【ヨシュア記23:3~24:33】(2022/05/22)


【23:3】
『あなたがたは、あなたがたの神、主が、あなたがたのために、これらすべての国々に行なったことをことごとく見た。あなたがたのために戦ったのは、あなたがたの神、主だからである。』
 ユダヤ人は、これまで神がカナンの諸国を攻め取られるのをまざまざと見ました。神はユダヤ人のため、それらの国々を滅ぼし、ユダヤ人に占領させて下さったのです。その時、神はカナン人たちに対し連戦連勝されました。これは当然です。何故なら、神に僅かでも対抗できるような民が一体どこにいるでしょうか。

【23:4~5】
『見よ。私は、ヨルダン川から日の入るほうの大海まで、これらの残っている国々と、すでに私が断ち滅ぼしたすべての国々とを、相続地として、くじによってあなたがたの部族に分け与えた。あなたがたの神、主ご自身が、あなたがたの前から彼らを追いやり、あなたがたの目の前から追い払う。あなたがたは、あなたがたの神、主があなたがたに告げたように、彼らの地を占領しなければならない。』
 既にカナンの全土は籤で相続地の割り当てが決まっていたものの(4節)、その全ての地域から敵を追い払って占領していたわけではありませんでした。前述の通り、神はカナンの地をすぐにも一挙に獲得させて下さるのではないからです。ですから、ユダヤ人たちはまだ占領し切れていない地域にも攻め上り、そこから敵を追い払って占領せねばなりませんでした。神が必ずその敵どもを駆逐して下さいますから、ユダヤ人がまだ未占領の地域に攻め上れば必ず占領できました(5節)。ヨシュアはもう老齢で時間が多く残されていなかったので、自分が暫くすれば死ぬことを考慮し、このようにこれからも残りの事業をしっかり行なうようにと指示したわけです。この占領は命令でしたから、もしユダヤ人が占領を実行しなければ罪となりました。

【23:6】
『あなたがたは、モーセの律法の書にしるされていることを、ことごとく断固として守り行ない、そこから右にも左にもそれてはならない。』
 ヨシュアは、ユダヤ人がモーセ律法をことごとく守るよう厳命します。これは律法の遵守に、ユダヤ人の祝福と呪いがかかっているからです。もしユダヤ人が律法を守れば祝福されますが(申命記28:1~14)、守らなければ呪われてしまいます(申命記28:15~68)。ユダヤ人は当然ながら律法を守り祝福され繁栄すべきでした。ですから、ヨシュアはこのように律法を守れと厳しく命じているのです。

【23:7~8】
『あなたがたは、これらの国民、あなたがたの中に残っているこれらの国民と交わってはならない。彼らの神々の名を口にしてはならない。それらによって誓ってはならない。それらに仕えてはならない。それらを拝んではならない。ただ、今日までしてきたように、あなたがたの神、主にすがらなければならない。』
 ユダヤ人は、まだ未占領の地域に残っているカナン人と決して交わってはいけませんでした。もし交われば、カナン人がユダヤ人を偶像崇拝へと引き込むだろうからです(申命記7:3~4)。たとえカナン人と交わらなかったとしても、カナン人が拝んでいた偽りの神々に帰依してはなりませんでした。それは律法が禁じる偶像崇拝であって、ユダヤ人を贖って下さった主なる神への忘恩・裏切り行為となるからです。もしそのような罪に陥れば、ユダヤ人は神の御怒りによりたちまち滅ぼされてしまいます。そうならないために、ユダヤ人たちは『今日までしてきたように、あなたがたの神、主にすがらなければな』りませんでした。主にすがるのであれば、他の神々を求めたりすることもないからです。主にすがることこそ神の民に相応しいのは言うまでもありません。

【23:9~10】
『主が、大きくて強い国々を、あなたがたの前から追い払ったので、今日まで、だれもあなたがたの前に立ちはだかることのできる者はいなかった。あなたがたのひとりだけで千人を追うことができる。あなたがたの神、主ご自身が、あなたがたに約束したとおり、あなたがたのために戦われるからである。』
 神は、ここまでカナンにあった多くの強国を打ち倒されました。ですから、神の支配しておられる民ユダヤにはどのような国であっても対抗できませんでした。カナン人が戦っていた相手はユダヤ人です。しかし、このユダヤ人の先頭には神がおられました。ですから、カナン人はユダヤ人とだけでなく神とも戦っていました。このため、カナン人は神が共におられるユダヤ人を倒せなかったのです。もっとも、アイに攻めた時だけは例外でした。あの時はユダヤ人の罪により、神がユダヤ人と共におられませんでしたから、例外的に敵を打ち倒すことができませんでした(ヨシュア記7章)。

