでした。イスラエル社会に神への反逆があってはならないからです。この祭壇は2部族と半部族が共同して築きました。それゆえ、他の諸部族はその2部族と半部族を全て懲らしめようとしたのです。

【22:13~20】
『それでイスラエル人は、祭司エルアザルの子ピネハスを、ギルアデの地のルベン族、ガド族、およびマナセの半部族のところに送り、イスラエルの全部族の中から、一族につき族長ひとりずつ、全部で十人の族長を彼といっしょに行かせた。これらはみな、イスラエルの分団の中で、父祖の家のかしらであった。彼らはギルアデの地のルベン族、ガド族、およびマナセの半部族のところに行き、彼らに告げて言った。「主の全会衆はこう言っている。『この反逆は何か。あなたがたはきょう、主に従うことをやめて、イスラエルの神に反逆し、自分のために祭壇を築いて、きょう、主に反逆している。ペオルで犯した不義は、私たちにとって小さなことだろうか。私たちは今日まで、自分たちの身をきよめていない。そのために、神罰が主の会衆の上に下ったのだ。あなたがたは、きょう、主に従うことをやめようとしている。あなたがたは、きょう、主に反逆しようとしている。あす、主はイスラエルの全会衆に向かって怒られるだろう。もしあなたがたの所有地がきよくないのなら、主の幕屋の立つ主の所有地に渡って来て、私たちの間に所有地を得なさい。私たちの神、主の祭壇のほかに、自分たちのために祭壇を築いて、主に反逆してはならない。また私たちに反逆してはならない。ゼラフの子アカンが、聖絶のもののことで罪を犯し、イスラエルの全会衆の上に御怒りが下ったではないか。彼の不義によって死んだ者は彼ひとりではなかった。』」』
 事態があまりにも深刻だったので、イスラエル人は、エルアザルの子ピネハスをヨルダン川の西側にいた諸部族の長たちと一緒に、2部族と半部族のところへ遣わします。これはピネハスと族長たちを通して2部族と半部族にイスラエル人の声を知らせ、偶像崇拝のために築いたと思われる祭壇を取り壊させるためです。もし取り壊さなければ軍団を送って懲らしめるというわけです。この時にシロから祭司エルアザルでなくその子ピネハスが遣わされたのは、エルアザルには祭儀の職務があったのでシロから離れられなかったからです。ちょうど王が都で公務に忙しいので王子を地方へと遣わすようなものです。

 ピネハス一行が2部族と半部族のところに着くと、祭壇のことで2部族と半部族を難詰します。イスラエル人の頭にはあのペオルの事件のことがありました(17節)。バアル・ペオルでの時、ユダヤ人は偶像崇拝に陥ったので、裁きとして多くの者が死んだのでした。またイスラエル人には、あのアカン事件もまだ鮮明な記憶として強く頭に残っていました(20節)。あの時は、アカン一人だけが罪を犯したのに、アカンだけでなく『イスラエルの全会衆の上に御怒りが下った』のでした。このため、ピネハス一行は、2部族と半部族が犯そうとしていたと思われた偶像崇拝の罪を止めさせようと難詰したのです。もしそのまま祭壇により偶像崇拝が行なわれたとすれば、ペオルやアカンの時に起きたのと同様の悲劇が再び繰り返されることになるだろうからです。確かに、そのような悲劇が起こるのは何としても避けねばなりません。また、この時、ピネハス一行には、2部族と半部族がヨルダン川の東側にある相続地を清くないと思っているらしく感じられました(19節)。というのも、ヨルダン川の東側はカナンの地とヨルダン川を隔てて断絶していたからです。ですから、ピネハス一行は、もしヨルダン川の東側の相続地が清くないと思うのであれば、ヨルダン川の西側に来てそこで相続地を持つべきだと、2部族と半部族に対して解決案を提示します(19節)。「ヨルダン川の西側であれば主の幕屋のある地域なのだから問題ないはずだ。」とうわけです。このようにピネハス一行が言ったのは、恐るべき神罰を引き起こす偶像崇拝のための祭壇が何としても除かれるようにするためでした。

