是非、目を覚まして頂きたい。

 どうして信じようとしないのでしょうか。キリストは、御自分の御前にいたユダヤ人が生きている間に再臨が起こると言われました。こうです。『まことに、あなたがたに告げます。ここに立っている人々の中には、人の子が御国とともに来るのを見るまでは、決して死を味わわない人々がいます。』(マタイ16章28節)パウロもこのキリストの御言葉に基づき、自分たちが生きている時代に再臨が起こると言いました。こうです。『私たちは主のみことばのとおりに言いますが、主が再び来られるときまで生き残っている私たちが、…』(Ⅰテサロニケ4章15節)。

 再臨が預言されているマタイ24章は、第一次ユダヤ戦争(66-70)の時期について書かれた箇所です。『そのときは、ユダヤにいる人々は山へ逃げなさい。』(マタイ24:16)とキリストは言われました。これはローマ軍がユダヤを滅ぼしに来るからであり、山へ逃げれば助かる見込みがあったからです。実際、歴史が示している通り、当時の聖徒たちは苦難が訪れた際、ペラという山まで行って難を逃れました。マタイ24章の並行箇所であるルカ21章の20節目ではこう書かれています。『しかし、エルサレムが軍隊に囲まれるのを見たら、そのときには、その滅亡が近づいたことを悟りなさい。』これはローマ軍によるエルサレム包囲のことです。ヨセフスの「ユダヤ戦記」を読んだことがないのでしょうか。

 再臨が起きた証拠ですか。それならばあります。実際、第一次ユダヤ戦争の時、聖書が述べている通り、上空に戦車部隊が現われたのです(イザヤ66:15)。ヨセフスとタキトゥスがそのことを書き記しています。ヨセフスは第一次ユダヤ戦争の時に起きたこの出来事について、こう書いています。「またその後、祭が終わって何日もたたないアルテミシオスの月の第21日にも、信じがたい、ダイモニオンか何かが起こした現象が認められた。実際わたしがこれから語ろうとする事柄は、それを見た者が語ったり、その後で凶兆どおりの不幸が起こらなかったら、面妖奇怪な作り話として一笑に付されるのではないかと思われる。日没前に、国中の各地で、戦車が天空に現れ、武装した密集隊形の兵士たちが雲の中を疾走し、町々を包囲していたのである。」(『ユダヤ戦記3』ⅤⅠ v3:288~300 p070~072:ちくま学芸文庫)誰もが認める超一級の歴史家として名高いタキトゥスも、第一次ユダヤ戦争の時期に起きたこの出来事について、こう書いています。「不思議な現象が起っていた。迷信にとらわれ、ローマの宗教儀式に敵意を抱くユダエア人は、犠牲や祈願でこれらの現象の汚れを祓い清めることを是認しなかった。天空で戦列が衝突し、武器が火花を散らすのが見られた。」(『同時代史』第5巻 13 p276:筑摩書房)再臨の証拠としては、この2人の歴史家による証言だけがあれば、私たちにとってそれで十分です。何故なら、パウロが律法に基づいて言った通り、『すべての事実は、ふたりか三人の証人の口によって確認されるのです』(Ⅱコリント13章1節)から。

 人の目が怖いのですか。今の立場を失うのが不幸に感じられるのですか。それでは人の目を憚って告白しないでいたパリサイ人と一緒ではありませんか(ヨハネ12:43~43)。また、分かっていながら公に告白しない人はコペルニクスのようでもあります。コペルニクスは迫害されることを恐れましたから、自分の生きている間は地動説を堂々と主張しようとしませんでした。私たちはルターのようになろうではありませんか。ルターは誰の目も全く気にせず堂々と聖書の真理を告白しました。

 先生方。「再臨論」があります。是非、これを読んで、再臨の正しい理解を得て頂ければと思います。
『再臨論』

 「私たちは聖書だけだ。」と言っておられるではありませんか。では、どうして再臨成就説を受け入れようとしないのですか。もし聖書だけに堅く立つのであれば、この再臨成就説を受け入れるしかないはずです。何故なら、聖書は再臨成就説を支持しているからです。Ⅱテサロニケ2章でも、再臨により滅ぼされる不法の人が、既にパウロの時代にいたと言われているではありませんか。そこでパウロが言っているのは、つまり不法の人であるネロが、まだその時はクラウディウスの治世だったゆえ、暴君として現われることを妨げられていたということです。パウロがⅡテサロニケ2章で言っていることは、これ以外に正しい解釈をすることができません。であれば、再臨はパウロの時代に起きたことになります。パウロが2千年経ってもまだ現われない存在を、自分の生きていた時代から既に生きていたと言ったというのは、あり得ない出鱈目な解釈です。是非、目を覚まして頂きたい。

稲野晴也
mail@sbkcc.net

■2022/04/15(金)