 ここまで神が敵を打ち負かして下さったように、これからも神はまだカナンに残っている敵を打ち負かして下さいます。ですから、ユダヤ人『のひとりだけで千人を追うことができ』ました。これは律法の祝福の一つです(レビ記26:8)。つまり、この時のユダヤ人は少数で多くの敵を追い払えたのですから、祝福されていたことが分かります。確かに神が共におられるならば、たった1人だけで敵の千人をさえ凌駕できます。ここに神の祝福があるのです。このような神によるカナン占領は、やがてキリストがその救いにおいて諸国の民を勝ち取る予表でした。この時にカナンが次々と占領されてユダヤ人の所有地になったのと同様、新約時代になるとキリストがその福音を通し、世界中の民を御自分の支配下へと導き入れたのです。つまり、このカナンは新約時代における全世界を示しています。

【23:11】
『あなたがたは、十分に気をつけて、あなたがたの神、主を愛しなさい。』
 ヨシュアが神を愛するようユダヤ人に求めているのは、もしユダヤ人が神を愛するならば神はユダヤ人のためカナンの地をこれからも占領させて下さるからです。神は御自分を愛する者を愛されます(箴言8:17)。ですから、ユダヤ人が神を愛するならば、神もユダヤ人を愛して、まだ残っている未占領の地域をユダヤ人が獲得できるように働きかけて下さいます。しかし、神を憎む者は死を愛しています(箴言8:36)。つまり、もしユダヤ人が神を愛さず憎むなら、神もユダヤ人を憎んで共に戦って下さいませんから、ユダヤ人は敵に打ち取られて死滅させられるのです。

【23:12~13】
『しかし、もしもあなたがたが、もう一度堕落して、これらの国民の生き残っている者、すなわち、あなたがたの中に残っている者たちと親しく交わり、彼らと互いに縁を結び、あなたがたが彼らの中にはいって行き、彼らもあなたがたの中にはいって来るなら、あなたがたの神、主は、もはやこれらの国民を、あなたがたの前から追い払わないことを、しかと知らなければならない。彼らは、あなたがたにとって、わなとなり、落とし穴となり、あなたがたのわき腹にむちとなり、あなたがたの目にとげとなり、あなたがたはついに、あなたがたの神、主があなたがたに与えたこの良い地から、滅びうせる。』
 もしこれからユダヤ人がまだ未占領の地にいるカナン人と縁を結ぶなら、そのカナン人は必ずユダヤ人に害を齎します。その害がこの箇所では『わな』『落とし穴』『むち』『とげ』と表現されています。つまり、その存在そのものが苦痛を齎すということです。ソロモンも言うように、『愚かな者の友となる者は害を受ける』(箴言13章20節)のです。カナン人は『愚かな者』でなくて何でしょうか。エサウも愚かなヘテ人を妻にしたので、家族に害を撒き散らしました(創世記26:34~35)。ここで『縁を結』ぶと言われているのは、結婚したり同盟関係を結んだりすることです。ユダヤ人がまだ生き残っているカナン人と縁を結ぶのは、ユダヤ人の『堕落』を示します。何故なら、堕落しておかしくなっているからこそ、腐ったカナン人と縁を結ぼうとするのだからです。腐っているからこそ腐った者と関係を持とうとします。ちょうど忌まわしい蠅や蛆が気持ちの悪い糞に自分から近寄りくっつくようなものです。もしこのようにユダヤ人が腐敗したカナン人と縁を結ぶほどまでに腐るならば、神はもはやカナン人をその地から追い払って下さいません。何故なら、ユダヤ人がカナン人と敵対せず味方になっているからです。そして、ユダヤ人は『滅びうせる』ことになります。ユダヤ人が神の命令通りにカナン人を滅ぼさないので、神の御怒りがユダヤ人に対して燃え上がるからです。

【23:14】
『見よ。きょう、私は世のすべての人の行く道を行こうとしている。』
 『世のすべての人の行く道』とは死を指します。この時のヨシュアはもう自分が間もなく死ぬことを分かっていました。『きょう』と彼が言っているのは、文字通りの意味で今日死ぬというわけではないと思われます。この『きょう』とは現段階の状態を大まかに言い表した言葉なのでしょう。何故なら、ヨシュア記24:28~29の箇所から考えると、どうやらヨシュアは民をこの日に教導してからもう暫く生きたと思えるからです。私の理解では、人にはやがて死ぬことを悟る「ゾーン」があります。その「ゾーン」に入ると自分でも気付きます。ですから、それまでは死など自分と無関係でもあるかのようにヘラヘラしていたりしても、やや雰囲気や態度などが変化し、過去の思い出を語ることが多くなったりします。この時のヨシュアもそのような「ゾーン」に入っていたのは間違いありません。