【22:21~29】
『すると、ルベン族、ガド族、およびマナセの半部族は、イスラエルの分団のかしらたちに答えて言った。「神の神、主。神の神、主は、これをご存じです。イスラエルもこれを知るように。もしこれが主への反逆や、不信の罪をもってなされたのなら、きょう、あなたは私たちを救わないでください。私たちが祭壇を築いたことが、主に従うことをやめることであり、また、それはその上で全焼のいけにえや、穀物のささげ物をささげるためであり、あるいはまた、その上で和解のいけにえをささげるためであったのなら、主ご自身が私たちを責めてくださるように。しかし、事実、私たちがこのことをしたのは、次のことを恐れたからです。後になって、あなたがたの子らが私たちの子らに次のように言うかもしれないと思いました。『あなたがたと、イスラエルの神、主と何の関係があるのか。主はヨルダン川を、私たちとあなたがた、ルベン族、ガド族との間の境界とされた。あなたがたは主の中に分け前を持っていない。』こうして、あなたがたの子らが私たちの子らに、主を恐れることをやめさせるかもしれません。それで、私たちは言いました。『さあ、私たちは自分たちのために、祭壇を築こう。全焼のいけにえのためではなく、またほかのいけにえのためでもない。ただ私たちとあなたがたの間、また私たちの後の世代との間の証拠とし、私たちが、全焼のいけにえとほかのいけにえと和解のいけにえをささげて、主の前で、主の奉仕をするためである。こうすれば、後になって、あなたがたの子らは私たちの子らに、「あなたがたは主の中に分け前を持っていない。」とは言わないであろう。』また私たちは考えました。後になって、もし私たち、また私たちの子孫に、そのようなことが言われたとしても、そのとき、私たちはこう言うことができる。『私たちの先祖が造った主の祭壇の型を見よ。これは全焼のいけにえのためでもなく、またほかのいけにえのためでもなく、これは私たちとあなたがたとの間の証拠なのだ。』私たちが、主の幕屋の前にある私たちの神、主の祭壇のほかに、全焼のいけにえや、穀物のささげ物や、他のいけにえをささげる祭壇を築いて、きょう、主に反逆し、主に従うことをやめるなど、絶対にそんなことはありません。」』
 ピネハス一行から責められた2部族と半部族は、祭壇について弁明をしますが、その弁明は正しく納得できる内容でした。2部族と半部族は邪な意図で祭壇を築いたのではありません。むしろ、非常に良い目的のために祭壇を築きました。その祭壇は実用性を全く持たないただのシンボルとしての祭壇に過ぎませんでした。それは2部族と半部族の子孫のためにこそ築かれたのです。ヨルダン川の西側にいるユダヤ人の子孫は、後になるとヨルダン川の東側にいるユダヤ人の子孫に対し、主の幕屋のある西側の地域に東側の地域がヨルダン川を隔てて断絶しているというので、東側にいるユダヤ人は主と何の関係もないと言って躓かせる恐れがありました(24~25節)。しかし、ヨルダン川の西に主の祭壇を模したシンボルとしての祭壇が築かれていれば、その祭壇が証拠となり、ヨルダン川の西にいるユダヤ人の子孫がヨルダン川の東にいるユダヤ人の子孫を躓かせることもなくなります。その祭壇が、東にいるユダヤ人も西の地域と関わりを持つことを示しているからです。もしたとえ西のユダヤ人が東のユダヤ人を躓かせようとしても、その祭壇を示して、西のユダヤ人に反論することができます(28節)。このように子孫を守るため、2部族と半部族はヨルダン川の畔に祭壇を築いたのでした。ですから、彼らが築いたこの祭壇は彼らを罪に定めません。しかしながら、彼らは他の諸部族に誤解させないため、予め理由を説明してからこの祭壇を築くべきだったかもしれません。この祭壇そのものに問題はありませんでしたが、2部族と半部族は幾らか思慮が足りなかったと言えるでしょう。もし前もって説明していればこのような騒ぎは起こらなかったでしょうから。

 この2部族と半部族の弁明に噓偽りが無かったのは、22~23節目の箇所から分かります。22節目で、彼らはヤハウェの御名を2度も示し、そのヤハウェを自分たちが邪な理由から祭壇を築いたのではないということの証人としています。神を証人に立てるということ以上に強力かつ疑い得ない弁明はありません。何故なら、もし偽りの証人として神を利用するならば、そのような者は必ず神から裁かれるからです。ユダヤ人のような徹底した有神論者が、裁かれると分かっていながら、神を偽りの証人として立てるはずはありません。また22節目では、もし反逆心から祭壇が築かれたとすれば救われなくても構わない、つまり滅ぼされてもよい、と2部族と半部族は言っています。もし反逆心から祭壇を築いていたとすれば、これは決して言えないことでした。23節目でも、もし邪悪な目的から祭壇が築かれたとすれば神から責められても構わないと彼らは言っていますが、神から責められるというのは実際的な不幸を受けることです。これも、やはり邪悪な目的で祭壇を築いていたとすれば決して言えないことでした。