『あなたがたは、心を尽くし、精神を尽くして知らなければならない。あなたがたの神、主が、あなたがたについて約束したすべての良いことが一つもたがわなかったことを。それは、一つもたがわず、みな、あなたがたのために実現した。』
 神は、これまで御自分の約束された良い事柄をことごとくユダヤ人のために実現して下さいました。その約束とは、エジプトで奴隷状態だったユダヤ人を神が大いなる御力をもって贖い出して下さったこと、また贖い出してからユダヤ人を素晴らしいカナンの地に導き入れそこで住むようにして下さったこと、などがそうです。主は約束されたことを必ず実現なさる御方です。それゆえ、私たちは主の約束に信頼しなければなりません。もし信頼しなければ、その人は神と神の真実性を醜き不信仰により傷つけ侮辱し汚しているのです。

【23:15~16】
『あなたがたの神、主があなたがたについて約束したすべての良いことが、あなたがたに実現したように、主はまた、すべての悪いことをあなたがたにもたらし、ついには、あなたがたの神、主が、あなたがたに与えたこの良い地から、あなたがたを根絶やしにする。主があなたがたに命じたあなたがたの神、主の契約を、あなたがたが破り、行って、ほかの神々に仕え、それらを拝むなら、主の怒りはあなたがたに向かって燃え上がり、あなたがたは主があなたがたに与えられたこの良い地から、ただちに滅びうせる。」』
 もしこれからユダヤ人が神に反抗し神を捨て去り、他の神々に帰依するならば、神の燃える御怒りによりユダヤ人は『ただちに滅びうせる』ことになります。ユダヤ人が神に良くされているのにもかかわらず、あたかも良くされていないかのように神を忘れ捨て去るからです。こんなことをすれば神に滅ぼされても文句は言えません。この世でも忘恩の徒は許し難い人物と見做されるものです。つい先ほど見た通り、神はこれまで御自分の良い約束をことごとくユダヤ人のために実現して下さいました。そのような確実さをもって、もしユダヤ人が神に反逆した場合、神はユダヤ人を裁きにより滅ぼされます。つまり、ユダヤ人が神から良くされたのが確かであるのと同様に、ユダヤ人が悪を犯した場合に滅ぼされることも確かなのです。ヨシュアはこのように言うことで、ユダヤ人がこれから神に反逆しないよう脅迫しているのです。

【24:1~2】
『ヨシュアはイスラエルの全部族をシェケムに集め、イスラエルの長老たち、そのかしらたち、さばきつかさたち、つかさたちを呼び寄せた。彼らが神の前に立ったとき、ヨシュアはすべての民に言った。「イスラエルの神、主はこう仰せられる。』
 ヨシュアはエバル山とゲリジム山の麓にあるシェケムにイスラエル人を集め、その中から指導者たちを自分の前に呼び寄せ、もう再びイスラエル人に最後の教導を与えます。この時もやはりヨシュアの前に呼ばれたのは指導者たちだけでした。指導者を教えれば、その指導者が民の全体に教えるからです。今度の教導では、神がヨシュアの口を通して直に語りかけておられます(ヨシュア記24:2~13)。この点がヨシュア記24章の教導はヨシュア記23章の教導と異なっています。ヨシュア記23章の教導では『主はこう仰せられる。』という神の言葉であることを示す前置きがありませんでした。

【24:2】
『『あなたがたの先祖たち、アブラハムとナホルの父テラは、昔、ユーフラテス川の向こうに住んでおり、ほかの神々に仕えていた。』
 『テラ』はアブラハムの父でしたから、ユダヤ人の先祖です。このテラにはアブラハムとナホルとハランが生まれましたが、ハランはこの箇所で省かれています。これはハランが父テラよりも早くウルで死んでいたからだと思われます(創世記11:28)。テラはユーフラテス川の東に住むセム系でした。このテラは血縁的に言えばユダヤ人の源流ですが、契約的に言えばそうではありません。何故なら、キリストにおける救いの契約が結ばれたのはテラでなくアブラハムからだったからです。ユダヤ人の契約の民としての歴史はこのアブラハムから始まったのです。ですから、ユダヤ人はまだテラの時代において契約の民ではありませんでした。テラは偶像崇拝者であり、キリストにおける契約を神と結んでいませんでしたから、今は滅びるべき無割礼の民として地獄にいるはずです。テラが救われていたことを示す箇所は聖書に確認できません。

【24:3~4】
『わたしは、あなたがたの先祖アブラハムを、ユーフラテス川の向こうから連れて来て、カナンの全土を歩かせ、彼の子孫を増し、彼にイサクを与えた。ついで、わたしは、イサクにヤコブとエサウを与え、エサウにはセイルの山地を与えて、それを所有させた。ヤコブと彼の子らはエジプトに下った。』
 アブラハムはユーフラテス川からカナンの地に導かれ、その地を神から与えられたので、その地を受けた証しとしてそこを東西南北に歩きました(創世記13:17)。それから、アブラハムはかなりの高齢であったのに、神の恵みにより子孫を授かりました。その子孫の一人であるイサクにはヤコブとエサウが生まれます。このうちヤコブは神から愛され祝福を受けましたが、エサウは神から憎まれ祝福を逃しました。前者はその子孫とエジプトに行き、後者とその子孫はセイルの山地をその住まいとしそれからエドム人と呼ばれるようになりました。これらは創世記に書かれていたことです。

【24:5~7】
『それからわたしは、モーセとアロンを遣わし、エジプトに災害を下した。わたしがその真中で行なったとおりである。その後、あなたがたを連れ出した。わたしが、あなたがたの先祖たちをエジプトから連れ出し、あなたがたが海に来たとき、エジプト人は、戦車と騎兵とをもってあなたがたの先祖たちのあとを追い、葦の海まで来た。あなたがたが主に叫び求めたので、主はあなたがたとエジプト人との間に暗やみを置き、海に彼らを襲いかからせ、彼らをおおわれた。あなたがたは、わたしがエジプトで行なったことをその目で見たが、長い間、荒野に住んだ。』
 それから神はモーセとアロンを起こされ、奴隷状態としてエジプトにいたユダヤ人を、その大いなる御力をもって救われ連れ出されました。その時、エジプト人はエジプトから連れ出されたユダヤ人を取り戻そうと『戦車と騎兵とをもって』追いましたが、真っ二つに裂かれた紅海に呑み込まれて滅ぼし尽くされました。これは出エジプト記で既に見た通りです。そして、シナイの荒野に導かれたユダヤ人は、その荒野で40年の間住むことになります。前にも述べたことですが、何もないシナイの荒野でユダヤ人が長らく生きていたというのは、神が本当におられユダヤ人と共におられたことをまざまざと証明しています。何故なら、もし神がユダヤ人と共にいて彼らを養っておられたのでなければ、どうして惨めな荒野で100万人を超える人々が40年もの長きに亘って生き続けることができたでしょうか。普通に考えて、神が共におられなければ、そんなことは不可能に近いと健全な感覚を持った人であれば分かるはずです。私が今言ったことをよく理解したければ、グーグルマップであの荒野がどのような状態であるか確かめてみるとよいでしょう。そうすれば、たった1人だけでも1か月さえ生きられるかどうか定かではないことが分かるはずです。

【24:8~10】
『それからわたしはヨルダン川の向こう側に住んでいたエモリ人の地に、あなたがたを導き入れた。彼らはあなたがたと戦ったが、わたしは彼らをあなたがたの手に渡したので、あなたがたはその地を占領した。わたしが、あなたがたの前から彼らを根絶やしにしたからである。それから、モアブの王ツィポルの子バラクが立って、イスラエルと戦い、ベオルの子バラムに人をやって彼を呼び寄せ、あなたがたをのろわせようとした。わたしはバラムに聞こうとしなかった。彼は、かえって、あなたがたを祝福し、わたしはあなたがたを彼の手から救い出した。』
 カナン侵攻の時期が近づくと、神は死海の東から北東に広がるエモリ人の地へユダヤ人を導き入れ、そこをユダヤ人に占領させて下さいました。ユダヤ人には神が共におられましたから、エモリ人はユダヤ人に対抗できませんでした。これは、もうその時にはエモリ人の罪が満ちており裁き滅ぼされるべき状態だったからです(創世記15:16)。また、この箇所ではあのバラムについても言及されています。バラムはバラク王に頼まれてユダヤを呪おうとしましたが、神はユダヤを祝福しておられましたから、バラムが呪うことを許されませんでした。このバラムについては既に民数記で見ておいた通りです。

【24:11~12】
『あなたがたはヨルダン川を渡ってエリコに来た。エリコの者たちや、エモリ人、ペリジ人、カナン人、ヘテ人、ギルガシ人、ヒビ人、エブス人があなたがたと戦ったが、わたしは彼らを、あなたがたの手に渡した。わたしは、あなたがたの前にくまばちを送ったので、くまばちがエモリ人のふたりの王をあなたがたの前から追い払った。あなたがたの剣にもよらず、またあなたがたの弓にもよらなかった。』
 それからユダヤ人はヨルダン川を渡りましたが、神はエリコを皮切りにカナンの諸地域を次々とユダヤ人の手に渡して下さいました。ユダヤ人の打ち倒せないカナン民族は全くありませんでした。神がユダヤ人と共におられたからです。また、神はヨルダン川の西側だけでなく東側でも敵を駆逐しておられました。それは『エモリ人のふたりの王』のことです。神はヨルダン川の東にいるこの2人の王を『くまばち』を用いて追い払われました。これはこの王たちが神により追い払われたことをユダヤ人に分からせるためであり、勝利と占領の栄誉が決してユダヤ人に帰されないためでした。何故なら、神から送られた熊蜂がエモリ人の王たちを打ち負かしたのであれば、ユダヤ人は自分たちがこの王たちを打ち負かしたなどと決して言えなくなるからです。