【22:30~34】
『祭司ピネハス、および会衆の上に立つ族長たち、すなわち彼とともにいたイスラエルの分団のかしらたちは、ルベン族、ガド族、およびマナセ族が語ったことばを聞いて、それに満足した。そしてエルアザルの子の祭司ピネハスは、ルベン族、ガド族、およびマナセ族に言った。「きょう、私たちは、主が私たちの中におられるということを知った。あなたがたが主に対してこの罪を犯さなかったからである。あなたがたは、今、イスラエル人を、主の手から救い出したのだ。」こうして、エルアザルの子の祭司ピネハスと族長たちは、ギルアデのルベン族およびガド族から別れて、カナンの地のイスラエル人のところに帰り、このことを報告した。そこで、イスラエル人は、これに満足した。それでイスラエル人は、神をほめたたえ、ルベン族とガド族の住んでいる地に攻め上って、これを滅ぼそうとは、もはや言わなかった。それでルベン族とガド族は、その祭壇を「まことにこれは、私たちの間で、主が神であるという証拠だ。」と呼んだ。』
 ピネハスと族長たちは2部族と半部族の弁明を聞き、その正しさに納得します。そしてシロの陣営に帰り、事情を全会衆に報告したので、イスラエル人たちは満足して主を賛美しました。こうして誤解が判明したので、もはや2部族と半部族が滅ぼされることはなくなりました。もし2部族と半部族が忌まわしい目的から祭壇を築いていたとすれば、こうはならず、悲しむべき戦いがユダヤ人の間に起きていたはずです。そして、最悪の場合、この2部族と半部族は滅ぼされ消滅していたかもしれません。また、もし2部族と半部族が祭壇について正しく弁明しないほど愚かであったとすれば、彼らがどうなっていたか定かではありません。その場合、誤解が解けないままなので、他の諸部族は2部族と半部族を滅ぼしていたかもしれません。ここで誰かが「この2部族と半部族は事前に説明してから祭壇を築かなかったから多かれ少なかれ咎められるべきであろう。」と言うかもしれません。しかし、確かにこの意見が尤もらしいとしても、このようなミスであれば多くの人が犯した経験を持っているはずですから、多くの人は彼らのミスを強く非難できる立場にはないはずです。このようなミスであれば政府であれ会社であれ家庭であれ日常的に起こっています。2部族と半部族の思慮のなさに憤慨する人もいるかもしれませんが、結果的には主が全てを穏やかに終結させて下さったのですから、それで良かったとすべきだと思われます。

 この日、ユダヤ人たちは主がユダヤ人のうちにおられユダヤ人と共に歩んでおられることを、まざまざと知りました(31節)。主がユダヤ人のうちにおられたからこそ、この2部族と半部族が祭壇のことで罪を犯さないように守られていたのです。もし主がユダヤ人と共におられなければ、2部族と半部族は祭壇のことで罪に委ねられていたでしょうから、裁きとして2部族と半部族を含めたユダヤ人の全体が悲惨になっていたはずです。というのも、神が共におられなければ罪と悲惨と滅びに陥らされるからです。また、31節目で言われている通り、2部族と半部族は『今、イスラエル人を、主の手から救い出した』のでした。これは2部族と半部族が正しく弁明したため、神の災いがイスラエル人の上に降りかからなくて済むようになったからです。この時に築かれた祭壇は『まことにこれは、私たちの間で、主が神であるという証拠だ。』と呼ばれましたが、これは神がヨルダン川の西側にいるユダヤ人と東側にいるユダヤ人に共通した神であるということを示しています。このような証拠が築かれたので、もはやこれから西側にいるユダヤ人は、東側にいるユダヤ人が主の幕屋のある西側の地域からヨルダン川を境として隔てられているというので疎外できなくなりました。この祭壇において西側のユダヤ人と東側のユダヤ人はどちらも神に結びつけられているからです。

【23:1~2】
『主が周囲のすべての敵から守って、イスラエルに安住を許されて後、多くの日がたち、ヨシュアは年を重ねて老人になっていた。ヨシュアは全イスラエル、その長老たちや、かしらたちや、さばきつかさたち、およびつかさたちを呼び寄せて彼らに言った。「私は年を重ねて、老人になった。』
 カナンの地に住むようになったユダヤ人はそこで安住するようになりましたが、このような安住はただ神の恵みによります。というのも平和に住むというのは神の賜物に他ならないからです。賜物は神からのみ下ります(ヤコブ1:17)。ですから、ユダヤ人は神の好意によりそこで安住できていたことが分かります。もし神の好意を受けていなければ、平和に住まうことはできなかったでしょう。敵が現われたり何らかの災いが起こるなどして、神が安住を許されないからです。

 ヨシュアも自然の運命からは逃れられず『年を重ねて老人になってい』ました。これからヨシュアは暫くすると110歳で死にますから(ヨシュア記24:29)、この箇所でのヨシュアは恐らく既に100歳を超えていたと思われます。ここまで長く生きていたのは生命の主であられる神がヨシュアを生かしておられたからです。

 この時にヨシュアは『長老たちや、かしらたちや、さばきつかさたち、およびつかさたち』を呼び寄せ、死ぬ前にイスラエル人たちを教導します。その教導はここからヨシュア記24:28の箇所まで書かれています。このように教導してからヨシュアが死ぬまでどれぐらい生きたかは不明ですが、この教導は遺言として見做しても差し支えないでしょう。この時にヨシュアが指導者たちだけを呼び寄せたのは、指導者たちだけを教導すれば、その指導者たちを通してイスラエルの全会衆も教導されるからです。わざわざイスラエル人の全会衆を自分の前に集合させる必要はありませんでした。