【24:13】
『わたしは、あなたがたが得るのに労しなかった地と、あなたがたが建てなかった町々を、あなたがたに与えたので、あなたがたはそこに住み、自分で植えなかったぶどう畑とオリーブ畑で食べている。』』
 神は、カナン人がそれまでに築き上げた文化的な営為を、ユダヤ人が獲得して用いるようになさいました。例えば、ユダヤ人はカナン人が既に建てていた家をその住まいとし、カナン人が使用していた井戸をそのまま使用しました。カナン人の耕していた『ぶどう畑とオリーブ畑』もユダヤ人が使えました。このようにユダヤ人はカナンに入植してから、多くの労苦をせずに済みました。一から何かを築き上げる必要がなかったからです。神は慈しみ深い御方ですから、ユダヤ人にこうして下さったのでした。もっとも、偶像とその祭壇は話が別です。これもそのまま用いることは許されませんでした。何故なら、それは徹底的に打ち壊さなければならなかったからです。こういうわけですから、カナン人はやがてユダヤ人に利用させるため諸々の文化的な営為を築き上げていたのでした。『罪人の財宝は正しい者のためにたくわえられる。』(13章22節)と書かれている通りです。カナン人は『罪人』でなくて何でしょうか。

 この箇所で主からの御言葉が終わり、次の14節目からヨシュアの言葉となります。

【24:14~15】
『今、あなたがたは主を恐れ、誠実と真実をもって主に仕えなさい。あなたがたの先祖たちが川の向こう、およびエジプトで仕えた神々を除き去り、主に仕えなさい。もしも主に仕えることがあなたがたの気に入らないなら、川の向こうにいたあなたがたの先祖たちが仕えた神々でも、今あなたがたが住んでいる地のエモリ人の神々でも、あなたがたが仕えようと思うものを、どれでも、きょう選ぶがよい。私と私の家とは、主に仕える。」』
 神がこのようにユダヤ人を恵んで下さったのですから、ヨシュアはユダヤ人が『主を恐れ、誠実と真実をもって主に仕え』ねばならないと言います。主がこれほどまでに良くして下さったにもかかわらず、謹んで主に仕えないのは忘恩であり咎められるべきだからです。『誠実と真実をもって』と言われているのは、つまり「偽善や二心を持たずに」という意味です。人の心を御覧になる神は純粋な服従を求めておられるからです。しかしながら、この時のユダヤ共同体には『先祖たちが川の向こう、およびエジプトで仕えた神々』である偶像がありました。既に荒野にいた時からユダヤ共同体には『星の神、キウンの像』(アモス5:26)がありましたから、カナンに入植してからもまだ偶像の神が残っていたことは間違いありません。ユダヤ人はエジプト脱出の時に自分たちがそれまで拝んでいた神々を連れて来たのです。そのガラクタは、荒野の時期にも、カナンに入ってからも、捨てられることがありませんでした。しかし、ヨシュアはユダヤ人がそのようなゴミくずを捨て去り、しっかり神に仕えるべきだと命じています。神の民が他の神々でなく神に仕えるというのは当然だからです。ところが、この時のユダヤ人はそのようなことさえ分からないほど霊的に鈍い状態でした。ですから、ヨシュアはいちいちこういった当たり前のことを命じなければいけませんでした。

 ヨシュアは、もしユダヤ人が神に仕えたくなければ『川の向こうにいたあなたがたの先祖たちが仕えた神々でも、今あなたがたが住んでいる地のエモリ人の神々でも』好きな神に仕えればよい、と言っています。『あなたがたの先祖たちが仕えた神々』とはテラがユーフラテス川の向こうで信じていた神々です。『エモリ人の神々』とはカナンの神々です。この時のヨシュアはユダヤ人に対し諦めのような思いを持っていたはずです。ですから、もしユダヤ人がヤハウェ神を嫌うのであれば好き勝手にして滅ぼされたらよいではないか、と放置するかのように言ったのです。もちろんヨシュアの願いはユダヤ人がヤハウェにこそ仕えることでした。しかし、ユダヤ共同体には偶像の神々が見られたのですから、ユダヤ人がヤハウェでなく他の神々に帰依するならばもはや自分にはどうすることも出来ないとヨシュアには思えたのです。

 一方、ヨシュア自身はといえば『主に仕える』と断言しています。これはヨシュアが敬虔な信仰者だったからです。ヨシュアはまた『私の家』も主に仕えると断言しています。『私の家』とはヨシュアを筆頭とするヨシュアに連なる氏族です。ヨシュアがこう言ったのは、ヨシュアの氏族もその長であるヨシュアの霊と同じ霊を持っていたからです。ルター派のキリスト者たちがルターの教義と精神に同調していることからも分かる通り、人間の集団はその指導者や始祖の霊と同様の霊を持つものなのです。ですから、ヨシュアが主に仕えるようにヨシュアの家も主に仕えるのでした。

【24:16~18】
『すると、民は答えて言った。「私たちが主を捨てて、ほかの神々に仕えるなど、絶対にそんなことはありません。私たちの神、主は、私たちと私たちの先祖たちを、エジプトの地、奴隷の家から導き上られた方、私たちの目の前で、あの数々の大きなしるしを行ない、私たちの行くすべての道で、私たちの通ったすべての民の中で、私たちを守られた方だからです。主はまた、すべての民、この地に住んでいたエモリ人をも、私たちの前から追い払われました。私たちもまた、主に仕えます。主が私たちの神だからです。」』
 欲するままにすればよいと突き放すかのように言ったヨシュアでしたが、ユダヤ人は自分たちもヨシュアとその家と同じく神に仕えると断言します。彼らがこう言ったのは、17~18節目で書かれている通り、主がユダヤ人たちを贖い出し、守り導き、敵に勝たせて下さったからです。確かにこのようにして下さった神に対しては、敬虔な服従をもって応えるのが当然の義務です。ユダヤ人の中には偶像がまだありましたが、それでも彼らはこのように言いました。ここで彼らが言った言葉そのものは正しい内容でした。しかし、人は口先だけならば何とでも言えるものです。キリストの例え話に出てくる兄も『行きます。』(マタイ21章29節)と口では言いましたが、行きませんでした。

【24:19~20】
『すると、ヨシュアは民に言った。「あなたがたは主に仕えることはできないであろう。主は聖なる神であり、ねたむ神である。あなたがたのそむきも、罪も赦さないからである。もしあなたがたが主を捨てて、外国の神々に仕えるなら、あなたがたをしあわせにして後も、主はもう一度あなたがたにわざわいを下し、あなたがたを滅ぼし尽くす。」』
 ヨシュアは、神への服従を断言した民に対し、その断言を打ち消して『あなたがたは主に仕えることはできない』と言います。ヨシュアが民の言葉を否定したのは、民を試し、その真意を確かめるためです。つまり、これは言葉による実験調査です。もしユダヤ人が本当に断言した通り神に服従する意思を持っていれば、ヨシュアに何を言われても服従しようとするはずです。しかし、ヨシュアに非難されないため一時しのぎをしようとして主に仕えると言ったに過ぎないのであれば、ヨシュアに自分たちの言葉を否定された際、何も言い返せず押し黙ってしまうでしょう。また20節目で言われている通り、もしユダヤ人が神を捨てて裏切るならば、それまでに与えられていた幸せは取り上げられ、幸せの代わりに滅びが与えられます。これは神の報いがその時の状態に応じて与えられるからです。敬虔な時に与えられていた幸せが、不敬虔になってからも継続して与えられるというのは、明らかに不合理であり神の賞罰に適っていません。これは世の中でも同様です。例えば、人が報酬を貰えるのは働いている時だけであって、働かなくなってからも報酬を貰うというのは例外的なケースを除けばないことです。働かなくなった人に報酬が停止されるのと同様、ユダヤ人も敬虔でなくなれば幸せの祝福が停止されるわけです。

 19節目で言われている通り、主は『聖なる神』であられますが、これは聖書の全体で何度も言われていることです。神は『聖』そのものであられ、悪も汚れも傷も全くありません。この聖なる神の御前では、セラフィムでさえ恥じて自分の身体を覆うほどです(イザヤ6:2)。聖なるセラフィムでさえ神とその聖性に対して引け目を感じなければいけないとすれば、神の聖性は一体どれだけなのでしょうか。また、この神は『ねたむ神』ですが、これも聖書の全体で何度も言われていることです。神は妬む神ですから、聖徒が神でない偽りの神々に帰依するならば、その聖徒を妬まれます。ちょうど夫が不倫をしている妻を妬むのと同じです。既に述べたことですが、このような妬みは愛に基づいているので全く問題のない妬みです。聖書が罪に定めているのは憎しみから出た愛なき妬みです。この神は『あなたがたのそむきも、罪も赦さない』御方です。聖書は、神が『咎とそむきと罪を赦す者』(出エジプト記34章7節)だと啓示しています。しかし、この箇所でヨシュアはそれと異なることを言っています。確かに神は人の罪をキリストにおいて赦して下さる御方です。ですから、ヨシュアがここで神について『そむきも、罪も赦さない』と言っているのは、ある場合、ある状況のことです。すなわち、これは「もし人があくまでも頑なに従うことを拒んで罪に歩み続けるならば決して赦されることはない。」という意味です。もし神が罪を決して赦されない御方であれば、あらゆる人間は例外なく地獄に行かねばならなくなるでしょうから。

【24:21~22】
『それで民はヨシュアに言った。「いいえ。私たちは主に仕えます。」それでヨシュアは民に言った。「あなたがたは、主を選んで、主に仕えるという、自分自身の証人である。」すると彼らは、「私たちは証人です。」と言った。』
 ユダヤ人には本当に神に仕える気持ちがありましたから、ヨシュアに自分たちの言葉を否定されても、『いいえ。私たちは主に仕えます。』と言い返しました。ヨシュアはユダヤ人たちの真意を悟りましたから、ユダヤ人自身が神に仕えることの証人だと宣言します。これでユダヤ人はもう神に仕える以外の歩みをすることが出来なくなりました。何故なら、もしユダヤ人が神に背けば、ユダヤ人は自分たちを『私たちは主に仕えます。』と言った自分の言葉により断罪することになるからです。つまり、これからユダヤ人が神に仕えなければ弁解の余地は全く無くなるので、当然のこととして大きな裁きを受けねばならなくなります。

【24:23~24】
『「今、あなたがたの中にある外国の神々を除き去り、イスラエルの神、主に心を傾けなさい。」民はヨシュアに言った。「私たちは私たちの神、主に仕え、主の御声に聞き従います。」』
 主に対して服従すると示したユダヤ人でしたが、ヨシュアはもし主に仕えるならば偶像の神々を取り除くべきだと、当然のことをユダヤ人に命じます。この命令に対し、ユダヤ人は『神、主に仕え、主の御声に聞き従います。』とだけ答えます。このように言った民が偶像を取り除いたかどうか聖書には書かれていません。恐らく民はこのように言ってから偶像のゴミくずを取り除いたと思われます。というのも、ユダヤ人はこのように言ってからすぐ契約を結んだからからです(ヨシュア24:25)。確かなところ、ユダヤ人は偶像を取り除かなければ神に仕えることができませんでした。何故なら、神に仕えるならば偶像に仕えることはできず、偶像に仕えるならば神に仕えることはできないからです。これはキリストが『だれも、ふたりの主人に仕えることはできません。』(マタイ6章24節)と言われた通りです。ユダヤ人は神が偶像か、どちらか一つしか仕える対象を持てません。彼らが神を選んで偶像を諦めるべきだったのは言うまでもありません。

【24:25~28】
『それでヨシュアは、その日、民と契約を結び、シェケムで、おきてと定めを定めた。ヨシュアは、これらのことばを神の律法の書にしるし、大きな石を取って、主の聖所にある樫の木の下に、それを立てた。そして、ヨシュアはすべての民に言った。「見よ。この石は、私たちに証拠となる。この石は、主が私たちに語られたすべてのことばを聞いたからである。あなたがたが自分の神を否むことがないように、この石は、あなたがたに証拠となる。」こうしてヨシュアは、民をそれぞれ自分の相続地に送り出した。』
 民が神への服従を示したので、ヨシュアは民と契約を結びます。この契約はかつてユダヤ人が結んだ契約と同様の契約だったと思われます(出エジプト記24:3~8)。

 こうしてヨシュアは神の『おきてと定めを定め』、それを『神の律法の書にしるし』、証拠としての『大きな石』を聖所のところに立てました。この大きな石は、ユダヤ人が神に服従すると言ったことの証明としての役目を持っています。この石があるため、ユダヤ人は「私たちは主の掟を聞いたことがなかった。」などと言い訳をすることができません。そのような言い訳をすれば、誰かが石を指してこのように反論できるからです。「では、この石は何なのか。この石はあなたがたが掟を聞いた時に掟を聞いた証拠として立てられた石だったはずである。」この石ですが、これがイエス・キリストの象徴であることは間違いありません。何故なら、この時にユダヤ人は神と契約を結んだからです。神と人との契約を仲介する存在はただイエス・キリストお一人だけです。それはパウロが『神と人との間の仲介者も唯一であって、それは人としてのキリスト・イエスです。』(Ⅰテモテ2章5節)と言った通りです。このため、ユダヤ人は契約を結んだ『主の聖所にある樫の木の下に』契約の仲介者であられるキリストの象徴として石を立てたのです。

 このようにしてユダヤ人はそれぞれ自分たちに定められた相続地に帰り、そこで住むようになりました(28節)。この時、シェケムにはヨルダン川の東にいた2部族と半部族も呼び寄せられていました。彼らもヨルダン川を越えて東にある相続地に帰って行きました。

【24:29~30】
『これらのことの後、主のしもべ、ヌンの子ヨシュアは百十歳で死んだ。人々は彼を、エフライムの山地、ガアシュ山の北にある彼の相続の地境ティムナテ・セラフに葬った。』
 こうして後、ヨシュアは『百十歳で死んだ』のですが、ヨシュアが天国に行ったことは間違いありませんから、私たちもやがてこのヨシュアに会うことになります。ヨシュアの死んだ場所また死因が何だったかは分かりません。また彼がユダヤ人を集めて教導してから、どれだけの年月を生き延びたかも、よく分かりません。彼が『百十』歳で死んだことに数字的な意味はないはずです。「110」は聖書において何も意味を持たないからです。これを「11かける10」と分解したとしても、「10」はともかく「11」には聖書的な意味がありませんから、これは意味の分からない分解です。「55かける2」というのも意味不明な分解です。彼が「110」歳で死んだことに数字的な意味はなかったとしても、これは恐らくモーセより祝福の度合いが少なかったことを示しているのかもしれません。何故なら、ヨシュアはモーセよりも10年早く死んだからです。確かにヨシュアはモーセと比べるならば神から多くの祝福を受けていませんでした(誰がこれを疑うでしょうか)。しかし、このヨシュアもモーセと同じで『主のしもべ』でした。彼の遺体は『エフライム』の相続地に葬られましたが、これは彼がエフライム族だったからです。『ティムナテ・セラフ』はアヤロンの東にあり、北のほうにかなり長い川が流れています。ところで、このヨシュアもミスを犯したことが聖書には書かれています。それはモーセの上にある霊が長老たちにも分与された際、その出来事に対し愚かにも不満を述べたことです(民数記11:28)。聖なる歴史で活躍した偉大な人物が犯した愚行を記録していないのは、聖書の中でステパノやダニエルといったごく僅かな人たちだけです。聖書は、このヨシュアを含めほとんど全ての聖なる人物が犯した愚行をまざまざと記録しています。これは、人間の神格化を防止するためであり、また人間的に見れば偉大な人物であってもやはり堕落した罪人に過ぎなかったことを示すためなのです。

【24:31】
『イスラエルは、ヨシュアの生きている間、また、ヨシュアのあとまで生き残って、主がイスラエルに行なわれたすべてのわざを知っていた長老たちの生きている間、主に仕えていた。』
 ユダヤ人は、ヨシュアおよびヨシュアと共にいた長老たちが生きている間、主にしっかり服従していました。これはヨシュアと長老たちが神の『わざ』をまざまざと見ており、そのため神を恐れていたからです。彼らは神を恐れていたので、正しい心をもって神に従っていました。指導者である彼らが神に従っていたので、彼らから教導される会衆も神に従っていたのです。ソロモンが『支配者が偽りのことばに聞き入るなら、従者たちもみな悪者になる。』(箴言29章12節)と言った御言葉からも分かるように、下にいる者たちは上の者に同調するものなのです。指導者は頭であり、民衆は肢体です。肢体である者たちが頭である者たちと一致するのは理の当然です。このため、ユダヤの指導者が敬虔であれば民衆の全体も敬虔となりました。逆に、指導者が神に従わなければ民衆も神に従おうとはしないのです。この箇所ではユダヤ人たちがヨシュアおよびヨシュアと一緒にいた長老たちの『生きている間、主に仕えていた』と書かれていますから、つまり彼らの死後はユダヤ人たちが主に仕えなくなったということを示しています。もし彼らの死後もユダヤ人が主に仕えていたとすれば、聖書はそのことをしっかり書いていただろうからです。

【24:32】
『イスラエル人がエジプトから携え上ったヨセフの骨は、シェケムの地に、すなわちヤコブが百ケシタでシェケムの父ハモルの子から買い取った野の一画に、葬った。そのとき、そこはヨセフ族の相続地となっていた。』
 かつてヨセフは自分の遺体をカナンの地に携え上るよう願いましたが(創世記50:25)、この時に彼の願いは叶えられました。ユダヤ人がエジプトから脱出する際、それまで400年も保存されていたヨセフの骨を持ち出していたからです。その骨はシェケムの『ヤコブが百ケシタでシェケムの父ハモルの子らから買い取った野の一画』に葬られましたが、これはエバル山とゲリジム山の麓です。ヨセフの抜け殻は既に骨となっていましたが、それは骨ですから400年もずっと保存しておくことができました。このようにユダヤ人がヨセフの願いを叶えたのは正しいことでした。ヨセフが自分の遺体をカナンに携え上るよう願ったのは、神がやがて必ずユダヤ人にカナンの地を与えて相続させて下さると信じて疑っていなかったからです。つまり、ヨセフがこのように願ったのは、彼が持っていた神の約束に対する堅固な信仰を反映していました。このヨセフの葬られた地は『ヨセフ族の相続地となっていた』のですが、これはマナセの半部族のことです。

【24:33】
『アロンの子エルアザルは死んだ。人々は彼を、彼の子ピネハスに与えられていたエフライムの山地にあるギブアに葬った。』
 アロンの後継者として大祭司になっていたエルアザルも、他の全ての人間がそうなるのと同様に死にました。彼はモーセやアロンやヨシュアと同様に天国に行ったはずです。このエルアザルの死んだ場所や死因は分かりません。エルアザルは彼の子ピネハスに与えられていた『ギブア』に葬られましたが、これはエルサレムの北10kmほどの場所にあり、エフライムの領地でした。エルアザルが死んでからはその子ピネハスがイスラエルの大祭司となりました。